この何年間か、鳥公園について、というか西尾さんについて考えていたことは『終わらせる一人と一人が丘』を控えたタイミングで実施したこのインタビュー(https://www.engekisaikyoron.net/bird-park-kaori/)でそれなりに書いたり質問したりしたので、内容が被ってしまうけれど、西尾佳織の皮膚感覚を私はとても信頼している。多くの人が「まぁ、世の中、大体こんな感じだから」と前提にしているもの、意識的な人でも「次から直していきましょう」とすることを、「それはわかるんですけれども……」と立ち止まり、考え、言葉にし、行動に移す。彼女のそうした一連は息の長い問いとなり、水紋のように広がる。その中心にあるのが今回は、劇団という集団の存在の仕方、創作のプロセスの見直しであり、公共の資金を芸術が使うことの再考なのだろう。
でも私が期待したいのは、実はその広がりの先で、具体的に言うと俳優の意識の変化だ。鳥公園の体制変更のアナウンスにもあった、ある俳優の「演出家はみんなのお父さんみたいな存在だから」という発言は決して特別なものではなく、多くの稽古場に流れている空気だと思う。最近は「自立した俳優」という言葉も聞かれるようになり、俳優同士でユニットをつくったり、戯曲を書いたり、自分達で演出もする俳優が増えている(念の為に書いておくと、戯曲を書いたり演出したりするようになることが俳優の自立という意味ではない)が、それにしても日本の俳優の多くは、戯曲を読む力があまりに足りない。戯曲や演出について語る言葉をあまりに持っていない。せりふの意味や物語の背景といった説明から、動きや声のトーンなどの具体的な指示まで、親鳥が運んでくる餌を口を開けて待つ雛鳥のように、当然の姿勢として受け身でいる人がとても多い。演出家に言われた通りにまずやってみる、という態度は俳優にとって大事だし、私自身、自意識が消えて、何か大きな対象への捧げものの器になったような俳優が好きだが、戯曲について考え、疑い、試し、それを言葉にできる俳優が今よりずっと増えたら、上演作品は飛躍的におもしろくなるだろうと夢想することは、よくある。
クラウドファンディングの本文にも書かれているが、先のインタビューで西尾さんは、俳優と話している過程で「私と劇団員の間の問題だけではなくて、客演の俳優さんやスタッフさんまで含めた私達の乗っている土台自体が腐っているのかもという考えがよぎったんです。でもそれを劇団員と話すしかないから根本的には解決しなくて」と語っている。今回のクラウドファンディングはそこを出発点にしているのだから、まずメスを入れたのが主宰&劇作家の自分と演出家を切り離し、複数の演出家を同時に迎えたことでも、治療としては俳優の意識の持ち方にまで効果が及ぶはずだ。時代感覚の鋭い劇作家が書き、知的な演出家が手掛けた舞台はそこそこたくさん観ているので、知識と感性の豊かな俳優がそこに加わる作品が増えていくのを願っている。