19歳の私は、大学1年生。
大学一年生を振り返るときはいつも、「世界が広がった」年だと言っていた。
そうだったよね。だって、それまではずっと東京で同じ世代の同じバックグラウンドの同じくらいの学力の人たちと一緒にいたし、学校と家と塾の往復をしていたから。
部活を必死にやって、終わったら受験を必死にやって。
それが、大学生って、大学内にも外にも、自分の動き方次第でいくらでもいろんな人に会える。
その人たちが、知らなかった世界を見せてくれる。
そのことが数か月ですぐにわかった。大興奮してたよね。笑 燃えてた笑
念願の農学部。教授に話しかけたらたくさん話してもらえたり、農場実習で初めてちゃんと農業に触れたり。
留学に興味があったから入った英会話サークルでは、何をするかも自分たちで決めて、英語で話す時間はすごく楽しくなっていった。
それからTOEFLや留学生をサポートするボランティア、モンゴルへの農業ボランティア、インカレの農業団体、群馬の牧場研修、、、、もちろん友達とのごはん会も、旅行も。
予定をいっぱいに詰めて、ほとんど家でごはんは食べなかった。
かっこいい先輩、キラキラしてる先輩たちがたくさんくれるアドバイスをすぐに信じて、
「やってみます!いってみます!」を繰り返してたような気がするなあ。
あの時は「もしかして自分は超リア充なんじゃないか」って思ってたよね。笑
実際すごく刺激的で充実した毎日だった。
でも何故か、25メートルプールを必死で泳いでいるときみたいに、「頑張らなきゃ」っていう少し息苦しい切迫感もあった。
さっき久しぶりに、恥ずかしいことも全部書いてある19歳のころの日記を読んでみて、ちょっと意外だったのは、日記の中で私は私に「言い聞かせてた」こと。あと、まわりと比べていたこと。
私は「これをするためにこれをしなきゃ」「もっと頑張らなきゃ」「自分に甘い」とか、
大学生活を「成功」させなければ、「正解」を見つけなければっていう気持ちが見えた。
でもそれ、誰の「正解」だろう?
何を指して「成功」というのだろう?
いいよ、そんなの。
私があなたに言いたいこと。
もっと、ほんとに心がときめくこと、ただ自分が幸せなことを大事にしていてよかったんだよ。
日記にたまに出てくる、好きな本や好きな食べ物、好きな店、好きな人の話。
それらに時間を使う自分を、「正解に近づかないから」といって責める必要はなかったよ。
もちろん自分がやりたいことや到達したいところを描いて行動するのは、とても良いこと。
だけど、正解を追い求めるあまり、「日々」が息苦しくなるのはとてももったいない気がしませんか。
「日々」の積み重ねで「あなた」ができているのだから。
ふと「日々」を見つめなおすと、ほらこんなに近くに、ちょっとホッとする存在がたくさんあるんだから、
それらにちょっと丁寧に時間を割くのもきっと人生を豊かにするのです。
飯塚商店と内野で暮らす日々の中で、
私は私の「これが好き」に向かって大事に時間を割くことの大切さに気付きました。
大きな目標が達成されるかどうかも大事だけど、
帰り道に寄った味噌屋さんでおばあちゃんと話した時の「この時間が好き」っていう気持ち、そしてそのおばあちゃんが喜ぶこと何かできないかなあ、と考えること、
そういうことが日々の豊かさにつながる気がします。