与謝蕪村は明和3年(1766)の秋から明和5年(1768)の夏にかけて讃岐・香川を訪れた。蕪村の讃岐行脚の目的は画業にあったといわます。画業において一応の地位を得、さらに俳諧も本格的に取り組んでいこうとする蕪村にとって讃岐への旅は、自分に課した再修業の意味があったに違いありありません。風景の美しさや、土地にまつわる数々の文学や歴史に触れながら、心ときめくものであったことでしょう。
明和3年(1766)、51歳の蕪村は京都を離れ、讃岐へ赴く。讃岐・琴平には望月宋屋門下の俳人が多く住んでいて、その中に当時妙法寺檀家総代の菅暮牛(琴平の豪商)がいました。
菅暮牛をはじめとする琴平の俳人仲間を訪ねるため、明和3年のある秋の夕方、蕪村は海路・丸亀の港に上陸した。そして一夜の宿を借りるべく妙法寺を偶然に訪れた。妙法寺中興10世住職の真観上人の時であった。その時の蕪村は無一文で、まるで乞食のような格好であったと伝えられています。
その後、菅暮牛の案内で再び妙法寺を訪れる機会を得た蕪村は、真観住職との再会を喜ぶとともに、一夜の善根宿と運命的な再会が縁で、絵を嗜好していた真観住職と意気投合し、蕪村との親密な交流が始まったのです。このようなご縁から、妙法寺は、讃岐時代における与謝蕪村揮毫の6作品を収蔵庫において所蔵しています。讃岐時代の一大作品である『蘇鉄図』をはじめとして国指定重要文化財<昭和46年6月22日指定、絵1669号>にしていされています。
1.紙本墨画「蘇鉄図」四曲屏風、一双
2.(附)紙本淡彩「竹の図」一幅
3.紙本淡彩「寿老人の図」一幅
4.紙本淡彩「山水図」三双、明和5年(1768)
5.紙本淡彩「山水図」一双
6.紙本淡彩「寒山拾得図」襖貼付、四面
これらのうち、「蘇鉄図」、「山水図」「寒山拾得図」は描かれた当初は本堂(旧本堂)の襖絵として、実際に使われていました。 蘇鉄図は四間八枚の本堂上座敷の襖絵、山水図はそれぞれ七間六枚の内襖絵、「寒山拾得図」は内陣と下陣を仕切る三間四枚の大襖絵でした。
妙法寺中興15世真延住職は、「約百年前に描かれた蕪村の大作であるが、年月とともに襖が剥げ傷んできた。思い切って屏風に改装して、寺宝として後世に残したい」と発願されました。こうして文久2年(1862)に襖絵から屏風に改装されたのです。蕪村から絵を描いてもらった真観住職は初めの功労者であり、真延住職は後の功労者と言ってもいいでしょう。