永遠の嘘をついてくれ 打ち込む言葉との対峙につかれると、ネットサーフィンするという悪い習癖がついてしまった。これはまずいと反省しきりだが、しかしその魅力に抗せられない。その日もまたその悪癖にはまり込んでネットサーファーになっていると、まるでその日はそこに導かれるように、中島みゆきが「永遠の嘘をついてくれ」を歌っているサイトがあらわれた。つま恋で行われた吉田拓郎の野外コンサートに、彼女が飛び入りで出演して、その一曲を歌ってあざやかに去っていく。「二〇〇六年」とクレジットされているから十年も前のコンサートである。久しぶりに聞く彼女の歌がひりひりとしみ込んできて何度もリプレイし、その余韻のなかでさらに周辺のサイトをサーフィンしていくと、「永遠の嘘をついてくれ」の歌詞がさっぱりわからない、だれかこの歌詞を解説してくれませんかと打ち込まれたサイトがあらわれた。おそらく十代か二十代の若い女性なのだろう。しかしこの歌はさっぱりわからないと嘆かせるような歌詞なのだろうか。永遠の嘘をついてくれ 中島みゆきニューヨークは粉雪の中らしい成田からの便はまだまにあうだろうか片っぱしから友達に借りまくればけっして行けない場所でもないだろうニューヨークぐらいなのに永遠の嘘を聞きたくて 今日もまだこの街で酔っている永遠の嘘を聞きたくて 今はまだ二人とも旅の途中だと君よ永遠の嘘をついてくれ いつまでもたねあかしをしないでくれ永遠の嘘をついてくれ なにもかも愛ゆえのことだったと言ってくれこの国を見限ってやるのは俺のほうだと追われながらほざいた友からの手紙には上海の裏町で病んでいると見知らぬ誰かの下手な代筆文字なのに永遠の嘘をつきたくて 探しには来るなと結んでいる永遠の嘘をつきたくて 今はまだ僕たちは旅の途中だと君よ永遠の嘘をついてくれ いつまでもたねあかしをしないでくれ永遠の嘘をついてくれ 一度は夢を見せてくれた君じゃないか傷ついた獣たちは最後の力で牙をむく放っておいてくれと最後の力で嘘をつく嘘をつけ永遠のさよならのかわりにやりきれない事実のかわりにたとえくり返し何故と尋ねても 振り払え風のようにあざやかに人はみな 望む答だけを聞けるまで尋ね続けてしまうものだから君よ永遠の嘘をついてくれ いつまでもたねあかしをしないでくれ永遠の嘘をついてくれ 出会わなければよかった人などないと笑ってくれ だれもが夢を抱いて生きていく。その夢を実現したいと生きていく。しかし現実は圧倒的だ。夢は次々に打ち砕かれる。しかし、「いつまでもたねあかしをしないでくれ」──打ち砕かれても、打ち砕かれても、敗北のハンカチを振らないでくれ。「君よ永遠の嘘をついてくれ」──君が掲げたその旗を、高く、より高く掲げて生きてくれ、君は理想のなかで倒れる人ではなかったのか。そんな人生の応援歌ではないのか。ところが中島みゆきが紡いだその歌詞にはもっと複雑な糸が縫い込められていた。私もまたこの若い女性と同じように「この歌詞の意味がさっぱりわからない」と告げるべき一人だった。 この歌詞を解説する人物があらわれたのだ。その人物は彼女の問いかけに長文をそのサイトに打ち込んでいて、それは出色の解説で、なにもかも私がはじめて知ることだった。吉田拓郎がそして中島みゆきが登場してきたのは七十年代だった。その時代の日本は政治の季節だった。安保闘争があり、日大闘争があり、安田講堂事件があり、学生運動がはげしく燃え上がった時代だった。青年たちは人民革命を成し遂げた中国にあこがれた。しかしその一方で、日本は所得倍増、経済大国の道を加速度的に進行させていった時代でもあった。その果てにアメリカがあった。青年たちはアメリカにあこがれた。 この歌詞に記された《ニューヨーク》とはアメリカを、そして《上海》とは人民革命を成し遂げた中国を象徴させているというのだ。そして《成田》という言葉もあらわれてくる。成田は革命を夢見た青年たちの最後の戦いの場所だった。急激に衰退していく学生運動。政治の季節は去っていく。共産主義など幻想であった。資本主義は依然として敵だ。いったいわれらの希望の旗はどこにかかげるべきなのか。 解説者はさらにこの歌詞が誕生した由来も打ち込んでくれていた。なんでも中島みゆきは吉田拓郎の追っかけをするほどの熱烈なファンだったらしく、その影響は多大で彼女がデビューしたとき「女拓郎」と呼ばれるほどだった。ところが彼女を導いたその拓郎が五十代に入る直前になって、歌がまったく書けなくなってしまった。それは深刻なスランプで、おれは所詮、嘘に嘘を重ねたメッセージソングを書いてきた嘘っぱちのシンガーソングライターで、もうこの仮面をはぎ取って廃業しなければならないと脅迫する。そんな精神の窮地に陥っていた拓郎は、なにか救いを求めるかのように、中島みゆきに歌を書いてくれと依頼するのだ。そこで生まれたのがこの曲だった。したがってこの曲は、中島みゆきが吉田拓郎に送った熱烈なるラブレターだったと解説されている。 そんな解説をされた私は、再びつま恋のライブのサイトに引き戻し、そのシーンを何度もリプレイすることになった。ご丁寧なことに二人の現在の年齢、吉田拓郎七十歳、中島みゆき六十五歳、とテロップされている。ああ、われらの歌姫ももう六十五歳になってしまったのか。
次なる挑戦は映画制作 高名なる映画製作のプロデューサーから映画制作をもちかけられ、次なる挑戦は映画づくりだということになった。これはすでに何年も前から私のなかで懐胎されていて、いくつかのシナリオができているのだ。映画が決定的に輝くのはシナリオであって、シナリオが低品質であったら、もうその映画はB級どころか、目の肥えた鑑賞者には五、六分で席をたたれることになる。最近の日本映画やTVドラマといったらC級映画、D級ドラマばかりで、三十七パーセントの視聴率をとったというTVドラマ・半沢シリーズなど、ワンパータンの最悪ドラマで、日本人の映画やドラマの鑑賞力は地に落ちたものだとあきれるばかりだ。 そんななか「草の葉クラブ」が取り組む第一作は「谷根千物語」である。七編のドラマを七人の映画監督が撮ってつなげていく。たんなるオムニバス映画ではなく、つなぎカットの撮影を行って、短編同士をシンクロさせ、群像劇に仕上げるという過去に例のない手法でつくられる。
完璧な挫折、完璧な敗北「誰でも本が作れる、誰でも本が発行できる、誰でも出版社が作れる」。この小さな革命を生起させんと「草の葉クラブ」は、「CAMPFIRE」に「ゲルニカの旗 南の海の島」と「鎌倉時代のかぐや姫」をクラウドファンディングしたが、完璧な挫折、完璧な敗北だった。この完璧なる敗北は、いよいよ「草の葉クラブ」が投じる「誰でも本が作れる。誰でも本が発行できる。誰でも出版社が作れる」プロジェクトが、時代を切り拓く最先端の仕事だということが証明されたことである。そして高尾五郎氏の「ゲルニカの旗 南の海の島」や「鎌倉時代のかぐや姫」が日本の文学の歴史に永遠に刻み込まれていく名作だということもまた証明されたのである。この完璧なる挫折、完璧なる敗北は、新たなる挑戦の意欲が湧きたってくる。新しい展開がはじまっていく。
新編竹取物語の作者円空 それは二〇一〇年のことだった。信州を襲った台風が、明科神宮寺に立っていた樹齢三百年杉の大木を倒すのだが、その大木は鎌倉時代に建立された蔵の上にどっと横転した。無残に押しつぶされた蔵はもはや解体する以外になく、その作業をすすめていると、その蔵の下に強固に防護された地下倉があった。その地下倉に鎌倉時代の財宝や刀剣や衣類や仏像や文書などが所蔵されていたのだが、そのなかに日本の文学の歴史を塗り替える「三浦家所蔵新編竹取物語」という文書が発見されたのだ。この文書には「三浦家所蔵新編竹取物語」という詞書がつけられている。明科神宮もまた三浦家によって建立されたと伝承されているが、この三浦家とはこの信州の地に盛期していた一族ではなくも、はるかに遠く鎌倉時代に三浦半島に興隆した一族だった。源頼朝とともに鮮やかに歴史に登場しきたこの一族は、鎌倉幕府をささえる主要な後家人の位置を占めていたが、宝治元年、ときの執権北条時頼に反旗を翻して立ち上がる。宝治合戦と名づけられたその戦闘を、三浦一族は果敢に戦うが、幕府軍の追撃きびしく、次第に追い詰められると、一族五百余名は法華堂にたてこもり、そこで女子供まで一族すべてが散り果てる。 このとき一族の棟梁である三浦泰村は、すでにその敗北を予知していたのか、三浦家再興のためにと、その戦端を切り開く直前に、一族の財宝や重要文書などを、はるか遠方の信州の地にまで運ばせていた。「三浦家所蔵新編竹取物語」は、おそらくそれらの財宝や文書のなかに紛れこんでいたと思われるのだ。もともと明科神宮寺は、鎌倉時代に三浦一族によって建立されたという言い伝えがあったが、この文書の発見によってその伝承が裏づけられたということにもなる。宝治一年とは西暦に直すと、一二四七年であるから、「三浦家所蔵新編竹取物語」が、そのときたしかに鎌倉より運ばれてきたのであるならば、実に七百五十年も明科神宮寺の蔵の底に眠っていたということになる。 この物語がなぜ三浦家だけに所蔵されていたのか、なぜ三浦家の財宝とともに信州の地まで運ばれてきたのか、なぜこの物語は封印されたまま眠っていたのか、いまとなってはそれらの謎に光りをあてる手がかりがない。この物語の作者として、円空という名がたしかに記されているが、この人物がいかなる人物か、彼に関する歴史資料もまた絶無である。しかし作家というものは、その人生を作品のなかに織り込んでいくものであり、作家の人生がその作品に色濃く反映されていくものである。とすると、この長大な物語を子細に検討していくと、ほのかに歴史の闇のなかから、その人物の像が浮かび出てくるのかもしれない。 頼朝が鎌倉に幕府を打ち立てたとき、頼朝は多くの人材を京都から招聘したり引き抜いてきたりした。政所別当として、鎌倉幕府の骨格をつくった大江広元も、また公文所の長官として法律の整備をしていった中原親能(ちかよし)も、朝廷の官僚であった。役人たちだけではない。僧侶も、武者も、神官も、大工も、職人も、農夫も、商人も、勃興していく鎌倉へと流れていったのだ。この円空なる人物もまた、京から鎌倉に下ってきたのではないのだろうか。さらに推測と想像をめぐらすのだが、この円空は貴族の出ではないのだろうか。それというのも、この物語に描きこまれた生々しいばかりの貴族の像は、自身の生活体験がその背後になければ、とうてい描き上げることができないと思えるのだ。 作者は円空と名乗っている。ということは、あの西行がそうであったように、なにか貴族生活を破綻させるような事件に遭遇したのだろうか。あるいは剃髪しなければならぬ、深刻な煩悶に襲われたのかもしれない。ともあれ彼はなんらかの理由で、貴族生活を捨てた。そして諸国の寺院を遍歴しながら、鎌倉へ鎌倉と足を運んだのかもしれない。あるいはまた、当時洛南に立つ園城寺は、貴族出自の僧侶たちがごろごろしていた。彼もまた園城寺の僧堂で修行を積んでいるとき、その力量を買われて鎌倉幕府から招かれたのかもしれない。 どのような道を通ったにせよ、円空は鎌倉の空の下に立つのだ。深い教養と識見をもつ円空は、無骨でむしろ粗野な鎌倉の後家人たちのなかで、精神の師、あるいは魂の教導者としての役割を担ったのかもしれない。彼のために寺院を建造するという後家人があらわれても不思議ではない。その後家人の一人が、三浦家ではなかったのだろうか。当時三浦家は、北条一族につぐ一大豪族であった。 勃興する鎌倉に居を構えた円空に、むくむくと湧き立ってくるものがあった。彼の教養は、貴族文化のなかで育てられたものだったが、しかし彼のなかに、貴族社会と貴族文化にたいする、激しい嫌悪があったように思われるのだ。自身のなかに流れる、貴族の血と、貴族文化を消し去るにはどうしたらいいのか。道はたった一つしかない。まったく新しい人生と、新しい文化を自身の手によって打ち立てる以外には。 それはちょうど、運慶が直面していた精神の危機でもあった。運慶の父、康慶(こうけい)は奈良仏師の一大権威であった。とうとうと流れてきたその伝統は、父の代に一つの頂点を迎えていたのだ。慶派(こうは)が彫り込む仏像は、どこまでも優雅華麗であり、その流れる線はまるで女性の肉体のようであり、かすかに微笑む面貌は、気品と平安と慈愛の輝きでまぶしい。しかし運慶はそれらの像を嫌悪したのだ。人生は苦しみに満ちたものであり、絶望に打ちのめされるものである。この生々しい人間の苦悩が、それらの像には、どこにも彫りこまれていないではないか。 ではどうしたらいいのか。どのような像を彫り込んでいけばいいのか。若き運慶にはそれがわからなかった。悶々と苦しむそんな運慶に頼朝から誘いがかかるのだ。運慶は鎌倉に渡った。あらゆるものが力強く勃興していく。貴族政治や貴族文化を断ち切って、新世界が誕生していく。運慶はこの鎌倉で開眼したのだ。女性的な曲線ではなく、むき出しの直線で、優雅華麗ではなく、荒々しいばかりの面貌で、生命力をもった彫刻群を次々に彫りこんでいったのは、彼が鎌倉と出会ったからだった。 円空の内部にも、また運慶とまったく同じ精神の律動が起こったのではないのだろうか。彼はもともと文芸の人であった。その文芸の人としての彼の創造力が、荒々しく勃興していく鎌倉に激しくかきたてられた。そして退廃の貴族文化を打ち倒し、新しい文芸の波をつくりださんと、その素材にしたのが「竹取物語」だったのではないのだろうか。「竹取物語」は、近代の数々の物語を鑑賞した者にとっては、実に陳腐である。物語としても未成熟ならば、その底に流れている精神は貧弱であり、なにやら貴族文化の退廃と腐敗がにおってくるばかりだ。そのことをすでに、この鎌倉時代の作者は嗅ぎ取り、徹底的に批判することによって、彼の「新編竹取物語」は書かれていったのではないのだろうか。彼は貴族たちをこの物語のなかで、それはすさまじいばかりに自爆させている。それはあたかも貴族文化や貴族政治の終焉のほら貝を高らかに吹き鳴らしたのかと思われるばかりだ。 事実、貴族政治は、武士たちによってピリオドを打たれた。それならば円空は、貴族政治にピリオドを打った武士たちを、その物語に鮮やかに登場させるべきであった。しかし彼はそうしなかった。実に驚くべきことだが、円空は、時代の苦悩を背負う者として、時代を切り開く者として、貧しき村の貧しき樵を登場させるのだ。かぐや姫の恋の相手になるのは、帝でもなければ、貴族や武士でもなかった。社会を変革していく主体として、杣(そま)を業とする若者を登場させ、その樵とかぐや姫の悲恋の物語にすることによって、円空は新しい時代を切り開く文芸の波をつくりだそうとした。もしそうであるならば、はるか鎌倉の時代に、すでに円空は、人間は平等であるという今日の思想を、すでに先取りしていたということになる。 円空はこの物語を書き上げた直後に、忽然と世を去った。三浦家は彼の逝去を悲しみ、盛大な葬儀で送り出した。そのとき彼の書院の卓の上にのっていたこの長大な物語を、三浦家は家宝として蔵深くにしまい込んでしまったのではないのだろうか。もし他者にこの物語が渡っていたならば、かならず世に伝播していったはずだが、歴史はその存在を無視したままだったところをみると、この推測は十分に成り立つ。そしてあの宝治合戦で、三浦家が歴史から消え去る直前に、三浦家を再興させるための家宝として信州の地に運び込まれると、そのまま八百年の長きに眠りについていたと推測と想像の翼をはためかせるのだが、果たして事実はどうであったのだろうか。歴史の闇をどんなに見事に推測しても、的中する確率といったら宝くじを当てるようなものであろうが、しかしその謎が深ければ深いほど、人は懸命に想像の翼を飛翔するものである。 ともあれこの驚愕すべき「新編竹取物語」は間もなく私たちの手に渡る。その全編を朗々と朗誦したらゆうに五時間を越えるだろう。皇子たちは、海を、陸をかけめぐり、かぐや姫は月に帰っていく。まさに宇宙的規模をもった壮大な史劇である。どんなに深く土中に埋もれていようとも、すぐれた玉は自ずから光を放っていくのであり、眠りから覚めたこの史劇もまた自らの力でかならず世に広がり渡っていくだろう。
ヘンリー・D・ソローの「森の生活」ソローが生存中に世に投じた本は二冊で、最初の本「コンコード河とメリマック河の一週間」は一八四九年に出版された。出版されたといっても一千部ほど刷っての自費出版で、二一九冊がどうにか売れ、七五冊が寄贈され、残りの七○六冊は彼の部屋に積み上げた。ソローにとって売れなかったことは嘆きでなく誇りであった。彼は日記にこう書いている。「私はいまや九百冊近い本を所蔵しているが、そのうち七百冊以上が私の書いた本である」と。そして一八五四年、「森の生活」(原題はWALDENであり副題にLIFE IN THE WOODS。酒井訳では「ウォールデン──森で生きる」と題されて投じられている)は、今度は二千部ほどが刊行された。この本はそこそこに売れたらしいが、しかしそれとて広大なアメリカ大陸に、コップ一杯ほどの水をまいた程度のことだった。しかし彼の死後、この本は世界に渡っていく。トルストイがたびたびこの本を引用していることに驚いたことがあるが、トルストイに限らずいまなお世界に深刻な影響を及ぼし続けている本である。日本人にもこよなく愛されていて、現在数種類の翻訳本を手にすることができる。このような現象がみられるのは日本だけだろう。なぜ「森の生活」がこれほど日本人に愛されるか、そのことを誰よりも熟知しているのは翻訳者たちであって、彼らがいかなる思いでこの本に立ち向かっていったかを抜き書きしてみることにする。 酒本雅之はこう記す。「ウォールデンは森の暮らしの物語ではない。手段の獲得をぜったい不可欠な必要事と決めこんで、本当の目標には見向きもしない人間社会のありように、自然の多様で充実した世界を対置させて、人間のめざめと誕生をなんとか成就させたいという願いが、作品全体を貫き流れる主旋律だ。「夜明けはまだまだこれからだ。太陽など所詮は明けの明星でしかない」という結びの一句は、未来にかけるソローのこの思いの深さを雄弁に語っている。佐渡谷重信はこう記す。「名作とはその中に《生命エネルギー》を貯えていて、いつの時代にも、人々にそのエネルギーを放射してくれる著作をいう。人間は常に己の愚かさの故に災禍と苦悩にさいなまされていることに気がつかない。今日の時代において、ソローの《生命エネルギー》を感得しない者は人生の半分も生きなかったことになる。否、君は精神の堕落を救済することができず、最後は、人生を見失うであろう」真崎義博はこう記す。「この作品がほぼ百三十年前に書かれたものだということは明らかなのだけれど、それ以上に、ソローはぼくの同時代人であるかのような気がしてならなかったのだ。たとえば、ソローがウォールデン湖に住んだのは二八歳のときだ。いまのぼくより若い。そういうこともあって一人称には《私》ではなく《ぼく》を使った。《ぼく》を使うことで。ソローという人間をできるかぎり身ぢかにひきつけたかったからだ」飯田実はこう記す。「ソローはこの作品が、自然とともに生きた彼の忠実な生活記録であると同時に、人間の第一目的はなにか、人生をどう生きるべきか、といった根本問題に直面して悩んでいる若い読者のために書かれたことを、くりかえして強調している。実在が架空のものとされる一方で、虚偽と妄想が確固たる真理としてもてはやされている人間世界の現実を、容赦なくあばいていく」今泉吉晴はこう記す。「この本は、ソローが二七歳で森に移り住み、その経験から学んだすべてを、見えてきた世界のすべてを書いた傑作です。若者の本です。なぜ、森に入って家を建て、畑を作り、自然を見て生きてきたのか、森でどんな経験をしたのか。ソローは住んだ森から散歩に出て、人間の社会も、鉄道も、工場も観察しました。それにしても、なぜソローは、わざわざ森から、人の社会を観察する必要があったのでしょうか」彼らはどのような日本語で「森の生活」に立ち向かったのだろうか。ソローが刻み込んだ英語をどのような日本語で編み上げていったのだろうか。ある日、彼は完璧な杖を作ろうと思いたったWhy should we be in such desperate haste to succeed, and in such desperate enterprise? If a man does not keep pace with his companions, perhaps it is because he hears a different drummer. Let him step to the music which he hears, however measured or far away. It is not important that he should mature as soon as apple-tree or an oak. Shall he turn his spring into summer? If the condition of things which we were make for is not yet, what were any reality which we can substitute? We will not be shipwrecked on a vain reality. Shall we with pains erect a heaven of blue grass over ourselves, though when it is done we shall be sure to gaze still at the true ethereal heaven far above, as if the former were not?「なぜぼくらはそれほど成功を急ぎ、それほど必死の企てをしなければならないのだろう? 人が自分の仲間と歩調を合わせていないとすれば、それは、たぶん仲間とは別なドラマーのリズムを聞いているからだ。どんなリズムのものであれ、どんなに遠くから聞こえてくるものであっても、自分に聞こえる音楽に合わせて歩けばいいのだ。リンゴの木やオークのようにすぐに成長しなければならないという主張など、とるに足らない。自分の春を夏に変えろとでもいうのだろうか? それに合わせてぼくらがつくられたその諸条件が整わないのに、代用できるリアリティにどんな意味があるというのだ? ぼくらは、虚しい現実のうえで難破などすまい。ぼくらは、苦労して自分のうえに青いガラスの空を作るべきだというのか? どうせできあがってしまえば、まるでそんなものはないかのようにそのずっとうえにある本物の霊妙な天を見つめるにきまっているのだ」(真崎義博訳)「なぜ、そんなに死にもの狂いになって成功を急ぎ、死にもの狂いになって事業に成功したいのか? 人が自分の同僚と一緒に歩調を合わせようとしないとすれば、それは、多分、違ったドラムの音を聴いているからであろう。そのドラムがどんな拍子だろうと、また、どんなに遠く聞こえてこようと、聴こえてくる調べに調子を合わせて、歩こうではないか、林檎や樫の木のように、早く成長することが重要なのではない。人は自分の春を夏に変えてしまおうとするのだろうか? 色々な物事が未だ役に立つような状態になければ、それに代る現実の問題として、どのようなことが考えられるのであろうか? われわれは空虚い現実の世界で難破などしたくはない。苦労して頭上の青硝子の天空(欺瞞の世界)を張りめぐらす必要があるのだろうか? 頭上に青硝子が張られても、そんなものは、いままで存在しなかったかのように、その上に広がる本物の天空の彼方を、われわれはじっと見つめるのである」(佐渡谷重信訳)「なぜわれわれは、こうもむきになって成功をいそぎ、事業に狂奔しなくてはならないのだろうか? ある男の歩調が仲間たちの歩調とあわないとすれば、それは彼がほかの鼓主のリズムを聞いているからであろう。めいめいが自分の耳に聞こえてくる音楽にあわせて歩を進めようではないか。それがどんな旋律であろうと、またどれほど遠くから聞こえてこようと。リンゴやオークの木のように早く成熟することなど、人間にとって重要ではない。われわれが春を夏に変えろとでもいうのだろうか? 自己本来の目標を達成できる条件もともなわないうちに、現実をとりかえてみたところでなにになろう? 我々は空虚な現実に乗りあげて難破するのはごめんである。それとも、労苦をいとわずに、頭上高くそびえる青グラスの天井を建設すべきだろうか? たとえそれが完成したところで、われわれはそんなものものを無視して、やはり、はるかなかなたの霊気に満てるまことの天を仰ぎ見るものときまっているのに?」(飯田実訳)「どうしてぼくらはこうまで成功をめざして死にものぐるいに先を急ぎ、おまけにこうまで意味のない企てばかりにあくせくするのか。もしも仲間と歩調の合わない者がいたら、たぶん彼には別の鼓手の打ち鳴らす太鼓の音が聞こえているのだ。どんな律動だろうと、どんなに遠く遥かな響きだろうと、自分の耳に聞こえる楽音に合わせて歩けばいい。リンゴの木やオークみたいな成熟の速さなど彼にはどうでもいいことだ。せっかくの春を夏に変えるにも及ぶまい。ぼくらのためにと用意された本来の境遇がまだ到来していないのなら、どんな現実にその代わりをつとめさせてみても何になろう。ぼくらは空しい現実に乗り上げて難破するなどまっぴらだ。苦労して青いガラスの天穹を頭の上に作ってみても、いざ完成となったとき、まるでそれが影も形もないかのように、遥か高みに澄みきったまことの天空を相変わらず見上げることになるに決まっている」(酒本雅之訳)「わたしたちはなぜ、これほど捨て鉢に成功を急ぎ、事業に命を賭けるのでしようか? あなたの歩調が仲間の歩調と合わないなら、それはあなたが、他の人とは違う心のドラムのリズムを聞いているからです。私たちはそれぞれに、内なる音楽に耳を傾け、それがどんな音楽であろうと、どれほどかすかであろうと、そのリズムと共に進みましょう。私たちは、リンゴの木やオークとも違います。それらの木ほど早く実をつけることは、私たちには大切ではありません。かけがえのない人生の春を早々に切り上げ、ひと思いに夏に入りたいと、誰が望むのでしょうか? 私たちを生き生きさせる季節は遠く、世界の何を見たらいいでしょう。無理に動いても、面白くもおかしくもない現実にぶつかって難破します。それとも、大いなる労苦を払い、頭上に青いガラスの天井を築くべきでしょうか? たとえ青いガラス天井を築いても、私たちは、そのはるか彼方に、しかしとらえがたい真の天空が、青いガラスの天井など存在しないかのように、青く輝くのを見るだけです」(今泉吉晴)There was an artist in the city of Kouroo who disposed to strive after perfection. One day it came into his mind to make a staff. Having considered that in an imperfect work time is ingredient, but into a perfect work time does not enter, he said to himself, it shall be perfect in all respects, thought I should do nothing else in my life. He proceeded instantly to the forest for wood, being resolved that is should not be made of unsuitable material; and as he searched for and rejected stick after stick, his friends gradually deserted him, for they grew old in their works and died, but he grew not older by a moment. His singleness of purpose and resolution, and his elevated piety, endowed him, without his knowledge, with perennial youth. As he made no compromise with Time, Time kept out of his way, and only sighed at a distance because he could not overcome him. Before he had found a stock in all respects suitable d the city Koruoo was a hoary ruin, and he sat on one of its mounds to peel the stick.「クールーの町に、完璧をめざしたアーティストがいた。ある日彼は、杖を作ろうと思いたった。完璧でない仕事では、時間というものが仕事をするうえでのひとつの要素になるけれど、完璧な仕事には時間の問題など入り込む余地はないと考え、彼は、たとえ生涯他になにもしなくてもいい、あらゆる点で完璧なものを作ろう、と心に誓った。不適当な材料で作るわけにはゆかないというので、すぐに森へ木を探しに出かけた。一本一本吟味して捨ててゆくうちに、友人たちは仕事をしながら年を取って死んでしまい、彼を置き去りにしていったが、彼自身はちっとも老け込こまなかった。その目的と決意の固さと敬虔深さが、知らないうちに永遠の若さ賦与したのだ。彼が時間との妥協を排したので、時間は彼の進路に近づくこともできず、遠くでため息をつくばかりだった。時間は、彼を屈服させることができなかったのだ。あらゆる点で合格と思われる木を見つけるまえに、クールーの町は廃墟となっていた」(真崎義博訳)「クールーの町に一人の工匠がいて、完璧な仕事を目指して努力していた。ある日のこと、杖を作ることを思い立った。不完全な仕事をするなら時間が気になるが、完璧な仕事をしようと思えば、時間など気にする事はない、と彼は考えていたので、自分の生涯で他に何も作ることがないとしても、この杖だけは、あらゆる点で完璧なものに仕上げよう、と自分に言い聞かせた。不適当な素材で作るべきでないと決心して、早速、材料の木を求めて森林に入り、一本ずつ木を吟味しては捨てていくと、一緒にいた友人たちは徐々に彼を見捨てていった。というのは、友人たちが森で仕事中に年を取って死んで行ったからである。ところが彼は瞬時たりとも年を取ることはなかったからだ。この工匠が一心不乱に仕事をし、そして彼の気高い敬虔さゆえに、知らず識しらず、永遠の青春が彼に与えられた。彼は《時間》と妥協しなかったので、《時間》の方が遠慮し、離れた所から溜息をもらした。《時間》は彼に打ち克つむことが出来なかったからである。いろいろ考慮したあげく、適当と思われる丸太が見つかる前に、クールーの町は灰色で覆われ、廃墟と化してしまった」(佐渡谷重信訳)「むかし、クールーの町に、完璧を志して精進する人の芸術家がいた。ある日、彼は一本の杖をつくることを思いついた。不完全な作品は時間に左右されるが、完全な作品は時間とは無関係であると考えた彼は、「よし、おれの一生でほかになにひとつ達成できなくてもかまわないから、あらゆる点で非の打ちどころない杖をつくることにしょう」と、ひそかにつぶやいた。彼は、この目的にふさわしくない材料は断じて使うまいと心にきめて、さっそく木を探しに森へ出かけた。枝木を一本一本調べては捨てているうちに、友人たちはつぎつぎと彼のもとを去っていった。彼らは仕事をしているあいだに年を取り、死んでしまったのに、彼のほうはわずかなりとも老いることはなかったからである。その目的と決意の一徹さ、および信仰心の高揚が、本人も気づかぬあいだに、永遠の青春を彼に与えていたのである。「時間」と妥協しなかったおかげで、「時間」のほうが彼を避けたのだ。彼をうち負かすことができなかったので、「時間」は遠くからため息をついているほかはなかった。どこから見ても杖にふさわしい木の幹を、男がやっと探しあてたころには、クールーの町はすでに蒼然たる廃墟と化していた」(飯田実訳)「クルの町に、完全であろうとつとめずにはいられない質の芸術家がいた。ある日のこと、彼は杖を一本作ってみようと思いたった。不完全な作品でよければ時間のことも考えにいれなければなるまいが、完全な作品には時間など無用と彼はひそかに思案し、たといほかに何一つ果たさぬままで生涯を終えても、この杖だけはあらゆる点で完全なものにしようと思いさだめた。そこで彼はふさわしくない材料は使うまいと決心して、すぐさま森へ木を探しに出かけた。枝木を探しては、一本、また一本と捨てていくうちに、他の友人たちは次第に彼から離れて行った。彼等は仕事をしながら年老いて死んで行ったが、彼だけは一瞬たりとも老いることはなかったのだ。彼の目的と決意のいちずさ、それに彼の気高い献身が、彼自身も気づかぬうちに、彼に永遠の若さを与えた。彼が「時間」との妥協をしなかったので、「時間」が彼に近づかず、とうていかなわぬ相手と見て、遠く離れてただ溜め息をつくばかりだった。あらゆる点でふさわしい木材を彼はまだ見つけていないうちに、すでにクルの町は古色蒼然たる廃墟と化した」(酒本雅之訳)「昔、インドのクールーの町に、ひとりの芸術家が住んでいました。長く精進してきた彼は、ある日ひそかに、杖作りに全力を尽くそう、と心に決めました。満足できない作品が生まれるのは、時間に急かされるため。完璧を求めるなら、時間を超越すべし、と自らに言い聞かせた彼は、人生で一本の杖しか作れなくても、すべてに満足できる作品を目指しました。芸術家は森に入り、わずかの欠陥も見逃さない決然たる姿勢で、杖の原木を探しました。これは、と思う木を取っては捨て、捨てては取るうちに、友人が次々に彼のもとを去りました。友人らはみな仕事に忙しく、歳をとり、この世を去りました。ところが、当の芸術家は、ほんのかすかにさえ老いの兆しを見せません。彼の尊い目的と専心と高き思いが、期せずして永遠の若さをもたらしました。芸術家が断じて時間と妥協しないために、さしもの時間も手こずり、溜め息をついて道をあけ、見守るよりほかになかったのでしょう」(今泉吉晴)