2017/06/30 15:45

第4集は昭和40年頃の橘橋南詰の石坂屋旅館から中村東1丁目にかけて建ち並ぶ商店街が表紙となっています。

 

この第4集では、マチオモイ帖製作委員会のメンバーである遠山智子さんに生まれ育った中村町2丁目界隈の想い出を綴ってもらいました。

だるま屋肉店ではコロッケ販売が始まり、10本100円のウインナーソーセージも発売されたそうです。久保田魚屋では刺身一人前100円だったことなど当時の商店街の賑わいが伝わってきます。

通りの向かい側には宮崎交通社長だった岩切章太郎さん宅のバラ園があり、春になるとそのバラ園が市民に開放されたそうです。写真は昭和40年頃の中村西2丁目界隈の商店街。大きな樹木のある建物は福島医院です。

 

天神町エッセーと題して曽我國治さんは天神町1丁目の製麺屋(湯浅うどん製麺所)

、てんぷら屋(島崎かまぼこ店)、飴玉屋(七福堂)、3丁目には太田観音さん、太田保育所、その向かいは岐部竹屋、その並びには柿塚石材店、丸山くろんぼ屋、4丁目には木村材木、その近くには時任駄菓子屋、上村青果店などがあったことなどを地図入りで紹介して頂きました。

現在の中村西3丁目で歌謡教室を開いている古場邦子さんは、お父さんが鐘紡の主任だったこともあり、カネボウで働く女工さんたちの写真を提供して頂きました。

 

第3集で宮園さんがピッチングを教えてもらったという元阪神タイガースの選手だった入江淳さんは昭和33年大淀高校が甲子園出場を果たし、その夏の優勝校・山口県の柳井高校と戦った時の写真等を提供して頂きました。

昭和24年に当時の太田2丁目で生まれた佐藤能史さんは夏から秋にかけての楽しみは近くの大淀川での川遊びだったと言います。大山釣具店でゴカイを買ってウナギ、チヌ、フナなどの魚釣りに興じていた思い出を投稿して頂きました。

写真は昭和41年夏材木町から日葡本線の鉄橋(列車が通過中)を望む様子です。