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一冊の本が世界を変革することがある。小さな出版革命はやがて大地に広がっていく。

明科神宮の蔵から鎌倉時代に書かれた「三浦家所蔵新編竹取物語」が発見された。その古文書が高尾五郎氏の現代語訳によってついに世に投じられる。「草の葉ライブラリー」がクラウドファンディングによって放つ第二弾。「明科神宮に七百五十年眠っていた──かぐや姫」

現在の支援総額

120,800

120%

目標金額は100,000円

支援者数

18

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2020/08/20に募集を開始し、 18人の支援により 120,800円の資金を集め、 2020/09/30に募集を終了しました

エンタメ領域特化型クラファン

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支援者数18

このプロジェクトは、2020/08/20に募集を開始し、 18人の支援により 120,800円の資金を集め、 2020/09/30に募集を終了しました

明科神宮の蔵から鎌倉時代に書かれた「三浦家所蔵新編竹取物語」が発見された。その古文書が高尾五郎氏の現代語訳によってついに世に投じられる。「草の葉ライブラリー」がクラウドファンディングによって放つ第二弾。「明科神宮に七百五十年眠っていた──かぐや姫」

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海からの贈物
2020/09/22 15:37
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落合恵子さんが翻訳されたアン・リンドバークの「海からの贈物」を、その一行一行を検証してその全文を厳しく批判したサイトがある。このサイトでは落合訳は犯罪的な偽造とまで酷評されている。これはネットがつくりだす罵詈雑言、非難中傷といったたぐいのものではなく、英語のよくわかる人物が、「Gift from the Sea」の真価を守るために、膨大な時間を投じてこのサイトを立ち上げたのだろう。その全文が熱情をもって打ち込まれている。おそらく落合さんの英語力は私と同程度のものであり、とうてい翻訳する力などないが、とにかくこの本の素晴らしさを若い仲間に伝えたいという一身から、吉田健一訳に導かれてというか、吉田健一訳を捏造しながら立ち向かっていったということなのだろう。要するに落合さんが世に放った「海からの贈物」は、落合さんの言葉で編み上げていった落合さんのメッセージソングみたいなものだった。アンは詩人でもあった。だからその英文は詩情にあふれているが、気の毒なことに落合訳には、その詩情がことごとく失われて、ただ殺伐としたメッセージソングになってしまった。吉田健一の訳はだれもが唸るばかりの見事な訳で、英語という言語を知り尽くし、真正の日本語を紡ぐ力をもっている人に手にかかった名訳である。貧弱な英語力しかない私はこの吉田訳に導かれて、原文がより鮮明に理解できるようになったのだが、しかし次第にこの吉田訳に別の光が差し込んでくるのだ。私はアン・モロー・リンドバーク(吉田健一訳ではいまだに著者名はリンドバーク夫人になっているが、落合訳ではアン・モロー・リンドバークと本名を記して一人の女性として確立させている)を主題にした三本の戯曲に取り組んだこともあって、「海からの贈物」の英文をそらんじるまでに繰り返し親しんでみるとき、吉田健一が紡いだ文体は男の旋律、男が歌い上げる声と歌であって、女性が紡ぐ日本語、女性の旋律、女性が歌い上げる声と歌を聞きたいと思うようになるのだ。往年の名優であるクローデッド・コルベールがこの「Gift from the Sea」を朗読している。その朗読を繰り返し聞くとき、その原文の旋律は吉田健一訳ではない。例えば、「海からの贈物」の冒頭に次のようなフレーズがでてくる。But it must not be sought for or─heaven forbid! ─dug for. No, no dredging of the sea bottom here. That would defeat one’s purpose. The sea does not reward those who are too anxious, too greedy, or too impatient. To dig for treasures shows not only impatience and greed, but lack of faith. Patience, patience, patience, is what the sea teaches. Patience and faith. One should lie empty, choiceless as a beach─waiting for a gift from the sea.しかしそれをこっちから探そうとしてはならないし、ましてそれが欲しさに砂を掘り返したりすることは許されない。海の底を網で漁るようなことをするのはここでは禁物で、そういうやり方で目的を達することはできない。海はものほしげなものや、欲張りや、焦っているものには何も与えなくて、地面を掘り返して宝ものを探すというのはせっかちであり、欲張りであるのみならず、信仰がないことを示す。忍耐が第一であることを海は我々に教える。忍耐と信仰である。我々は海からの贈物を待ちながら、浜辺も同様に空虚になってそこに横たわっていなければならない。(吉田健一訳)このフレーズの目玉は《Patience, patience, patience》と、Patienceが三度繰り返される部分だが(吉田訳ではこのくだりは別の表現でなされている)、コルベールはこの部分を母がわが子に、あるいは若い読者に諭すように朗読されている。「海からの贈物」は現代という時代に鋭く切り込んだ思索的、あるいは哲学的エッセイだが、しかしその文体はあくまでも柔らかく慈愛に満ちていて、いってみればアルトソプラノといった声調なのだ。朗々と雄渾に響きわたる、いってみればテノールかバスの声調で編み上げた吉田健一訳に匹敵する、アルトソプラノで紡がれていく日本語訳が登場するのは待っているのは私だけではない。詩情にあふれた美しい日本語が聞きたい。


新しい旅立ち
2020/09/22 15:23
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 その遠く隔てた距離のために、卒業してからたしか二年目か三年目に一度東京で会ったきりだった。しかし年賀状とか、あるいはちょっとした近況のやりとりは続けていたのだ。ところが三年前、ひどく謎めいた、なにかただならぬ手紙をよこしたあと、ぷつりと音信を断ってしまった。それは私とだけではなく、彼と親しくしていた共通の友人にたずねても同様な返事がかえってきたから、私たちの前から姿を消さなければならない、なにかただならぬ事件といったものが、彼の身の上に起こったのかもしれないと思ったりした。 実際、その手紙は謎めいていた。分校をつぶしたとか、子供を殺してしまったとか、一家を虐殺したとか、村をつぶしたとか、ぼくは裏切り者だとか、この罪を永遠に許さないといった言葉が書かれていたのだ。しかしそれ以上のことはなにも書かれていない。いったい村をつぶしたとはどういうことなのか、子供を殺したということはどういうことなのか、一家を虐殺したとはどういうことなのか、私は二度ならず三度まで手紙をしたためたのだが彼からの返事はなかった。 そんな彼のことがずいぶん気になっていて、幾度か彼の住む島を訪ねようとしたが、飛行機をつかっても最低一週間、もし海が荒れて船が欠航でもしようものなら二週間近くの休暇を覚悟しておかねばならない。そんな長い休暇をとるには一大決心を要することで、なかなかふんぎりがつかずにずるずると時を重ねていたのだ。  ところが今年の賀状の束のなかに、彼の賀状もまじっていた。それを手にしたとき、どんな事態に見舞われたのかわからぬが、彼は再び立ち上がったと思った。彼は挫折することや絶望することを禁じられた男だった。挫折や絶望のなかにではなく、理想のなかに倒れるためにこの世に放たれた男だったのだ。 彼の賀状ほどうれしいものはなかった。というのはその年が終わろうとする十二月の半ばに、四年という長かったのか短かったのかわからぬ結婚生活にピリオドを打って、私は離婚したのだ。私と彼女を引裂いた亀裂はもうずいぶん前から走っていて、そのピリオドはいわば私たちの解放であったのだが、離婚という現実にいざ直面してみると、やはり十分すぎるほど打ちのめされた。そんなときはるか遠方より思いがけない、しかし私が一番会いたかった男からの便りは、光のない洞を徘徊しているような私には、なにか一つの救いのような意味をもっていたのだ。 幸い私たちには子供がいなかった。仕事をもっている彼女が子供をつくることを始終拒否したのだが、今にして思うとはじめから彼女はこの日がくることを予感していたのではないかとも思えるのだった。そんな冷静な読み方をしていた彼女に新しい憎しみが湧くのだが、離婚とはこのどろどろとした感情の泥流があとからあとから押し寄せ、暗い淵へ暗い淵へと押し流していくことだった。どこまでも沈みこんでいく気持ちのバランスを取り戻そうと、男と女が一緒になることも別れることも、同じ次元の行為なのだと思おうとした。しかし離婚と結婚とはまるで別の次元のことだった。離婚とは切り崩していくことだった。なにもかも、ことごとく、ずたずたに切り崩していくことだった。 その日はぐずぐずと雨が降っていた。いつものように残業を終えてアパートに戻ってみると、部屋がすっからかんになっていた。彼女の持物がすべて運び出されていたのだ。私の生活が困らぬ程度のものは残していってくれたのだが、小さな部屋を占領していたタンスやら鏡台やら彼女の机やらを運び出されたあとは、ほとんど空っぽに等しかった。それは前から二人のあいだで了解ずみのことだったが、いざその光景を目の当りにしたとき、なにか私の内部がざっくりとえぐりとられたように思えた。その場にいたたまれなくなった私は外に飛び出し、雨のなかをあてどなく歩きつづけたが、私は人を愛することができない失格者であり、人生の脱落者なのだという声がどこまでも追いかけてきた。  私の会社は事務機器メーカーとしては日本で一、二を争う会社だった。給料だってボーナスだって悪くはなかったし、ずっと本社勤めでいわば陽の当たるポストを歩いていた。次第に大きな仕事を受持つようになり、そのことに情熱を燃やしていた。私はそんな生き方になんの疑問ももたなかった。ところが離婚したあたりから、なにかさっぱり仕事が面白くなくなっていった。ひどく醒めた目で、いったいこんなことをしてどうなるのだ、結局商品をばらまいて、金をせしめていくだけのことではないか、といった調子で自分の仕事を眺めるようになったのだ。いったんそんな眺め方をしてみると、次々に疑問が湧きおこっていくのだった。これでいいのだろうか。こんな人生でいいのだろうか、と。築き上げてきたものがどっと崩れていくなかで、最後の砦までも疑いだしていたのだ。  ちょうどその頃、友人の紹介で一人の男が私をたずねてきた。私の会社のオフイスは最新の事務機器がならび、モデルルームになるほど垢抜けていた。そんななかにあらわれたその男は、あまりの場違いさにちょっとおろおろしていた。浅黒い肌をしたその男は、どことなくみすぼらしかった。履いているズックの靴の小指のあたりが、すりきれていて中身が見えていた。男は小井丸だと名乗った。彼はインド中部のアーマドガナルという所から出てきたのだった。  私は彼にすぐに好意をもった。どこかでこういうタイプの人間と会ったことがあり、なにかひどくなつかしい思いにとらわれた。与え続ける人間のにおいなのだ。常に自分を与え続けるタイプの人間だということをその全身ににじませていた。だれなのだろうか、いったいどこで会ったのだろうかと、しばし思案をめぐらせたが、小井丸と別れたあと、それがだれなのかわかった。樫山だった。風貌はまるで違っていたが、そこから漂ってくる雰囲気がそっくりなのだ。小井丸はインドの奥地で学校づくりをしているのだった。  学校といっても寺小屋に毛の生えたようなものだった。しかしそのあたりのいくつもの部落から二百人近い子供たちが通ってくるというのだ。何枚もの写真をみせながらその学校について説明したあと、ちょっと言いにくそうに鉛筆を寄附してくれないだろうかと切り出した。私はどのぐらい必要なんですかとたずねたが、その数があまりにもひかえめだったので思わず苦笑してしまった。鉛筆が手に入ったとしても、ノートといったものはあるんですか、消しゴムだって、筆箱だって、色鉛筆だって、クレヨンだって、と私は日本の学校で使う文房具をあげていった。そのとき私はこの男のためにひと肌ぬいでやろうと決意していたのだ。私はなにかに憑かれたようにそのことに熱中した。部長や専務にまで働きかけ、私の管轄する支店や小売店などにも何度も足を運んで、二百キロ、ダンボール箱にして十個になるまでの学用品を集めて送りだしたのだ。  小井丸から驚きと感動をにじませた礼状が届き、それに追いかけるように、私が送った鉛筆やクレヨンでかいた子供たちの手紙や絵をつめこんだ小包が届いた。その子供たちの絵は、私に学生時代のある熱い体験をいやが上にも思いださせた。そしてそのなかに百人近い子供たちが、貧弱な木造の校舎を背にしておさまっている写真も同封されていたが、その写真をくり返し眺めているうちに、なにかそのなかに私の魂といったものが吸いこまれていくような気がした。彼に小包が無事に着いたことを感謝する手紙を書いたとき、そのことにふれ、自分もまたその地であなたと同じような情熱を燃やせたら幸福だろうなと書いたのだ。  しばらくしてまた彼から長文の手紙が届いた。レター・ぺーパーに小さな文字でぎっしりと書きこまれていたその手紙は、《日本人特有の婉曲な表現なのでしょうが、あなたの手紙をぼくは馬鹿だからまともに受けました。そしてあなたにこの地にお誘いする手紙を書くことにしました》という書き出しではじまっていた。そしてその地で格闘してきた彼の歴史といったことがめんめんと綴られ、いまなお困難な状況にあり個人の力ではどうすることもできない障害の山がいくつもあり、ぼくの小さな行為など乾いた砂漠に流しこむコップ一杯の水ほどの意味しかないという思いにとらわれ、幾度も絶望と無力感に襲われると書かれていた。  もしその手紙がただ甘い誘いの手紙、未来は薔薇色に包まれているとか、大きな可能性が一つ一つ実現されていくとかいった明るい言葉が書かれていたら、私の心はかくも大きく動きはしなかっただろう。小井丸の赤裸々な吐露が続き、ぼくの小さな行為など、砂漠のなかに流しこむカップ一杯の水にすぎないのではないかという無力感に襲われるというくだりを読んだとき、私はいま自身が落ちこんでいる無力感とか虚脱感は、なんと小さくけちくさいのだろうと思わずにいられなかった。そして自分もまた小井丸のような生そのものが燃焼できるような人生を歩んでみたいという思いに、はげしくとらわれるのだった。  私にはたった一週間にすぎなかったがある熱い体験があった。夏休みに入ると、宗教部の部員たちは、そのころ日本のチベットなどといわれた岩手県の葛尾村を目指す。その村でなにをするかというと、村の子供たちと劇づくり、それもミュージカルを作り上げるのだ。そんな活動がもう何年も前から行われていた。私もまたその夏、葛尾村を目指したのだ。東北本線の沼宮内という駅で降り、そこから一時間半もバスにゆられ、いくつもの峠をこえていく旅に、なるほどそこは日本のチベットだと思った。村に入ると私たち一行は大歓迎された。村の学校の校庭で歓迎式といったものが村の人々が見守るなかで行われた。彼らの活動がすでに深くその地に根をはっていることに、私はひどく感動したものだ。 その日から村の子供たちとの活動がはじまった。村の子供たち、村の大人たち、そして東京からきた大学生たちでミュージカルの舞台を作り上げるのだ。一週間の滞在だった。舞台装置がつくられ、コーラス隊やちょっとした合奏団がつくられ、ステージで演じる子供たちはセリフをおぼえ、さらに歌いながら踊り、踊りながら歌わねばならない。なかなか高度なステージを樫山たちは作り上げようとしていた。発表会の日がやってきた。小学校の体育館にはそれこそ村中の人々が集まってきた。その劇は素晴らしい出来だった。私たちの熱意に子供たちはしっかりとこたえてくれたのだ。 別れの日がやってきた。子供たちは停留所まで見送りにきた。バスに私たちが乗り込むと、もう子供たちは泣きだしていた。そしてバスのあとをどこまでも追いかけてくる。私のなかに熱いものがつきあげて胸がふるえた。東京に戻ってきてもその感動の余韻がいつまでも残っていて、経済学部に籍をおきただ漠然と会社員になろうとしてきた私は、むしろ教師に向いているのかもしれないと思ったが、もう針路を変更するには遅すぎた。 小井丸に会ってからその熱い体験が幾度も蘇ってくるのだった。そしてあれこそ私の中心なのではないのか。あの体験こそ私がずっと求めていたものではないのか。樫山という男に強く心ひかれてきたのも、僻地に赴任した彼のことがいつも気になっていたのも、そしてインドの奥地で苦闘する小井丸にはげしく心ゆさぶられるのも、あの体験があったからなのだ。あれこそ私がこの地上に立つための体験だったのではないかと思うようになった。もう私の心の動きを止めることはできなかった。小井丸に私の決意を伝えると、あなたがくるなと言っても私はいくつもりです。私はあなたのもとでもう一度人生を最初からやり直してみたいのですという手紙をしたためると、次の日はもう会社に辞表を出していた。 そして旅立ちの日を六月の半ばときめると身辺の整理をはじめた。離婚によって私は丸裸同然だったから、もう整理するものなどないに等しかったのだが、それでもすべきことは沢山あった。もう二度と日本に戻ってこないなどとは思わなかったが、それでも数年間はどんな事態に見舞われても戻るまいと決意していたから、実家はむろん親戚とかさらには私を愛してくれた先輩や友人たちには、きちんと挨拶をしておこうと思った。そんななかどうしても会っておかねばならなかったのは樫山だったのだ。 平島から瀬戸島、千石島、笠戸島と回った南海丸が、樫山の住む姫島を間近にとらえたのは、鹿児島を出港してから二日目の朝十時ごろだった。五月の陽光をうけて白い砂浜がきらきらと輝いていた。緑につつまれた丘陵がゆるい起伏を描いている。おだやかで柔和なたたずまいをした島だった。とうとうきた、これでようやく地獄の苦しみから解放されると思った。しかしそれにしてもなんという遠さなのだろう。まるで地の果てにきたように思えるほどだった。


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「ハーツォグ」というアメリカの作家ソール・ベローが書いた長大な小説がある。この小説の主人公ハーツォグは、退職した大学教授で、その内部が荒廃しているというか、精神の崩壊の危機のなかにある。錯乱していく精神を必死に支えようと、ひたすら手紙を書きまくるのだ。その手紙を投函するわけではない。とにかくその手紙の相手というのが、ヘーゲルとかニーチェとかいった歴史上の人物であったり、大統領とか州知事とかいったマスコミに登場する未知の人物であったり、あるいは死んだ母親やかつての愛人たちであったりとかで、投函しようがないのだ。 なぜ彼はそんな手紙を必死に書き続けるのか。「彼の苦悩の真摯さを認識してもらうために。返事を求めているわけではない。不毛の思想への憤りと抗議である。問うこと自体が、彼みずから解答を導き出す手段であり、追及する真理は返事にはなく、問いの過程そのものにある」(宇野利康訳 早川書房)。ぼくがこの開墾地に手紙を打ち込みはじめたのは、ハーツォグ的心境かもしれない。不毛なる社会への憤りと抗議という片鱗もある、自らの解答を導き出す手段という片鱗もある、あるいはまた不毛なる地に新しい地平を切り開こうと苦闘する手紙という片鱗もある。 いざこの試みを始めてみると、次々に手紙を書かねばならぬ人物が登場してくる。開墾地の隣にさらに広大な森林づくりをはじめたものだから、書きたい相手は増えつづけるばかりだ。このあふれでる欲望を満たすには、毎月何本ものの手紙を書かねばならないが、力のないぼくには一月に一本というのがやっとというところ。 それでも応答を求めない手紙を律儀に書きはじめたのは、新大陸に上陸したからである。この大陸に上陸しなかったら、このような試みなどちらりとも思わなかっただろう。手紙をいくら書いたって新しい地平などが開かれていくわけではない。広大な砂漠にコップ一杯の水を撒いたといった程度のことで、後に残るのはむなしさばかりだ。そんな不毛なる行為を続ける情熱など起こらなかっただろう。しかしぼくはいま新大陸に上陸した。 この新大陸に上陸して森林づくりをはじめていくと、さまざまな新しいことに遭遇していくのだが、地下水脈という事物もその一つだった。精神の地下水脈として流れていくといった表現をぼくたちはしばしば使う。そういう現象があることを誰よりも強く確信しているのだが、それは観念として感じているのであって、それはいわば幻想を信じるということでもある。しかし果たしてはその幻想を信じていいのだろうか。ぼくがこの大陸に打ち込む言葉は、本当に地下水脈として大地の底を滔々と流れていくのだろうか。


四つの最後の歌
2020/09/21 10:23
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四つの最後の歌 R・シュトラウスに「四つの最後の歌」という作品がある。オーケストラをしたがえて、この歌を歌うのは、ソプラノ歌手にとってかぎりない憧れだった。しかしこの曲は、どんなに力量があっても若くては歌えない。二十代はむろん三十代にはいっても、この曲のもっている香りや艶はでないだろう。だからといって、年齢を重ねれば、歌えるといったものでもむろんない。私は何度か名高きソプラノ歌手たちが歌う「四つの最後の歌」を聴きにコンサートホールにでかけたが、なかなかこれといった歌に出会ったことはなかった。そんななかであざやかに印象に残っているのは、上海が生んだソプラノ歌手張暁霞のライブだった。若い人々にはいまや張暁霞というソプラノ歌手がいたことさえも知らないだろうが、その当時は彼女が登場するオペラは、そのチケットが発売されると同時に売り切れたという大変なスターだったのだ。それはニューヨークでも、パリでも、ベルリンでも、東京でもそうだった。彼女は世界の歌姫だった。 あれはたしか、日本の大動乱があってから二年後のことだから、もう三十五年も前のことになるのだろうか。私は三番目の長編小説を書きすすめるために、上海に二年ほど逗留したのだが、そのときかのクーゼンスキーが手兵のベルリン・フイルをひきいて上海にやってきた。そして上海芸術院ホールで、張暁霞がこのベルリン・フイルをバックにして、この「四つの最後の歌」を歌ったのだが、そのときの感動は実に異様なものだった。あれをまさしく魂がゆさぶられる感動というのだろうか。それはなにもかも後で知るのだが、彼女はそのとき癌におかされ、わが身の死期を知っていたのだ。歌姫として生を得た以上、最後の歌を歌わねばならなかった。彼女はその最後の歌に文字通りこの「四つの最後の歌」を選んだのだった。彼女の病状はだいぶ進行していた。しかし襲いかかった病魔をおしきり、死力をふりしぼって白鳥の歌を歌い上げたのである。彼女はその公演があった半年後に四十五歳の生命を閉じた。 要するに、この曲を歌いこなせるようになるには、たっぷりと人生の苦節というものを知らなければならぬということなのだ。人生はけっして平坦な道ばかりではない。いくつもの障害がたちふさがり、いくつもの苦難を乗り切っていかなければならない。いわばそうした人生の宿題をこなした人間だけが、この歌を歌いきることができるのだ。それはシュトラウスが、八十四歳にして放ったシュトラウス自身の白鳥の歌でもあったのだ。 人は年とともに衰えていく。その人の仕事もまた年とともに衰えていく。それは芸術の世界でもそうであって、老人の画いた傑作などというものはほとんどない。先般百七歳で物故した日本画家にしても、百七歳まで描きつづけた旺盛な創作力をさかんにマスコミはほめたたえたが、しかし彼がうみだした真の傑作というものは七十歳あたりまでの作品であって、後の作品はただだらだらと描き続けた駄作といったもので、そんな作品をもありがたがるのは、ひとえに彼の名声がなすものであった。七十歳以降の作品はあらゆる意味で滅んでいるのだ。しかしこのシュトラウスの作品をみるとき、私は人間というものは八十四になっても、なお成熟できるのだという強い励ましを受けるのだ。この曲はまったくたるみというものがない。四つの歌の一曲一曲が絢爛たる色彩を放ち、引き締まっていて、シュトラウス芸術の精華をおもわせるばかりの傑作なのだ。 いま冬の重いコートを脱いで、ひかりあぶれる季節がやってきた。その「春」をオーケストラが官能的なばかりの歌を奏でる。アカシアの枝から葉がひとひらまたひとひらと金色のしずくとなって散っていく「九月」。ものみな生命が沈みこんでいく憂愁のなかに響きわたるホルンはしみいるばかりだ。さらさらと心の綾を織り成すような「眠りにつこうとして」のヴァイオリンのソロ。この旋律の美しさはたとえようがない。そして最後の曲「夕映えの中で」二羽のひばりがつかず離れず飛んでいる。闇はこくこくと世界をつつんでいくなかを、二羽のひばりのさえずりもまた小さく小さく消えていくのだ。この稿を起こすにあたって、私は久しぶりにこの曲を聞いたが、涙がはらはらと落ちて仕方がなかった。私はもちろんドイツ語はわからない。しかしそこでなにが歌われているか諳んじている。ヘルマン・へッセの詩をテキストにしていたシュトラウスは、この最後の曲にアイヒェンドルフの詩を使うのだ。 苦しみにつけ、よろこびにつけ ぼくらは手をとりあって歩いてきた、 さすらいの足をとどめて、いまぼくらは 静かな田園を見はらす丘でやすらう ぼくらのまわりには、谷々がおちこみ 空ははや暮れかかっている 二羽のひばりだけが、昼の名残りを追って まだ夕もやの中にのぼったままだ こっちへおいで、ひばりがさえずるにまかせて じきにもう眠りの時間がくる このふたりきりのさびしさの中で ぼくらははぐれないようにしよう おお、このひろびろした静かな平和! こんなに深々とした夕映えに染まって 旅の疲れが重くぼくらにのしかかっていた ひょっとしたら、これが死なのだろうか 私の妻は意識が混濁したなかで、しきりに右手で何かを訴えるようにしていた。私はその手の動きがわからなかった。意味のわからぬままその手を握ると、彼女は深い安息につつまれようにして逝ったのだ。あの謎はこういうことだったのだろうか。はぐれないように私の手を求めていたのだろうか。彼女がはぐれるのではない。彼女はいまわのきわのなかにありながら、なお私を案じていたのだ。彼女はまさしく私の分身のような存在であった。彼女に出会っていなければ、おそらく私は私とならなかっただろう。それと同じように、私は彼女にとってよい夫であったのだろうか。 ヘッセの詩にも生の輝きに織り成すように、落ち葉に、夕闇に、夏の終りに、夜に、眠りに、死の陰が濃厚に宿っている。その生と死のおののきを音楽がいっそう深く染め上げていく。シュトラウスは言葉と音楽を魔術的色彩のなかで融合させたのだ。「英雄の生涯」や「ツアラストラはかく語りき」などの交響詩、「薔薇の騎士」や「サロメ」などのオペラ群を創造してきたこの作曲家の創造力が最後に到達した、まるで沈みいく太陽が西の空をこの世のものとは思えないばかりの荘厳さで染めていく夕映えの揮きといった、まことに見事としか言い様がない作品なのだ。 私はこの曲に出会ってから長いこと心にひめていたことがあった。シュトラウスにならうわけではないが、私もまた八十という年を迎えたとき、最後の四つの小説というものを手がけてみようと思っていたのだ。作家たちはある年齢に達すると自分の人生といったものがひどく気になるのか、しきりに自伝めいたものを書きはじめていく。しかし私はそのことをきっぱりと拒んできた。作家の人生などというものは、実にとるにたらないつまらないものなのだ。日常の大半を机にむかってワープロを叩き込んでいるだけの人生だった。そんな人間の自伝が面白いわけがない。事実作家の自伝といったもので、これはと思ったものはほんの数えるほどしかない。作家にはもっと書かねばならないことがあるのだ。その思いはいまでも変わらないのだが、しかしこのシュトラウスの曲をおりにふれて聴くたびに、わが人生を主題にした最後の四つの小説というものを手がけたいという誘惑は、私のなかでずうっとくすぶっていたのだ。 八十年という人生を振り返ってみるとき、たしかに人には節目といったものが存在する。竹のようにくっきりとした輪郭というものがあるわけではないが、ある一つの出来事、ある一つの出会い、ある一つの体験がなるほど人生のなかに、あるときは奔流のように襲い、またあるときは微妙な波をつくりながら流れ込み、その人の一生を決定していく。そんな節目にも似た出来事のなかから、私は四つの主題を選び出してみるのだ。すなわち私の少年時代のこと、放浪を続けていた青年時代のこと、かろうじて私というものを打ち立てることができた四十代のこと、そしてふたたび闇のなかをさ迷っていた五十代での出来事を。そしてシュトラウスがなしたように短い物語のなかに私の最後の歌を託してみるのだ。


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今年中に読書社会に本を投じることを決意した十人の人々への手紙ホイットマンの詩に二者の日本語訳を載せるのは、それぞれが異なった音色を奏でているからである。原文と二つの日本語訳を、ピアノ、ヴァィオリン、チェロのピアノ三重奏として、あるいはヴァィオリン、ビオラ、チェロの弦楽三重奏にして味読するとき、豊饒なる言葉の音楽がそこに広がっていくはずである。To Old AgeI see in you the estuary that enlarges and spreads itselfgrandly as it pours in the great sea.老齢に私はあなたの中に大河口を見る、大海に注ぐ時に厳かに広がりゆく大河口を。(白鳥省吾訳)老年に寄せてわたしには見える、あなたのなかで大海めざしてそそぎこむ河口が壮大に広がり脹らんでいくさまが。(酒本雅之訳)The First DandelionSimple and fresh and fair from winter’s close emerging,As if no artifice of fashion, business, politics, had ever been,Forth from its sunny nook of shelter’d grass—innocent,golden, calm as the dawn,The spring’s first dandelion shows its trustful face.初咲きの蒲公英冬の終りに咲き出でて清純にして美しく、流行や事業や政治の技巧が今まで無かったように、茂れる草の日の照る隅から出て来て曙のごとあどけなく黄金色の静かさに春の初咲きの蒲公英はその誠実な顔を現わした。(白鳥省吾訳)初咲きのタンポポ簡素に、ういういしく、冬の幕切れとともに美しく立ち現われ、流行、実業、政治を産み出すすべての技巧が、まるで夢まぼろしででもあったかのように、陰深い草地のなかの日差し明るい一隅から現われ出て──夜明けのように無垢で、艶やかで、静謐な、春初咲きのタンポポが信頼しきったその顔を覗かせる。 (酒本雅之訳)I Hear America SingingI hear America singing, the varied carols I hear,Those of mechanics, each one singing his as it should be blithe and strong,The carpenter singing his as he measures his plank or beam,The mason singing his as he makes ready for work, or leaves off work,The boatman singing what belongs to him in his boat, the deckhand singing on the steamboat deck,The shoemaker singing as he sits on his bench, the hatter singing as he stands,The wood-cutter’s song, the ploughboy’s on his way in the morning, or noon intermission or at sundown,The delicious singing of the mother, or of the young wife at work, or of the girl sewing or washing,Each singing what belongs to him or her and to none else,The day what belongs to the day – at night the party of young fellows, robust, friendly,Singing with open mouths their strong melodious songs.私は亜米利加の歌うを聞く私は亜米利加の歌うを聞く、種々の頒歌を聞く、機械職工等は、各自その歌が快活で強くあるべきように自分の歌を歌う大工は板や梁を計るときに彼の歌を歌う石工は仕事の用意をする時、仕事を止める時彼の歌を歌う船人は船の中で彼に属する歌を歌う、水夫は汽船の甲板に歌う靴屋は彼の仕事台に腰かけて歌い、帽子製造人は起って歌う。晨の途上に昼休みに日没に、樵夫の歌、耕人の歌、母親や仕事せる新妻や裁縫と洗濯せる娘の楽しげな歌、各自は彼や彼女に属するもの、また誰のでもないものを歌う、昼は昼に属するものを──夜は壮健な睦まじい若者達の一団、大口で彼等の力強い佳調の歌を歌う。(白鳥省吾訳)アメリカの歌声が聞こえるアメリカの歌声が聞こえる、そのさまざまな賛歌が聞こえる、工場労働者たちの賛歌が、一人ひとりが自分の歌を思う存分力づよく陽気に歌い、大工が自分の歌を板や梁の寸法を測りつつ歌い、石工が自分の歌を仕事の準備にとりかかり、あるいは仕事をしまいつつ歌い、船頭が自分の世界を船のなかで歌い、水夫が蒸気船の甲板で歌い、靴屋が台に腰かけて歌い、帽子屋が立ったまま歌う声が、木樵の歌、朝に、昼の休みにそれとも夕暮れに、行き帰りする農夫の歌が、仕事に励む母親の、あるいは年若い妻の、あるいは縫い物や洗濯にいそしむ娘の甘美な歌声が、わたしには聞こえてくる、彼や彼女がそれぞれに自分独自の世界の歌を、昼が昼の世界を──夜には逞しく気のいい若者たちの一団が、口を大きくあけて力づよく美しい自分たちの歌を歌っている声が。(酒本雅之訳)