「生活の中にある、ゆるい信仰」
前回、「西洋のアートは宗教性の脱却から始まっている」とお話しました。
僕は、「日本人も同じように『宗教』から脱却した『アート』を作るべき」と言いたいのではありません。
初回でも触れたように、日本人にとっての芸術的価値は、そもそも「生活の中」にあるのです。そして、「宗教」という概念に惑わされる前の日本人には、独自の信仰がありました。
食事の前には手を合わせたり、「勿体ない」といってモノを大切にしたり、お寺だろうが神社だろうが、安泰や豊作を祈りに足を運んだり。それもまた「生活に密着した信仰」だったのです。「だった。」ではないですね。僕たち今の日本人も何ら変わりはありません。日本人にとって、「アート」も「信仰」も、「生活」の中で融合していることが自然なのです。つまり、日本人の性質に適したアートとは、宗教性(信仰)をあえて切り離す必要のないアートなのです。
お寺にあったら拝む仏像が、博物館にあったら鑑賞する仏像になる。そんな良い意味で「ゆるい」信仰をもっているのが日本人なのです。そんな「宗教とのゆるい関係性」を素直に受け止めて生み出すのが、日本人がつくるアートなのだと思うのです。
「日本人みんなのアート、大仏」
これまで述べてきたように、明治以前の日本人と、現在の日本人の間には「西洋のアート」が挟まってしまっているのです。僕が美大で学んだ結果、感じとった違和感は、「これ(輸入された西洋のアート)」だったのです。「これ」をうまく外すことで、そもそも日本人が培ってきた「ゆるい宗教を伴ったアート」を、今を生きる日本人にも「繋げなおす」ことができます。
そして、その「繋ぎなおし」をするためには、僕のような「アーティスト」と「僧侶」の両方をもち、2つの分野に分けられてしまった「アートの世界」と「宗教(信仰)の世界」をも、繋げなおす必要があるのです。
そう考えていくと、日本にあるアートを担ってきたのは、どんな人だと思いますか?
仏像をつくった「仏師」? 浮世絵を描いた「絵師」? 武具や工芸品をつくった「職人」? 民藝をつくったのは名も無い「民衆」です。日本においては、その皆が「アーティスト」に値するのです。そのアーティストたちは、誰しもが「ものづくり」の当事者になれるのです。
そんなアーティストの皆さんと共に、僕たちが作ろうとしているのが、 大きな大きな日本人みんなのアート、「大仏」です。
「魂」を込める
以前の活動報告で、仏像に魂を入れる「開眼(かいげん)」の話をしました。
僕たち日本人は、何かモノをつくりだすときに「魂(たましい)」を込めようと思いませんか? そして、良い作品を見たときには、「魂がこもっている」と感じませんか?
日本人は「仏像」だけではなく、つくりだすもの全てに「魂」を込めようとするのです。 僕は、これこそが日本人の「アート感」だと思うのです。
「魂」を込めるためには、当然ながら技術は必要ですが、それだけでは足りない気がします。そこには、「集中力」が必要です。「意思」が必要です。「心」が必要です。そして、自分自身の努力だけでは推し量れない「授かりもの」が必要です。
「授かりもの」を得るためには、僕たちだけの力ではなく、
みなさんからの「志(こころざし)」が集まることが重要なのです。
風間天心