9月30日の活動報告『はじめまして!』では、ここ「丹生(たんじょう)山田の里」の由来を、神功皇后が行幸されたという故事によると簡単に説明しました。なぜ「丹生」かわかりますか?今回改めて紹介させていただきます。
広辞苑で「に【土・丹】」と引くと①つち。②赤色の土。あかつち。あかに。③赤土で染めた、赤色。と出てきます。赤土が産出される土地だったのでしょうか・・・?
播磨国風土記逸文に、神功皇后が新羅出兵のとき、山田の里のある山の赤色の丹土を魔除けとして船などに塗り、無事帰国したというくだりがあります。この故事が「丹生山田の里」の由来となっており、その山は「丹生山(たんじょうさん)」と呼ばれることになりました。
上の写真は、丹生山の麓にある鳥居です。ここから山頂の丹生神社(たんじょうじんじゃ)まで参道が続きます。参道を行くと山に差し掛かるあたりに宝物殿があり、藤原鎌足の木像、明要寺曼陀羅図(平清盛贈、後述)、豊臣秀吉書状、同茶釜などが収められています。通常は年1回のみ公開しますが、ほかの史跡とあわせて内部をご案内するツアーをリターンとして準備しております。
神仏習合の地とされた丹生山には、山頂に明要寺跡があります。541年、百済国聖明王の太子童男行者の建立とされる明要寺は、神戸の福原に遷都した平清盛が参詣したと伝えられています。明要寺曼陀羅図は平清盛が福原京遷都にあたり、比叡山を背後地とする平安京になぞらえて、丹生山一帯を首都鎮護の地にとの願いを込めたものでしょう。しかし、明要寺の繁栄も戦乱の世のなかで終わりを告げます。この話は日をあらためて紹介いたします。