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鳥公園・新体制に向けてご支援のお願い

鳥公園は、11月の新作公演『終わりにする、一人と一人が丘』を以て、西尾佳織が作・演出を兼ねる創作体制を終わりにし、劇作・主宰の西尾佳織と、和田ながら、蜂巣もも、三浦雨林の演出家3人で組む新体制に移行します。持続可能な創作環境について、仕組みから一緒に考えサポートするメンバーになっていただけませんか?

現在の支援総額

1,996,000

99%

目標金額は2,000,000円

支援者数

168

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2019/11/21に募集を開始し、 168人の支援により 1,996,000円の資金を集め、 2019/12/15に募集を終了しました

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現在の支援総額

1,996,000

99%達成

終了

目標金額2,000,000

支援者数168

このプロジェクトは、2019/11/21に募集を開始し、 168人の支援により 1,996,000円の資金を集め、 2019/12/15に募集を終了しました

鳥公園は、11月の新作公演『終わりにする、一人と一人が丘』を以て、西尾佳織が作・演出を兼ねる創作体制を終わりにし、劇作・主宰の西尾佳織と、和田ながら、蜂巣もも、三浦雨林の演出家3人で組む新体制に移行します。持続可能な創作環境について、仕組みから一緒に考えサポートするメンバーになっていただけませんか?

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鳥公園の新体制についてのコメント

 

演劇は上演にいたるまでの行程を含めて、ある運動をつくりだすことだと思います。その運動体をどのように組織するのかということが鳥公園の新体制についての声明では問われており、現行の演劇においてはその組織のありようが自明のものとなっていることへの問題提起であり、その自明さが権力構造を固定化していることへの抵抗でもあると私は理解しました

それは主体集団をつくりだすことであり、主体化のプロセスそのものです。そのプロセスによって、私たちの世界の現状における見ること」と「言うこと」の強固なつなが分解されそのつながりの基準を失ったうえで、いま、私たちは何をどう見ることができるのか、何をどう語ることができるのかという問題を表明することできるようなるのかもしれません。それはつまり、いま・ここの光と声の体制をつくりなおすことであり、可視性と言表可能性をそれぞれに力強く推し進めることだと思われます。

運動はさまざまな行動(アクション)によって構成され、そのことによってカタチづくられます。しかし、主体集団による運動体は形態をつくりつつも、常に変容し続ける行程自体でもあるわけで、そこでの運動を構成するのは行動にうつる前の行為(アクト)や徴候(ンプトム)との関係のではないでしょうか運動体とは、そのような名づけられない行為や徴候でできた信号(サインを取り扱う集団なのかもしれません

複数性によって構成されている新体制というのは、人物による複合体というだけではなく、このような行為(アクト)の集まりではないかと思います。「行動」が既にカタチづくられた主体に関係づけられるのに対して、「行為」は主体が誰なのか判別できないままに、未だ主体として形成されえない分子的な集合体によってなされるものです。いや、なされるというよりも、上演にいたる過程でいくつもの「行為」が生じてくると言うほうがいいのかもしれません。

この世界はおぞましく耐えがたい出来事に満ちています。それを前にして、すぐに行動にうつれる状況もあります。押されたら押し返すように。何か言われたら何かを言い返すように。そのように現実へのアクションをうまくカタチづくれる場合もあって、それが表現になっていたりしています。社会にはびこる空気をモチーフとしたィクションのつくりかたがうまい人たちもいます。けれども、私はあまりそのような創作現場を信用していません。私はすぐに行動にうつれないからです。おそらく、既にある価値観によってなされる行動では動けないからだと思います。おぞましく耐えがたいものを前にして、それをただただ呆気にとられて見ることしかできない。それらの出来事はおそらく、既にある人間の経験によってつくられた基準からは大きくはみ出しているように感じますそうでありながらも、私たちは人間の経験のレベルうまくおさまるようにそれらを認識しようとタカを括っています。おぞましく耐えがたいものに対しては愚直な態度で臨というのでもない気がします。素直で不器用な表現なんてものが、それ自体で価値づけられるわけがありません。率直さや素朴さも耐えがたさへのステレオタイプな反応にすぎないからです西欧的な個人重視の主体よりもアジア的な主客の曖昧な価値観のほうへというのも同様のクリシェの反復です。

戦略が必要だと思います。私たちの行動を細かく微分していき、それら行為変数として書き込むような戯曲を書くこと。権力に結びついてしまう主体による行動を解体し、再度、それを微弱な身ぶりに変換するような上演のために。

この行為には誰からも顧みられない弱さ(マイナー性)しかありませんが、そは表現としての強度があります。強度とは、未だ到来することのない物事へと開かれる力です。私たちの時間は既に未だの間の現在にあって「既に」を基準に進みますが、新しい体制のもとにある時間は、その「既に」のうちに「未だ」を見すためにこそ動きすのです。 

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