今の時代この時期になると山には藤の花が見える。見渡せば遠目でもわかるくらい。昔は藤の花というのは山にはなかった。なぜなら、先人達は山へ入り藤ツルがあれば、ナタで伐っていたから。なぜなら、藤ツルが巻きつけば倒したい木があったとしても藤ツルが邪魔になり伐らなくてもいい木まで伐ってしまう事になるからだと。私は聞いた。だから、藤ツルが山にあるというのは山が荒れている証拠だという。私の祖父は85歳だ。3年ほど前に大腿骨を骨折をしてから足がとっても不自由になり歩くのが困難になってしまった。骨折する前は、山へ行ったり田んぼしたりとアクティヴなじいさんであった。そんな祖父が先日どうしても山へ行くと聞かない。理由は1つ。藤ツルが木に巻きついているのが気になるのだ。そのコトばかり考えてイライラして機嫌が悪かった。自分でできないから尚更だ。GWに父が藤ツルを切りに行くのを杖をつきながらついていきちゃんと伐るのをチェックしていた。そして山は綺麗になって祖父はとっても機嫌が良くなった。私の祖父の時代の人達は山が荒れるのをものすごく嫌う。どのように教育されたのか、山をとっても大事にしている。現代人はなぜそのコトを忘れてしまったのだろうか。
大都会東京ではものすごい数の人が歩いている。 私は以前その中を歩いていた。 ある時、なにかをよけるようにみんなが歩いていて前の方に何かがあるのだろうと 想定しながら歩き進めるとそこには人が倒れていた。 見た感じは泥酔しているようにも見えた。(日中だった)が、本当の所はわからない。 なぜなら私は前を歩く人達に続きその人をよけて歩いたからだ。 でも私はひそかに小さな罪悪感みたいなもの抱いていた。 実はどこか具合が悪かったのではないか? と、その小さな罪悪感を抱きながら歩き進めた所で振返ってみた。 が、相変わらずよけられていた。 もしこの出来事が東京ではなく金沢だったら。 田舎だったら。 誰も周りにいなかったら? 私はどうしていたのだろうか。 日常生活や仕事でのこの小さな無責任はおそらく日常茶飯事であろう。 ゴミが捨ててある。そこにはゴミが次第に増えていく。 これは何にでも当てはまる。いじめだってそうだ。 環境問題もそうだ。 「みんなやっているし」、「誰かがやってくれるだろう」、「自分一人ぐらいなら大丈夫だろう」 という小さな無責任。 この小さな無責任をみんながやると巨大な無責任となるだろう。 「誰かがやってくれるだろう」 という心理は本当は 「やらなくてはならない」とわかっているからこそ生じるように思う。 この小さな無責任がやがて巨大な無責任となる。 自然環境は この小さな無責任によって 変わりつつあるのだと思う。
この言葉の持つ意味に、近頃私は少し違和感を感じている。なぜなら、自然保護と言う言葉には 保護する強者と保護される弱者が含まれている。人が、自然を保護すると言う。 いつからだろう。いつから人は強者になったのか、いつから自然を弱者にしてしまったのか。 アイヌやインデアン達は、悠久の歴史の中で自然を神と悟り四季の振る舞いを敬い護り続けてきた。 神の前で彼らは畏怖し尊敬し従属を誓う。やがて彼らは神に許されるとその傍に寄り添い「護る」を生きる営みにして来た。おそらく我々の祖先もアイヌやインデアン達のような暮らしをしてきたはずだ。 私は思う。自然ほど強く、偉大で、そして優しく、ぬくもりを与えてくれる、無償で何も語らず我々に恩恵を与えてくれる存在が他にあるだろうか。 人は求める。必要以上に求め自然へ与えるコトはしない。人はいつだって強者の立場だ。 私もそうだ、保全活動とは保護して安全であるようにする活動をしている。とはいえ、強者と思っている訳ではない。いつだって私は自然の前ではちっぽけだ。 では、何が適切な言葉なのか?というコトを言いたいわけではない。 個人個人が環境の意識を持ち、その上で選択する。そんな風になっていくことを私は望んでいる。 今こそ私達は傲慢と思い上がりを捨て、自然にひれ伏し許しを乞う時なのではないだろうか。
私は田舎で生まれ育ちました。 実家は山を所有している。(近所の人は全員所有している) 子供の頃はよく山に入っていたがどこからどこが自分の家の山なのか? というのがわかっていなかった。大人になって、祖父と父と私の3人で境界線を教わりながら山を歩いた。 昔の人は、山の境界線に目印となる木を植えてきた。 祖父は山を見ながら「あれは俺の親父が植えた木や」などと説明してくれる。 そんな話を聞きながらたくさん考えた。 昔の人たちは森と密接な関係を築いてきた。 家を建てる木を植えて、育ててきた。お風呂の燃料も山から調達する。 そんな時代だった。 戦後の高度経済成長で日本は猛スピードで今の形となった。 山に入る人は減り、山の価値はどんどん下がっていった。 残念だけど、今は 本来の自然の力が失われつつある。 私たちは気づかなければならない。 1人でも多く気づいて行動する。 小さな力かもしれないが ミクロ世界の改善こそ マクロの世界を変えるという事に。
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