今日は、普代村との出会いを書きます。
きっかけは、10年前の東日本大震災にさかのぼります。当時、ぼくは東京でシステムエンジニアをしていて、直接的な被害はありませんでしたが、お金があっても物を買えない状況に、大きなショックを受けました。コロナ禍でも同様に、買い物ができなくなって不安を感じた人は少なくないはずです。
ぼくは震災の教訓として、社会を一変するような混乱時に消費者自身が困らないようにするために普段から一次産業に関わなきゃならない。例えば、消費者が生産者に代金を前払いし、生産者を支援しつつ定期的に作物を受け取るようなCSAという仕組みでもいいから、徴農制的な仕組みなど。そこから、「まずは自分自身が一次産業と関わることだ」と思い、2012年に宮崎にUターンしました。
そうして手立てを探しているうちに見つけたのが、地域おこし協力隊という制度です。幸いにもPCとネットがあればできる仕事ですので宮崎とは逆の日本の北側に拠点を作ろうと考え、宮崎と同じ太平洋側の岩手県で探しました。その時、募集していたのが唯一、普代村だったのです。
それは偶然の巡り合わせでした。
2014年の大晦日に宮崎を発ち、夜行バスの中で年越し2015年1月1日、久慈市へ到着。
復興の様子を肌で感じたかったので、趣味の自転車で久慈市から普代村へ向かいました。震災後訪問した際にガレキの山だった場所は、ドラッグストアとなっていました。冬場の澄んだ青空と太陽が優しく出迎えられ、これからの生活が楽しみになりました。
とは言え、全く不安が無かったという訳ではありません。ぼくの「鬼束」という苗字、あろうことかスキンヘッドという風貌…絶対的に怖い印象を持たれてしまうはず。
「そうだ!カツラをかぶろう」
慣れない寒さと、威圧感をカバーするためぼくはカツラをかぶり仕事をするようにしました。すると面白い奴だなと、隣の島の課長から新年会に呼ばれました。その場では薄毛の先輩方が俺にも貸せ!とカツラをかぶるなど、大爆笑の会となりました。Amazonで買ったカツラがコミュニケーションツールになった瞬間です。
この時1500円の元はとったと感じました。
突飛なカツラ作戦に出たぼくを、受け入れてくれた普代村の温かさ。
そういう飲み会が別の場で何度か続き、良いところに来たなぁと思ったのが第一印象です。これからぼくは、本当の家族のように優しく、ときに厳しく接してくれる人々と普代村で出会います。
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それではお聞きください。
鳥羽ㄧ郎「おれの北緯四十度 」
https://www.youtube.com/watch?v=T3t2dVC9-IE