「鳥公園の新体制についてのコメント」
演劇は、上演にいたるまでの行程を含めて、ある運動をつくりだすことだと思います。その運動体をどのように組織するのかということが鳥公園の新体制についての声明では問われており、現行の演劇においてはその組織のありようが自明のものとなっていることへの問題提起であり、その自明さが権力構造を固定化していることへの抵抗でもあると私は理解しました。
それは主体集団をつくりだすことであり、主体化のプロセスそのものです。そのプロセスによって、私たちの世界の現状における「見ること」と「言うこと」の強固なつながりが分解され、そのつながりの基準を失ったうえで、いま、私たちは何をどう見ることができるのか、何をどう語ることができるのかという問題を表明することができるようになるのかもしれません。それはつまり、いま・ここの光と音声の体制をつくりなおすことであり、可視性と言表可能性をそれぞれに力強く推し進めることだと思われます。
運動はさまざまな行動(アクション)によって構成され、そのことによってカタチづくられます。しかし、主体集団による運動体は形態をつくりつつも、常に変容し続ける行程自体でもあるわけで、そこでの運動を構成するのは行動にうつる前の行為(アクト)や徴候(シンプトム)との関係なのではないでしょうか。運動体とは、そのような名づけられない行為や徴候でできた信号(サイン)を取り扱う集団なのかもしれません。
複数性によって構成されている新体制というのは、人物による複合体というだけではなく、このような行為(アクト)の集まりではないかと思います。「行動」が既にカタチづくられた主体に関係づけられるのに対して、「行為」は主体が誰なのかが判別できないままに、未だ主体として形成されえない分子的な集合体によってなされるものです。いや、なされるというよりも、上演にいたる過程でいくつもの「行為」が生じてくると言うほうがいいのかもしれません。
この世界はおぞましく耐えがたい出来事に満ちています。それを前にして、すぐに行動にうつれる状況もあります。押されたら押し返すように。何か言われたら何かを言い返すように。そのように現実へのアクションをうまくカタチづくれる場合もあって、それが表現になっていたりしています。社会にはびこる空気をモチーフとしたフィクションのつくりかたがうまい人たちもいます。けれども、私はあまりそのような創作現場を信用していません。私はすぐに行動にうつれないからです。おそらく、既にある価値観によってなされる行動では動けないからだと思います。おぞましく耐えがたいものを前にして、それをただただ呆気にとられて見ることしかできない。それらの出来事はおそらく、既にある人間の経験によってつくられた基準からは大きくはみ出しているように感じます。そうでありながらも、私たちは人間の経験のレベルにうまくおさまるようにそれらを認識しようとタカを括っています。おぞましく耐えがたいものに対しては愚直な態度で臨むというのでもない気がします。素直で不器用な表現なんてものが、それ自体で価値づけられるわけがありません。率直さや素朴さも、耐えがたさへのステレオタイプな反応にすぎないからです。西欧的な個人重視の主体よりもアジア的な主客の曖昧な価値観のほうへというのも同様のクリシェの反復です。
戦略が必要だと思います。私たちの行動を細かく微分していき、それらの行為を変数として書き込むような戯曲を書くこと。権力に結びついてしまう主体による行動を解体し、再度、それを微弱な身ぶりに変換するような上演のために。
この行為には誰からも顧みられない弱さ(マイナー性)しかありませんが、そこには表現としての強度があります。強度とは、未だ到来することのない物事へと開かれる力です。私たちの時間は「既に」と「未だ」の間の現在にあって「既に」を基準に進みますが、新しい体制のもとにある時間は、その「既に」のうちに「未だ」を見だすためにこそ動きだすのです。