準備期間1か月、しかも子どもは夏休みで打ち合わせをするのも各所に連絡をするのも制約される上、お盆期間も挟んだため、準備万端!とは到底言えない状態で公開を迎えました。しかも公開前日、当日ともほぼ一日中、自分の時間がほとんど取れず、公開初日の晩、facebookでプロジェクト開始をお知らせし、関係各所に最低限の連絡のみして、支援入ってないな、と思いながら就寝。
公開2日目の朝、家事を終え、プロジェクト公開後の注意書きを読んだのは公開後20時間が過ぎたころ。「初日が大事」「0円のプロジェクトは支援が入りにくいので、知人で支援してくれる人が決まってたら早々に支援してもらっておくことが大切」との注意書きに、しょっぱなから失敗した、と、しょんぼりした目に飛び込んできたのは、お一方の支援が入ってるとの情報。その方は、イベントを企画し事務局として金策に苦労した経験をお持ちで、お礼メールを差し上げたところ、「苦労、よくわかります」との返信。
何かしらの課題解決や理想追求のために、自ら何かをしようと動くと、壁にぶつかり、がっかり、しょんぼり。でも、それでわかるようになることがある。「わかるようになる」最大のことは、自分と同じ苦労をした人の気持ち。何かしようと動く人がどんな気持ちで何を求め、どんなことをすればその人を応援することになるのか。私自身、これまで知人の活動や、知らない人の活動に共感し、できれば一緒にしたいけれどその時間がない・遠くて手伝えないからせめて・・・ということで資金提供した経験があります。でも資金を提供する際、そのタイミングや提供方法については何も考えていませんでした。こうしてクラウドファンディングに挑戦してみることで、準備期間の苦労から「クラウドファンディングに挑むなら、こんな準備が必要」ということのみならず、クラウドファンディングなどで資金提供することで応援したい人を応援するならどうすればよいかを考えられるようになったと感じています。
そうして思うのは、こうして動いてみると、何かの問題意識を持って動いてみた人と、問題意識を持ちながらもそれを何らの行動にも移さない人との差が開いていく、ということ。
最近、読んだ『「月給100円サラリーマン」の時代―戦前日本の<普通>の生活』、という本に、「当時のホワイトカラーも、極端な貧富の格差の存在や政財界の腐敗には内心怒りを感じてはいた。だが、多くのサラリーマンただじっとしていた。・・・(満州事変が起こって戦争が近づく中)いよいよ生活が規則正しく、保守的に、スマートになって・・・すでに会社に入っていた『恵まれた』ホワイトカラーはますますおとなしくなっていったように見える。彼らは最後まで何も言わず、戦争に暗黙の指示を与えた・・・彼らもやがて招集され・・・『こんなはずじゃなかった』と思っただろう。・・・でも、気が付いた時にはもう遅かったのだ。」という記述があります。
「一社専属、会社のいうなり、会社に人生お任せ」という働き方・生き方に不満を感じながら黙って従っていると、「気が付いた時にはもう遅かった」になるのではないか。そう思う方にとってイベントにご参加くいただくこと、またはこのプロジェクトをご支援いただくことが、「行動する」ことに向けた一歩になれば嬉しいです。





