
こんにちは。起案者の岡田です。
気鋭の歴史学者小出先生による「河上彦斎」をめぐるレポートも最終回となりました!
ファンでも知らなかったような秘話に迫ります。
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河上彦斎を語る3つのキーワード「その三」
3. 有終館
河上彦斎は肥後国学の林桜園(はやしおうえん)の下で国学を修めています。
林桜園のもとには吉田松陰、大村益次郎、横井小楠、佐々友房といった人物が学んでいました。
佐幕藩の中にあって攘夷運動に身を投じた彦斎の存在は、維新後の熊本藩にとって得難い切り札でした。熊本藩は彦斎を使って明治新政府の維新の恩恵に与ろうとしますが彦斎はそれを拒みます。
そして彦斎自身も他の志士たちのように明治新政府の中での栄達を望みませんでした。彼の目標はあくまでも初志貫徹から動きません。つまり攘夷運動の遂行です。
しかし現実はといえば攘夷を掲げて幕府を倒したにも関わらず、明治新政府の方針は開国による文明開化という矛盾がありました。
高田源兵衛と名を変え、熊本藩の外交係として働いていた彦斎はかつての同志で今は新政府の要職にある桂小五郎(木戸孝允)らに攘夷運動の完遂を談判しますが要れられようはずもありません。すると彦斎は欧化主義政策をとる薩長政権の転覆を竹添進一郎(のち外交官・漢学者)などと企図し勝海舟ら旧幕臣と連携してこれを運ぼうとしますが勝はこの策を否定し、彦斎は熊本で『有終館』という兵学校を熊本の鶴崎に設立。後進の育成に尽力しますが、新政府の方針に反する河上の存在に危惧を覚えて冤罪により逮捕。取り調べも行われないまま裁判にかけら死罪が申し渡されます。
明治・大正・昭和の言論界の重鎮であった徳富蘇峰(徳富蘆花の兄)は、同郷出身の河上彦斎を評して、「先生は吾が東肥の産出したる俊傑の一人。先生結髪、志を立て尊皇攘夷の事に従ふ。維新回天の偉業漸く成るに際し、其志を守りて世と忤ひ、遂に其の躬を亡ふに到る。あに悲しからずや」
と、書いています。また勝海舟も彼を「快男児」と評しています。
人斬り彦斎ではなく、どこまでも至純に自己を貫いた幕末・明治の最後の硬骨漢としての姿がそこにあります。
小出一富(こいでかずとよ)プロフィール:
1981年、東京生まれ。歴史学者。『古事記』『日本書紀』などの史書から『源氏物語』などの文学作品、漢籍では『資史通鑑』などの原文に小学生の頃より親しむ。
サンスクリット語を故・松山俊太郎氏より手解きを受けるなど学問への志を棄て難く26歳で大学に再入学。
國學院大學首席入学、首席卒業。同大大学院文学研究科博士課程退学。
律令学の大家、瀧川政次郎先生の愛弟子である嵐義人先生の推挙を受け、大学在学中に温故學會(※)研究員に就任。
平成27年4月より同公益社団法人温故學會監事に最年少で就任する。
東京の自由大学で人気講座を多数担当する名物教授としても知られ、また2014年の「すみだ川アートプロジェクト」で超満員の歴史トークライブを行うなど、歴史を身近に感じてもらうためのトークイベントも手掛ける。
2014年10月に海竜社より『人生が変わる古事記』が出版早々、古典・文学研究ジャンルランキング1位(2014年10月Amazon社調べ)を獲得。
今大注目の若手歴史家である。
※温故學會:江戸時代後期の盲目の国学者・塙保己一の偉業顕彰の目的から、明治42年に子爵渋沢栄一、宮中顧問官井上通泰、文学博士芳賀矢一、保己一曾孫塙忠雄の四氏により設立された史料館・歴史研究所。保己一の精神である温故知新の趣旨に基づき活動するとともに、重要文化財指定の『群書類従』版木の保管、盲人福祉事業、各種啓発事業を行っている。






