トントントントントントントントン。厨房を覗くとリズムよく包丁で野菜を切る音が聴こえてくる。仕込み用のトレイには、背ワタが丁寧に取り除かれた小綺麗なエビがピシッと並んでいる。それはまるで、小学1年生が全校集会でピシッと整列させられているかのようだ。僕の視線に気付いた五十嵐は、「こんにちはぁ」と、厨房から目を細めた笑顔で挨拶をしてくれた。
テラス席に座って、料理が出来上がるまで、藤野の山をぼうっと眺めながら待っている。「お待たせしましたぁ」の声と共に、テーブルに置かれた有機野菜の前菜。多くの藤野住民が、水曜と木曜のランチタイムにshuで見る、いつもの景色かもしれない。
ランチを食べた後、都内で仕事があって藤野に戻ったのが深夜1時過ぎ。終電が藤野駅に到着して電車から降りると、あたりは真っ暗闇で、かすかに虫の声が聴こえてくる。藤野駅から車で自宅に向かう途中、shuの真横の道を車で通り過ぎると、駐車場には五十嵐の車が停まったままだ。ディナーがが終わるのはおそらく21時か21時半頃。それにも関わらず、深夜1時、なぜだかまだ厨房の明かりが外に漏れていた。
.....
「生き物なんだぞ。わかってるのか。」
五十嵐の胸ぐらを掴みながら、父の久夫は静かに言った。
「最近、仕込みの仕事が雑になってるんじゃないのか?慣れたからか?忙しいからか?世の中で白衣を着てるのは医者と料理人だけ。これは、生き物だってこと忘れるな。」
五十嵐は、物心付いた9歳の頃からずっと厨房に立ち続けている。風邪を引いても熱を出しても休んだ日は一度も無い。中学生になりバスケ部に入っても、16時頃になると友人たちよりも早めに練習を切り上げて店に向かい、思春期になって彼女が出来ても、デートに行くことすらできないような生活だった。大切な友人が亡くなったその日にも、涙を流しながら厨房に立ち続けた。最初はよくわからないままだったかもしれないが、いつからか染み付いたプロとしての誇りと信念の炎を絶やさずに燃やし続けていた。
五十嵐は4人兄弟の末っ子。五十嵐の母の弟が蒸発し、家に残された幼い2人の子供を養子に迎えたのは、父の久夫が32歳の時。父は6人の子どもと母を支える一家の大黒柱として、13畳の小さなラーメン屋を中華料理屋の広味坊に変えて営業してすることを決断した。7人を養わなければならない父には修行に出る余裕は当然なく、吉祥寺にある名店に通いながら中華料理を学んだ。その名店とは、2019年に惜しまれつつ閉店された吉祥寺の『知味 竹爐山房』。店主の山本豊さんを30年以上前から師事し、お店に通っては食べ、どんな風に作られているのかを山本さんに尋ねては、知識を習得した。山本さんの教えである「料理は命があることによって成り立っていること。食材を大切にすること」を父は忠実に守り続けていた。
そのことについて思い出すのは、小学校2年生の誕生日の日、父と築地市場に車で向かった時のこと。
「おまえが欲しい魚、ただし生きている魚、なんでもいいから1匹選べ。」そう言われえ悩んだ末に1匹の生きた真鯛を選ぶと、
「よし、今から自分で捌いてみろ」
と指示された。包丁を握って生きている魚を初めて捌いた。その日からというもの、父はいつも「生き物なんだぞ」と言うことを、ことあるごとに五十嵐に伝えた。
それから10年以上の時が経ち、父が腎不全に倒れ、五十嵐は24歳で副社長、28歳で広味坊の料理長となった。広味坊の社員は20人、彼らの生活もある。20代半ばにして、利益を出す事を最優先で考えなければならない立場に立たされた。料理を作ることが心底好きだった五十嵐だったが、利益を出すことへのプレッシャーは肩に重くのしかかった。築地に行って、魚を見て、次はどんな新しい料理を作ろうかなと構想を膨らませている時間だけは束の間の楽しみだった。そんな忙しい日々に追われている時、尊敬している料理人の先輩のお店が潰れたという知らせが五十嵐のもとに届くと、自分自身にもいつかは降りかかってくるかもしれないことのように思え、恐怖に駆られ、将来のことを考えさせられた。通ってくださる常連さんはいつか亡くなり、お客様は時代を経て世代交代し、求められる味も変わる。このまま料理人として儚く散る人生で良いんだろうか、いや、できる限り料理の歴史や文化を残せるような人になりたい。自問自答する日々の中で、まだ明確にではなかったが、五十嵐の中に、使命が見え始めていた。
そんな時、生き方を考えさせるきっかけがもう一つあった。RED U-35という新時代の若き才能を発掘する日本最大級の料理人コンペティションへの出場だ。500人以上の若手料理人が集い、技術を競う。9歳から厨房に立ち続けていたことへの自負もあったので、出場する前は甘く見ていたところもあった。しかし、いざ出場してみると、同世代のシェフたちの熱意、思考力、発想力、志の高さ、全てに驚かされ、大きな学びとなった。それまでは、飲食業界の先行きの不安ばかりが先行していたが、同世代のシェフたちの熱い想いに「飲食業界は変わる」とさえ思わされた。その時、シェフたちの間で話題になっていたのが、デンマークのNOMAというレストランで、それまでデンマークの食文化は目立ってはいなかったものの、NOMAができたことをきっかけとし、デンマークが美食の街に変貌を遂げた。そういった同世代のシェフたちとの情報交換から、「食を通して社会に貢献できる大きな可能性」を確信したのだ。
その出来事から食に対する捉え方と意識がさらに大きく変わり始めた。儚く散るのでは無い、持続性があって、100%自給率で循環型の地球に優しい究極のレストランとは何かを考えに考えた。電気はソーラーパネル、水は湧き水、野菜は自分で育て、火は薪を使えば起こせる。ただ、どう考えても、ゴミの問題だけは解決できなかった。通常レストランで1日に出るゴミの量は大量で、レストランは業者さんに買い取ってもらうような仕組みになっている。何か良い手立ては無いのか、徹底的に調べた。農大に通っていた頃、授業を受けていた小泉武夫先生のことを思い出し、著書『食の堕落と日本人』を読んだ時、その本の中に書かれていたのが、ハザカプラントだ。ハザカプラントとは、葉坂勝さんが考案された地域資源循環型のプラントシステムで、バクテリアを用いて廃棄物をわずか25日間で完熟堆肥化、つまりゴミを命ある土に戻すシステムだ。衝撃を受けた五十嵐は、小泉先生にすぐに電話をし、葉坂勝さんについて詳しく教えて頂いた。
「バクテリア、発酵の究極の使い手は、葉坂さんだよ。葉坂さんの著書『バクテリアを呼ぶ男』を読んでみなさい。」
と紹介された葉坂さんの著書を夢中で読み、魂が震えた。その時、葉坂さんに絶対に会いに行こうと思ったものの、何も知らないままで軽々しくお会いできる人ではないという思いも同時に芽生えた。自分は料理人でありゴミを出し続けて来た存在で、畑違いでもある。なかなか覚悟は決まらなかったが、とにかくお会いしたいという一心で、仕事をしながらフードロスやゴミのことを勉強し続けた。
世田谷生まれ世田谷育ちで、物心ついた頃から厨房の世界しか知らない。結婚し、娘が生まれた時、仕事を休んで、妻の芽以子と32歳で生まれて初めての旅行で、彼女の祖母が住む岩手に行った。いわゆる田舎の原風景が広がっていて、妻から風の心地よさや、ゆっくりとした時間の流れを教えてもらい、自然に全く目を向けてなかった自分に初めて気が付いた。そんな経験を経て、2年の時が経った時、五十嵐は葉坂さんに会う覚悟が決まった。思いの丈の全てを手紙に綴り、ポストに投函すると、後日、運命を変える電話が、突然かかってきたのである。
---------------
メディア掲載情報
五十嵐創さんが【料理王国】に掲載されました。ぜひ読んでください。
農業で東京のレストランの生ゴミをゼロに!?
畑から目指す食の循環(五十嵐創/土とシェフ)
https://cuisine-kingdom.com/connectedto-tsukuruigarashi/
-------------
p.s.
今回、ご支援下さり、誠にありがとうございました。貴方様のお力で、この度目標金額を達成したことをご報告致します。
今回、藤野界隈でbio直売所、bio移動販売、bioお惣菜を巡らせるというプロジェクトではありますが、全国の田舎地方が参考になるような取り組みにしたい!新しいモデルを作りたい!との思いが根底にあります。
貴方様から頂いたご支援で、地方の自然・人・暮らしがより楽しく美味しく本来の豊かさに向かっていく事に繋げていこうと奮起しております。
本気で農から世直しを考えているチームで活動を続けていきますので、これからも暖かく見守っていただけたら幸いです。
本当にありがとうございました。五十嵐 創