相撲の始まりは、日本書紀の「十一代垂仁(すいにん)天皇が野見宿禰(のみのすくね)と當麻蹴速(たいまのけはや)に力比べをさせた」という記述が起源といわれています。稲作文化を持つ日本で、豊作を祈願する神事として相撲が始まり、江戸時代には職業力士が全国各地を巡業するようになりました。 丹生山田の里には、江戸時代に活躍した力士の記念碑が残っています。今回は中村の大歳神社境内にある「八弦山直吉」の力石を紹介します。 「八弦山直吉」は中村出身の大坂相撲の幕内力士で、出世も早く三役入り確実と思われた安政3年(1856年)、加賀金沢で巡業中に倒れ、道半ばにして帰らぬ人となりました。幼少期から怪力で、15歳の時には5斗俵(75kg!)を2俵!軽々と持ち上げたといわれており、写真の力石は、八弦山が持ち上げて以降誰も持ち上げていないと伝えられています。 他にも「大木戸弾右衛門」「嵐山」「白富士」「新玉塔」「山田川」など丹生山田の里は多くの郷土力士を輩出しており、その功績を称えた供養塔などが残されています。古くから地域で相撲に親しんできた証拠でしょうか、今も毎年5月5日には、丹生山の山頂で子ども相撲が行われています。丹生山の子ども相撲 そして平成27年からは、毎年3月に大阪で開かれる大相撲春場所のときに、尾上部屋が山田町原野の箕谷グリーンスポーツホテルに宿泊しています。地域住民有志で後援会を結成し応援しています。いつか丹生山田の里から大相撲力士が出たらいいですね。
史跡 の付いた活動報告
丹生山田の里には、その昔ダム湖に沈んだ村がありました。その名は衝原(つくはら)村。衝原は「尽く原」という説もあるように、山田川が開いた原が、下流の三木市との境界あたりで、再び谷が狭まっているところに位置しています。ここは摂津の最西端として昔から様々な勢力が衝突する地点でもありました。 このような衝原村も、平成4年に呑吐(どんと)ダムが完成し、現在はつくはら湖の水底に眠っています。なお、村の一部は湖の上流に移転し新しい集落を営んでいます。この中には日本最古(!)の民家といわれる「箱木千年家」も含まれており、これについては別の機会を設けて紹介したいと思います。つくはら湖展望台からの眺め。奥に見えるのが呑吐ダムです。 さて、なぜダムを建設する必要があったのか…。実は、さらに下流の東播磨地域は降雨量が少ないため昔から水不足に悩まされていながら、ため池など不安定な水源に頼っていました。大正4年には山田川から農業用水を供給するため、坂本交差点の付近に堰と取水口を設け、「山田川疎水」という水路が建設されています。その後、さらに安定した水源とするため、住民の苦渋の決断ののち呑吐ダムが建設されたのでした。昭和15年ごろの山田川疎水の取水口昭和39年ごろの山田川疎水の水門と堰 現在つくはら湖の周りには「神出(かんで)山田自転車道」というサイクリングロードが通っており、湖面を眺めながらのんびりとしたサイクリングをすることができます。この11月10日にはリニューアルオープンするということで、六條八幡宮に立ち寄りながら西区神出町までサイクリングするイベントが予定されているようです。また、つくはら湖の周りではバイクでツーリングをする人も見られます。このような史跡巡りも楽しいのではないでしょうか。サイクリングロード 呑吐ダムでは最近話題の「ダムカード」も配布されていると聞きます。今度もらいに行ってこようと思います。また報告しますね!
本日はガイドマップ改訂のワーキンググループを開催しました。 いつも写真のメンバーで頑張っています! 今回のワーキンググループでは、解説書の内容について、文献に照らし合わせて適切な記述となっているかメンバーで議論しました。例えば神社に伝わる由緒が現存する文献では確認できない場合もあります。ひとつひとつ歴史を紐解いていく作業を進める中で、奥の深さを改めて感じた一日でした。真剣に議論中!後ろの壁には山田の史跡の写真が見えます ガイドマップ改訂作業、順調に進んでいます。お楽しみに!
1770年ごろ、徳川10代将軍家治の時代の話です。村の田畑は日照りの害が多いのにもかかわらず租税が高く、かねてから代官に訴え続けてきたのに聞き入れられなかったそうです。 このあたりの領主だった下総古河藩主土井大炊頭が、領内見回りのついでに福地に立ち寄った時のこと。当時の庄屋の子、村上新兵衛がこの石の陰から突然飛び出し、年貢の軽減を訴えました。 当時直訴は大罪です。新兵衛は直ちに捕らえられますが、15歳の少年が述べる筋が通った言い分を聞いた大炊頭は大いに感心し、少年の勇気を称して、罪を問うことなく許したうえ、年貢の軽減も聞きとげたといいます。 村人の喜びの記念として残された「新兵衛石」は、神戸市バス111系統福地バス停から無動寺へ行く途中にあります。「新兵衛石」の由来を記した石碑
9月30日の活動報告『はじめまして!』では、ここ「丹生(たんじょう)山田の里」の由来を、神功皇后が行幸されたという故事によると簡単に説明しました。なぜ「丹生」かわかりますか?今回改めて紹介させていただきます。 広辞苑で「に【土・丹】」と引くと①つち。②赤色の土。あかつち。あかに。③赤土で染めた、赤色。と出てきます。赤土が産出される土地だったのでしょうか・・・? 播磨国風土記逸文に、神功皇后が新羅出兵のとき、山田の里のある山の赤色の丹土を魔除けとして船などに塗り、無事帰国したというくだりがあります。この故事が「丹生山田の里」の由来となっており、その山は「丹生山(たんじょうさん)」と呼ばれることになりました。 上の写真は、丹生山の麓にある鳥居です。ここから山頂の丹生神社(たんじょうじんじゃ)まで参道が続きます。参道を行くと山に差し掛かるあたりに宝物殿があり、藤原鎌足の木像、明要寺曼陀羅図(平清盛贈、後述)、豊臣秀吉書状、同茶釜などが収められています。通常は年1回のみ公開しますが、ほかの史跡とあわせて内部をご案内するツアーをリターンとして準備しております。丹生神社宝物殿参道 神仏習合の地とされた丹生山には、山頂に明要寺跡があります。541年、百済国聖明王の太子童男行者の建立とされる明要寺は、神戸の福原に遷都した平清盛が参詣したと伝えられています。明要寺曼陀羅図は平清盛が福原京遷都にあたり、比叡山を背後地とする平安京になぞらえて、丹生山一帯を首都鎮護の地にとの願いを込めたものでしょう。しかし、明要寺の繁栄も戦乱の世のなかで終わりを告げます。この話は日をあらためて紹介いたします。