丸亀護国神社奉賛会のMです。10月7日に、丸亀護国神社の整備事業に関するクラウドファンディングプロジェクトを公開させて頂きました。改めて、ご支援を賜りますよう、何とぞ宜しくお願い申し上げます。
さて、今回は丸亀護国神社が置かれている場所の歴史についてご紹介させて頂きたいと思います。
【明治5年・明治天皇の丸亀行幸について】
丸亀護国神社には「明治天皇行在所址(跡)碑」という記念碑が建立されています。行在所というのは分かりやすく言えば「天皇がご休息される場所」という意味です。
この神社が置かれる前は、かつて丸亀県庁舎という役場が建っており、そこへ明治5年に明治天皇が行幸(天皇が外出・ご旅行されること)で来られた際に、この庁舎を行在所としてお泊りになりました。
明治天皇が丸亀へ訪れたのは、明治5年(1872年)7月4日(天皇は当時21歳。)。本来は軍事視察を名目とした行幸であったため、来讃の際は「高松鎮台」(鎮台とは軍隊のこと)が置かれた高松へ行幸されると思うのですが、結果として丸亀に上陸されました。
丸亀へ行幸されたのは、丸亀藩主の京極家の祖先が天皇系の血筋であったことや、新政府軍と旧(江戸)幕府軍が戦った戊辰戦争を終えてからまだ数年しか経っていない中、鳥羽伏見の戦いでは幕府側として参戦していた高松へは行幸し辛かったのではないかと色々な説が言われています。そういった行幸の影響なのか、高松鎮台は明治7年に丸亀へ移され、のちに陸軍歩兵十二連隊となります。
丸亀への行幸の際に、明治天皇の従者として参加された顔ぶれに、参議・西郷隆盛、陸軍少将・西郷従道、海軍少将・河村純義など、歴史上のそうそうたる人物も一緒に訪れていました。
明治5年7月6日、天皇は行在所をお出になり、丸亀港(丸亀の観光スポット「太助灯籠」の付近)からお帰りになられました。
行在所となった丸亀県庁舎は、明治6年に兵営設置の計画によって立ち退きとなり、丸亀十二連隊西練兵場の一角となりました。ご座所の遺構は記念館として、現在は丸亀市内にある病院の敷地に移設し保存されています。
後にこの旧丸亀県庁舎の敷地に丸亀護国神社が置かれ、東伏見宮依仁親王によって「明治天皇行在所址碑」と刻まれたモニュメントが置かれ、頂上に銅製の鳳凰を乗せて建てられました。この石碑は、明治維新の歴史遺産の1つとして長年大切に保存されています。
そういった明治維新直後の丸亀の歴史にゆかりがある丸亀護国神社。明治時代以降の戦争で尊い命を失った御英霊への弔い、戦争という惨禍を二度と繰り返さないことを発信し続けていくこと、そして明治維新後の丸亀の歴史について思いを馳せる「ほっと一息つける場」として、1人でも多くの方に当地にお越しになってもらいたいです。