支援金を募る活動を開始した今月(3月)、本80周年記念事業実行委の一人、大蔵喜福の元に一通のメールが届いた。
メールに添付された集合写真には竹節作太が写っていた。
メールの主は新潟県佐渡市に在住する藤井与嗣明さん、68歳。藤井さんは現在、佐渡山岳会の歴史を調べている。
藤井さんは、集合写真のほか昭和13年(1938)6月8日付の東京日日新聞新潟版の記事も添えている。
「ナンダコット征服者 本社竹節氏を招いて 佐渡山岳会が講演会」
記事三段分の大見出しに引き込まれて記事を読み進めると「世界山岳史に驚異的偉業を残した立教山岳部」とあり、竹節は、撮影したドキュメンタリー映画「ヒマラヤの聖峰 ナンダコット征服」の上映と、講演会のため佐渡山岳会に招かれ、島内で4日間、4ケ所で講演すると紹介されている。竹節は直前まで北支戦線(中国)に派遣され取材をしていたともある。
藤井さんの調べによると、東京高等師範学校(東京教育大、現筑波大)の付属中学校桐蔭会山岳部が昭和6年4月1日、佐渡島のほぼ中央に位置する金北山(1171m)に登頂。下山中、猛吹雪に遭遇し、生徒2人と成人の案内人の計3人が命を落としている。佐渡山岳会はこの遭難事故をきっかけにして結成された。
結成当初は、有志的な集まりだった。しかし、昭和12年(1937)ころには会員も増え全島的な組織に拡大して行った。
全島組織に成っていく佐渡山岳会と同じころ、立教大学山岳部も遠きヒマラヤを目指し、研鑽を重ね青春の輝きを放っていた。
ナンダ・コート初登頂の翌、昭和12年には、北京郊外で盧溝橋事件(7月)も勃発し、泥沼の日中戦争へとのめり込んでいく。
藤井さんは佐渡山岳会史を調べる動機を次のように語る。
「戦争に向かう時代にあっても(佐渡山岳会)会員達は山を通して在りし日の青春を謳歌していました。先輩の皆様の記録を残していきたいのです」
今年2017年、アジアの多くの国々の人達にとって日中戦争80年の節目の年でもある。
今回、ナンダ・コート再登頂を目指す隊長を務める大蔵喜福は「平和の象徴として80年前と同じルートを登りたい」と計画している。