徳島県の阿部行男さんからのメッセージに「耕地整理研究会報をコピーしたら、会報スタッフとして鳥居信平さんが担当していました。これで、中心的な立場で運営されていたものと推察します。」とあった。
「耕地整理研究会報第一号」の会告には
「◎本会会報編輯上(寄稿その他)の用務申込及び雑誌等寄贈の向は 農商務省農務局内 鳥居信平宛」とある。
41年12月 耕地整理研究会
〇73ページの「●上野氏の消息」と「〇耕地整理技術員」の記述も興味深い。
「●上野氏の消息
本邦における農業土木学の泰斗(たいと)たる上野英三郎氏は、昨春以来独乙(ドイツ)留学中なるが、当初エナ (イェーナ (Jena) )に在る事六ヶ月後ベルリンに移り身体益々健全到る処に斯道の研究と視察とに是日も足らざる模様にて、本年五月初旬以来はハルレ、ライプチツヒ、ドレスデン、プレスラウ(ヴロツワフ大学:19世紀にはブレスラウ大学(ドイツ語: Universität Breslau)と呼ばれた )、ウヰン、ミユンヘン、スンドガルトの旅行中にて、独乙に於ける斯学の泰斗たるドレスデンのエンゲルス教授、プレスラウのリユーデツケ教授、ライプチツヒのストレンガー教授等には既に会見を遂げられたる由、目下は和蘭(オランダ)に滞在の筈なり。」
耕地整理研究会会員の関心の一つは上野先生の消息を知ることにあった。
「〇耕地整理技術員
農商務省が耕地整理の施行奨励を図る準備として技術員を養成し始めたのは去る三十八年の四月であるが、今日までに養成した人員は実に七百六十九人多数に上って居る。此を学校別にすると農科大学で講習した事が六回、大日本農会附属の高等農学校へ委託した事が六回、攻玉社工学校で養成した事が四回、前後合して都合十六回、之に要した費用は補助費許りで約七万六千円余だそーだが、其の終了者の氏名は左の通りである。其の内、高等農学校の分は全然奉職の義務を持たぬ者であるけれども義務を有して居る者の内でも、尚目下閑散の地に居る者もあるとの事である。(以下略)」
耕地整理研究会は上記の耕地整理技術員を養成するなかで、明治40年6月29日に発起人小幡、値賀、三田、川越、竹内、前瀧、世間瀬、大場、泉端、稲熊十氏が第一回府県耕地整理主任会議にはかり、満場の同意を得て、設立が決定した。
明治41年11月に在京会員中の三井栄長、鳥居信平、矢儀平一を常置幹事に選び、事業発展の企画を興すことになった。(第一号85頁)
「耕地整理研究会報第一号」62ページの「漫録」の記事にあるT、C、生(Torii Chinpei?)もおそらく鳥居信平(Torii Chinpei?本名はのぶへいだがシンペイと通称で呼ばれていたとするのはうがちすぎか?)ではなかろうか。T、C、生は学生幹事の一員と推量される文がある。静岡・愛知・三重のうち静岡は信平の地元であり、三重の宮川地区は信平が上野英三郎教授指導のもと、卒業論文を書いたところである。
「軽鞋漫録 T、C、生
昨年(*1)十二月中旬農科大学に於ける、耕地整理第一種講習生十三名職員四人と共に静岡愛知三重の各地に二旬余の施行を為す。その間一行の奇聞珍談少なからず。集めて旅行漫筆を作らんと欲すれども、既に脳裏を去れる事実多し。ただ聊か記憶に存するもの、二三を記して軽鞋漫録となす。
〇旅行第一日一行静岡大東館(*2)に泊し、劈頭、第一宿料最下級、待遇特別上等を命ず、館主義気あり、大いに好遇に力(つと)む。翌朝汽車に投ずるや、一行の為めに名産わさび漬数樽を贈る、某君大の好物なり。その後三重に入る迄、約旬日の間、同君居常、此を携へ到る処、食毎に此を食ひ、食ふ毎に大東館の待遇を称す。会計某独語して曰く、親切な廣目屋(*3)哉と、蓋し件(くだん)のわさび漬は密に与えたる茶代の酬なりしを以てなり。衆その故を知るや拍手して笑ふ。
〇一日参州(三河)豊橋を発し積雪を踏んで牟呂用水(*4)の頭首工を見、午後強風を冒して年呂神田を見る。愛知県技手安達淑人君教導の労を取る、偶々同新田溜池の養魚場に到れば尺余の
鰡魚(ボラ)群池底を為し為めに黒きが如し、漁夫三四盆大の手網を以て容易に之を捕ふ。その易々たる事、死魚を掬ふが如し。一行その故を知らず。或は曰く、寒気の為めに弱れる魚を除くものなりと、或は曰く、密棲の為めに弱れる者を淘汰するなりと。安達技手諄々として説明して曰く、一体鰡は寒中になれば盲目になるものである。それで此く容易に捕へて市場に出す事が出来ると。その言頗る真面目なり。当夜岡崎に泊し、晩食に鰡の煮付けを供す。衆口々に曰く「」盲目ぼらの煮しめ、安達ぼらの御馳走」と安達君聞て苦笑す。終に君に鰡技手の尊称を奉るものあり。蓋し悪意に非るなり、君乞ふ恕せよ。
〇同夜岡崎停車場前、清風軒に泊し聊か慰労の宴を張る。昼間疲労酔を助くる少なからず。少量の酒よく一行を陶然たらしむーS、君元来元気旺盛の士、酔と共に元気益々加はる。終にH、O、君及びI、M,君を捕へて玄関に相撲を初め、ドスドス然たり、グワクグワク乎たり。甲乙之を制すれ共聞かず終に県会議員某氏の自転車の上に倒れ、之を破損す。深夜人を雇ふて之を岡崎街に送り、修繕を為さしめ辛ふじて翌朝某氏の用に耐ゆる事を得たり。I、S、君歎じて曰はく、昨晩はひどい目に会った、今後玄関相撲は断然止めだと。
〇一夜名古屋に泊し池野村入鹿池(*5)を見、小牧町に泊す。行程頗る過重到底歩を以てす可からず。故に名古屋より小牧町に到る、四里の間皆腕車(人力車)を駆る。安達技手を加へ一行十八人、毛布を被れるあり、襟巻を以て顔を包めるあり。鼻髭あり、眼鏡あり角帽あり、中折
あり、その風姿実に千態万容加ふるに各東各々山田屋と染めぬける紫色の小旗を翻す、路傍の人皆、「壮士俳優」なり「書生芝居」なりと云ふ、迷惑の到りなり。I、M君体躯偉大鼻下に美髯を貯へ威風堂々一行に殿たり、衆君に新俳優耕地整理団座頭の名を与へ、以て紀念とす。
〇後一日名古屋を発し関西線弥冨駅に到り、之より徒歩孫宝新田の排水ポンプ(*6)を見る。此より前出納の便を計らんが為め会計を選みその任に当らしむ。職員の会計G、O、君の偶々学生の会計S、T、君に数十金の払ふべきものあり。G、O、君の性急暫時も猶予する能はず、汽車の名古屋を発するや、直にS、T、君の傍に到り之を仕払ふ。後汽車の蟹江に着する頃は、G、O、君切りにポツケツトを探り大いに心配の色あり、曰く財布なしと。衆共力して採せ共終に得ず。その様ポンチに類す。蓋し金銭授受の後狡漢の乗ずる処となりしものなるべし。爾来汽車に乗る毎に学生団の会計常に中央に座し衆皆を囲繞して護衛す。S、T、君得々然たり。G、O、君に戯れて曰く、「君すら乃公もてる汽車の旅」と。
〇孫宝の排水ポンプを見、再び弥冨停車場に帰り、駅前の小亭に午餐を食す。食後K、T、君突然安達技手に向て曰く、「愛知さん安達は・・・・・・・・」と、衆拍手して笑ふ。君黙然たり。蓋し安達さん愛知県では云々の質問を試る筈なりしと云ふ。某君宏かに曰く「鯔技手さん愛知では」と云はずして幸なりと。
〇一夜津市聴潮館に於て三重県の技術員諸子と懇親の宴を開く、某々技手、酒量頗る大升を以て数ふ、一行為めに当る者なし、独りM、K、君体躯偉大鬚髯漆の如く、盆大の眼を開いて連りに大盃を傾け終始色を変ぜず衆皆其々キヤパシチーに驚き爾来君を呼んでグラベル(*7)と云ふ。
〇山田市に帰る事旬日宮川沿岸三千余町多の地を踏破しその水利事業の設計材料輯集に力む。稲光県技師、茅原郡技手等日々教導の労を取り、注意周到細大の事物斡旋到らざる処なし。衆今尚その厚意を謝す。毎夕宿舎に帰るや常に皆晩餐を共にし快談湧くが如し。稲光技師快弁能語の士なり。多く常に要領の語を用ふ。口を開くや必ず先問ふて曰く、今日は要領を得しかと日として要領の数語を聞かざるなし。終に此に要領技師の称を奉る。
〇一日早朝旅宿を発し宮川を下る、茅原技手案内たり。K、T、君途中同氏に問ふて曰く「山田の名物如何」と茅原技手言下に節面白く歌ふて曰く「伊勢の名物五十鈴川、赤福包む竹の皮(内宮名物の餅を赤福餅と云ふ)芸者の親切うその皮、此を真にする馬鹿の皮」と以て君の磊落を知るに足る。
〇S、Y、君体躯頗る繊弱身長六尺に近く、腿股亦之に適ふ。その歩するや疾風の如く、薄暮宿舎に急く時の如き衆大に力むれ共君に及ぶものなし、終に君にサラブレツトの綽名を与ふ。
〇四十一年一月元旦業を休み山田に於て新春を迎ふ、宿舎に賀状を認むる者あり、内外宮に詣る者あり、二見浦に遊ぶあり、鳥羽に行くあり、各々意の向ふに随つて遊ぶ。偶々東都の優しき名の君よりT、I、君に美麗なる手製の蝦蟆口を贈り越す、T、I君喜悦の色満面に溢る。宿に在りし者三四之を知りその艶福を戯弄する甚切なり。衆反て岡焼連にプレンネンデンカメラーデンの称を与ふ。
〇M、S、君浪花節の通人なり。東京の寄席君を知らざる所なく、君の批評は斯界に重きを為す。宿舎にあるの日、君屡々奇声を発して自ら浪花節を試む。頗る単調にして聞くに耐へず。短刀直入の某君M、S、君に向つて曰く、「君は耳の人にして口の人に非ず。乞ふ爾来自らうなる勿れ」と。M、S、君一言の答ふるなし。
*1 明治40年(1907年)、鳥居信平は東京帝国大学農科大学最終学年の時で、明治40年12月中旬の農科大学で開催の耕地整理第一種講習の講習生あるいは職員であったと考えられる。
・・・鳥居信平は明治37年(1904年)9月に東京帝国大学農科大学に入学し、明治41年(1908年)農科大学を卒業し、農商務省に入庁している。すなわち「耕地整理研究会報第一号」の編集は農商務庁に入庁したての信平に東京帝国大学農科大学先輩諸氏から任されたといってよいように思う。そしてこのことがその後の上野英三郎教授との深い子弟の絆となって後の台湾製糖へ渡台へとつながったように思われる。
*2 静岡県伊東市の「大東館」か?翌朝名産わさび漬数樽を宿の亭主から頂戴しているようなので、伊豆伊東の「大東館」であろう。
*3 廣目屋は広告屋のこと、チンドン屋の先駆。大阪からやってきた秋田柳吉が明治21年(1888年)、京橋五郎兵衛町で広告宣伝の店「廣目屋」(屋号は仮名垣魯文による)を開業。やがて「廣目屋」は、広告屋を意味する普通名詞 として用いられるようになっていった。
*4 牟呂(むろ)用水は、愛知県東部を流れる農業用水路。 豊川を取水源とし、豊川左岸の一部地域をうるおす。愛知県新城市一鍬田の牟呂松原頭首工から取水し、豊橋市牟呂地区の神野新田をうるおす。明治時代に開削された。当初は、豊橋市賀茂町までの賀茂用水であったが、神野新田開発に伴い、用水路を延長し現在に至る。正式名称は「牟呂松原用水牟呂幹線水路」。
*5 入鹿池(いるかいけ)は、愛知県犬山市の入鹿、飛騨木曽川国定公園内にある人工の農業用ため池。2010年(平成22年)3月25日に農林水産省のため池百選に選定され、2015年(平成27年)には国際かんがい排水委員会による世界かんがい施設遺産にも登録された。
*6 飛島村(とびしまむら)の大宝(おおたから)新田か?
飛島村の大宝新田は、江戸時代に開拓されたが、土地が低いため、開拓しても排水ができず、長い間湛水被害(水がたまること)に苦しんできた。そこで明治39年に大地主で貴族院議員だった大寳陣氏が私財を投じて最新鋭のドイツ製ポンプ2台を設置。飛島村の人々の命と暮らしを守った大宝排水機場を保存館として大切にしている。展示されている大型渦巻ポンプは、現存するポンプとしては日本最古のもの。保存館ではこの貴重なポンプを内部のインペラが見えるように外側をカットして展示しているので、どのように動いたのかかがよくわかる仕組みになっていいる。
*7 グラベル(gravel)とは、一般には砂利のことで、砂利に水が吸い込まれるようにとの例えか?