・序章
私は遥か昔、初めて「人と共に生きる」という選択をした狼
そして「種の起源の犬」と呼ばれる初めの犬の魂となる
狼は犬として、ここまで繁栄した
けれども今、人と犬の関係は変わってしまった
過剰に愛情を受ける犬
その一方でまったく愛情を受けない犬
そんな哀れな犬たちが行く末は……
よりどころなく天国と下界の間の世界を漂う「サマヨイ」
人への復讐を誓い、天国への昇天を捨てた「呪犬」
私は憂う
そんな現状を憂う私を助けてくれるのが「犬キューピット」。
愛犬との「運命の出会い」を感じた人ならわかるはず
人知れず働く犬キューピットの存在を……
『希望』と『絶望』
『慈愛』と『憎悪』
この「四つの心」を理解する者が良き犬キューピットになるという
夢丸もそんな犬キューピットの一匹
これは夢丸がおこした奇跡の物語
一 俺は生きる‼
とある田舎の農家に留まっている軽トラの荷台に積んである箱の中、五匹の兄弟の仔犬が一緒に詰め込まれている。
箱の中の仔犬たちの顔は怯え、落ち着かず周りを見回したり、意味もなく顔を見合わせてたり、目を白黒させたりしていたが、その中で勝気な一匹の仔犬だけが何かを察して目をぎらつかせた。
その軽トラに乗りかけた初老の男に小さな女の子がまとわりついて来た。
「爺ちゃん、犬がおらん‼」
最愛の孫だ。男は少し焦りながら笑顔を取り作って応えた。
「あ、あぁ……犬ならここにおる。もらってくれる人が見つかったんだ」
みるみる女の子の目が潤んだ。それでも涙をこらえてお願いをした。
「最後にバイバイする」
最愛の孫のお願いには勝てず、男は荷台に上げてやり、箱のガムテープをバリバリと剥がして開けて、仔犬たちと最後のお別れをさせてあげた。
「バイバイ」
ゴトゴト走る軽トラのバックミラーに映る半べそをかく孫の姿に、男はチクリと胸を痛めた。なぜなら仔犬の引き取り手が見つかったというのは大嘘で、保健所に持っていて処分するからだ。
けれどもこの最後のお別れが一匹の仔犬の運命を開いた。
一度開き、貼り直されたテープの箱の閉じが雑で甘くなっていた。差し込んだ光の先に見える空の青さに胸踊らせたのは勝気な仔犬だ。
「逃げるぞ‼」
「なんで?」
「ここにいたら、きっと俺たち死ぬ」
勘のいい勝気な仔犬はこの箱の中の不穏で危険な気配を察していた。
「逃げるっていったって……」
兄弟たちはしり込みしたが、勝気な仔犬は動じない。
「俺は行く‼ 俺は生きる‼」
兄弟たちの上に乗りかかると、箱がバランスを崩し倒れた。うまい具合に足場ができ、脚を踏んばり、僅かに開いた箱の隙間をこじ開けると、勝気な仔犬は、上手い具合に箱の外に出るのに成功した。
「やった‼」
そのまま隣の箱に飛び乗り、軽トラの荷台からのゴトゴト揺れる景色を眺めると、河川敷の遠方に連なる山脈は美しく、川はキラキラと輝いている。
勝気な仔犬の高揚はさらに高まる。
ウオォォンと一人前の遠吠えをした。
「すげえぞ、みんな来い‼」
勝気な仔犬が誘っても、他の仔犬は目を白黒させ、箱の隙間からこの危なっかしい兄弟をのぞき見てるだけだった。
「危ないよ。戻っておいでよ」
「嫌だ‼ 俺は行く」
兄弟たちの制止を振り切り、無謀にも荷台から飛び降りた。
「わぁぁぁ」
ドーンと衝撃を感じ、坂をゴロゴロ転がったが、幸運だったのは飛び降りた先は草むらでダメージはない。急いで起き上がり、道に駆けあがり、兄弟たちに自分の雄姿を伝えたかったけれど、軽トラはすでに小さくなっていた。
勝気な仔犬は軽トラが見えなくなるまで見送った。
兄弟たちとはそれきりだ。
「やるぞ。俺は生きる‼」
不安よりも好奇心が勝る。怖い事なんてなかった。
とはいえ、まだ仔犬が一匹で生き延びるには並大抵ではない。人気のない野山を無我夢中で駆けまわり、野ネズミや爬虫類や虫を食べて生命をつないだ。
辛くはない。生き残る執念がわく感覚にかえってワクワクした。
けれども飼い犬に産まれた性なのか、無意識に人気のある所を目指していた。そして、とある集落についたその日は台風が近づく夜のこと。
みるみるうちに真っ黒になった空からは、身体に当たると痛いほど大粒の雨と、身体を吹き飛ばすほどの暴風がおそいかかった。
一歩間違えば、豪雨で現れた濁流に何度も飲み込まれそうになったが、不思議なくらい感が冴え、曲芸ごとく何度もひょいとかわして難を逃れた。
そのまま懸命にしのげる場所を探すと、どこかはわからないが、偶然に見つかった雨風から身を守れる空間に飛び込むことができた。
そこに転がりこむと、疲労でばったりと倒れた。
次の日の朝である。
この集落から少し離れた集落にすむ『天野良治』という初老の男がこの集落に来た。この辺りに住む叔母の家の台風見舞いに来たのだ。
良治は、到着早々にふと、家の軒先にあるもうすぐ捨てるはずの犬小屋がやけに気になった。大きな体を無理やり屈めて覗き込んで少し驚いた。
「おーい、佳代ネェ」
良治が呼ぶと、家から出てきたお婆さんが、叔母の『佳代』である。
子だくさんの時代で末っ子だった佳代は叔母といえ、良治とは歳は十も離れていない。家も近所で兄弟の様に育ったので、叔母というより、姉の感覚なので良治は「佳代ネェ」と呼んでいる。
高血圧で糖尿の化もある良治より、散歩好きの佳代の方が、色々な数値も、見た目も若く見えるくらいだ。
「まぁ良ちゃん、大丈夫だった?」
佳代は昨夜の台風の事を気にかけたが、良治は軒下の犬小屋を指さし、まったく別の事が気になっていた。
「ほら、犬小屋に犬がおるよ」
「え、まさか」
犬なんてずいぶん前からいないので、何かの見間違いだろうと、犬小屋をのぞいた佳代も驚いた。全身泥まみれで死んでいるかのよう不自然に身体をよじりながら転がっている犬がいる。まだ仔犬。しかも生死不明。
佳代はドキドキして、手をかけようとするとブウブウと軽いイビキをかいたので、ほっと胸をなでおろした。
「びっくりした……この子、昨日の台風の中でここまで来たのかしら」
「らしいね。疲れ切ってんだろう」
その場にしゃがみこんで静かに見守っていると、仔犬は時おり、前後の脚をばたつかせて、まるでどこかを必死で走っているような仕草をみせた。
「昨日の夢でも見てるのかしら?」
こんな仔犬一匹が昨夜の暴風雨におそわれながらここまで来た姿を想像したら、どうしたって情がわく。すぐに目が潤んでしまった。
しばらくすると、仔犬は気配を感じて目を覚まし、佳代に向かってゆっくり顔を起こすと、泥んこまみれの瞼をこじ開けてまん丸の目をふたつ現した。
そして、その目でじっと佳代を見つめた。
勝気な仔犬は、その光景にドキリとした。
逆光で顔はよく見えなかったけれど、佳代の背中の向こうから差し込む優しい光が神々しく輝いていて見えた。
(あ、この人はいい人だ)
一目でそう直感した勝気な仔犬は残る力を振り絞ってヨロヨロと立ち上がり、尻尾を振ると、慌てたのは佳代だ。ほって置ける人ではない。
「絶対お腹がすいてるわよね。何かあげなきゃ……ちょっと犬、見てて」
仔犬を良治に任せ、急いで家に戻り、冷蔵庫の中から、犬が食べれそうなものを見つくろい、魚肉ソーセージと食パンを持って行った。
久しぶりのご馳走に興奮した仔犬は、食べながらちぎれんばかりに尻尾を振って喜びを伝えると、佳代も目を細めて笑顔を見せた。
「佳代ネェ、いいの? そこまでしたら捨てるに捨てれなくなるに」
良治の指摘通りである。佳代はもう完全にこの仔犬に心を奪われている。
けれども事態はそう簡単にはいかない。
その時、佳代は七十三歳。旦那さんとは七年前に死別した。二人の間に子供は恵まれなかったので、今は一人暮らしをしている。足腰は丈夫な方であるが寄る年波には勝てない事は自覚して日々を送っている。とても最後までこの犬の面倒を見る自信はない。
「どこか飼ってくれる人はいないかしら?」
良治の心当たりは、佳代くらいの老人ばかりだ。とんと思いつかない。
「この辺りでは無理だわな。佳代ネェが一番元気なくらいだ」
しばらく二人とも沈黙していたが良治はきっぱりと言った。
「佳代ネェが飼えばいい」
「簡単に言わないでよ。そりゃもう十歳若かったら、迷わず飼ってたわ。でもこの歳じゃあ、きっと最後まで面倒見れない」
「でもそこまでは生きられる。このまま保健所に連れて行ったら数日の命。奇跡的にここにたどり着いた犬。どっちがいいか考えればすぐにわかる」
この一言で佳代をこの仔犬を飼う決心をする。
勝気な仔犬は箱から這い出て、車から飛び降りた無謀な賭けに勝った。
自分の力で生き残る権利を手に入れた。
そして佳代から「夢丸」という名をもらった。
この佳代の名付けにはささやかな伝統がある。これまで飼った犬は四匹。
最初は物心ついた頃すでにいた犬「雪丸」だ。父が名付けた。当時、一万円札の顔だった聖徳太子にあやかろうと、その愛犬「雪丸」から名前をいただいたが、残念ながらさぼど一万円札に縁はなかった。
けれどこの名前のリズムを気に入った佳代は以後、「吉丸」「姫丸」「風丸」
と愛犬には必ず、「丸」をつけ、五匹目が「夢丸」となったのである。犬小屋の中で夢を見ていた姿が佳代の印象に残っていたからだ。
そんな夢丸と佳代の生活は始まった。
三か月もすると、夢丸はみるみる大きくなり、身体だけは一人前の中型犬になると、夢丸は近所で今時珍しい「野生を感じる犬」と噂になった。
一見、柴犬ぽいが顔も鼻先が長くて、体毛は短く、茶色に黒毛をまぶしたように生やしているから「狼みたい」とよく言われた。それでも首回りと足先は白く、マフラーと靴下をしてるように見える愛嬌もある。
性格はまさに「番犬」で、庭先では常に辺りを警戒し、不審な者あれば、鎖の目一杯まで飛び掛かかり、近所の人や郵便屋さんをたびたび驚かせた。
救急車のサイレンにも健気にウオォォンと遠吠えをして反応してみせる。
こんな野生っぽい所が佳代の琴線にぴたりと触れて、夢丸を心から頼もしく、愛おしく感じていた。
「私に言わせりゃ、夢丸こそが犬で、そこらの可愛らしいのなんて、品の良い大きいネズミだわ」
これは佳代は口癖になり、たまに来る良治に事あるごとにお礼をした。
「あの時、良ちゃんの言う事を聞いてホントに良かった」
そう言われれば良治もうれしい。良治にも夢丸は大切な存在となった。
そんな心底愛情をそそいでくれる佳代との暮らしは充実し、やりがいのある幸福な日々だった。
けれども時に佳代は鬼になる。それは散歩の時だ。
いつもは優しい佳代が腰のベルトでリードを括り付け、コウモリ傘を片手に持つのが散歩のスタイル。そして、散歩中、夢丸が少しでも佳代を差し置いて前に出ようとするならば豹変した。
「夢丸、待てっ‼」
ビシッとコウモリ傘で鋭く叩き、夢丸の脚に激しい痛みを与えて叱る。
「可哀そう……」
「たかが犬にそこまでするのかね」
そんな近所の声は当然、佳代にも届いていたが、それに屈するわけにはいかない。なぜなら、これこそが佳代の最大の愛情だからだ。
自分の足腰はこれから必ず衰える。少しでも長い期間、夢丸の散歩を続ける為にはどうしても「引っ張り癖」を直す必要があるからだった。
これだけ親密に一緒に暮らしていると、互いに気心が知れてくるらしく、佳代の口癖もどんな時に、どんな心境で呟くのかも夢丸にはわかってきた。
「夢丸、一身独立‼」
佳代は時おり、夢丸のほっぺたを両手でぎゅっと挟み、こう言い聞かせた。
あの有名な福沢諭吉の「学問のすゝめ」の一文である。
『一身独立』
独立の気力なき者は必ず人に依頼す、
人に依頼する者は、必ず人を恐れる、
人を襲るる者は、必ず人にへつらうものなり。
佳代は寝室の額縁にはこの文が飾ってある。祖父からの教えで、佳代はそれに素直に従ったようだ。
もちろん、この文面を夢丸が読めるはずもないが、何度も聞かされると、苦痛を感じている時に、自分を励まし、自分に言い聞かせるように、夢丸に呟いている事を理解した。
夢丸は走る車から飛び降りるほど「勝気」で「独立心」の強い犬である。佳代と気が合うのは当然だった。
そんな幸せな生活が八年過ぎた。
この頃から佳代の足腰は軽いぎっくり腰をきっかけに、一気に衰えた。散歩の距離はずいぶん減り、時には行けない日もあった。
でもそんな時、佳代は散歩の代わりに、縁側に夢丸を連れて行き、小一時間は夢丸の背中やお腹をさすったり、抱きしめながら何度も「ごめんね」とつぶやきながらかまってくれた。夢丸は佳代の衰えは十分承知してたので、それだけで満足だった。
そして、ついにお別れの時が来た。
ある日、佳代は体調を崩すと、その日を境に散歩どころか、起き上がる事すらできなくなった。夢丸はそんな佳代の側をずっと離れず、心配そうに布団の端にちょこんと顔をのせると、目を潤ませながら見守った。
そんな夢丸の健気な姿に、佳代は嬉しそうに微笑んだ。
そして、最後の力を振り絞り、震える手で夢丸の毛並みを名残惜しそうに撫でると、夢丸はブウブウと鼻を鳴らし、目を細めて思い切り甘えた。
佳代は満足そうに、微笑み、最後の言葉を夢丸にかけた。
「夢丸、ごめんね……でも、うちに来てくれて本当にありがとう……だって寂しくないもの」
佳代の身体からふわりと力がぬけた。
そして、もやもやと白い煙のような魂が身体から出て、ゆっくり天井に上り、そのまますり抜け、天空まで昇天するのを、夢丸は最後まで見届けた。
「俺もここで死ぬ」
夢丸はそう決意した。
佳代が寝込んでから何も食べていない。ふらふらの身体の最後の力を振り絞り、佳代の亡骸に寄り添った。
そしてほとんど意識が遠のいた時、不思議な気持ちに達した。
(⦅⦅ もう少し生きるんだ ⦆⦆)
どうしてそんな気になったのかわからない。
そして、自分にはもう一つだけ残さられた仕事があるのに気付く。
夢丸は全神経を研ぎ澄ませ、ある人に心の中で吠えた。
どれくらい時が経ったのかわからない。
ついに聞きなれた足音が聞こえたところで夢丸の意識は途絶える。
外にいたのは良治だった。
ここに来る前、聞こえるはずのない夢丸の鳴き声がなぜか聴こえた。
そんな気がした。
まるで自分を呼んでいるように……
そして、導かれたかのようにここへ来た。
「夢丸……」
軒下の犬小屋をのぞくが、夢丸の姿はない。
呼び鈴を鳴らしても、「おーい佳代ネェ‼」と大声で呼びかけても、家の中からの返答はない。
間違いなく何か起きている。
良治は慌てて駐在所へ駆けこみ、お巡りさんと一緒に戻って来た。
お巡りさんに玄関の鍵をこじ開けてもらい、家に飛び込んだ。
「あ、佳代ネェ‼」
良治は横たわる土色の顔の佳代を見つけ、悲鳴のような声をあげた。
すでに息はない。
だが不幸中の幸いは死後間もない事だった。
腐敗もなく眠るような安らか顔だった。
そして、その横に寄り添う夢丸。
そして夢丸も動かない。良治は覚悟した。
「夢丸……お前が……お前が、俺を呼んだんだな」
亡骸に寄り添う健気な夢丸の姿に、良治の胸はこみ上げ、涙と嗚咽をこらえることは出来ず、大きな手で顔をおおい、おいおいと泣いた。
横にいた駐在さんももらい泣きを抑えれきれない。
「最後まで一緒にいてくれたんだな……いい子だ」
良治は夢丸にそっと手を添えると、夢丸はうっすらと目を開き、わずかに首を傾げた。
「お前、生きてるのか‼」
夢丸は生きていた。
良治は驚き、夢丸を抱え、自宅へ連れて行き、全力で介抱した。
寸前の所で一命をとりとめた。
けれども、そんな夢丸を待ち構えるのは「残酷で過酷な経験」だった。