「笹の墓標展示館再生・和解と平和の森を創る」実行委員会で事務局をしている、金英鉉(きんよんひょん)と申します。
6月1日からスタートしたクラウドファンディングは本日7月30日をもって終了いたします。
本当に多くの方から支援を頂いていることに感謝いたします。
クラウドファンディングを開始して以降、WEBが苦手だからとオフラインでも500万円を超える寄付が寄せられました。
事務局として、皆さまの支援を毎日受け取る者として、皆さまの心のこもった支援やコメントに、展示館の再建への意義を改めて強く感じております。
皆さまに深く感謝をしながら、本クラウドファンディング最後の寄稿として私の想いを書かせていただきます。
私は京都出身の在日朝鮮人3世です。
「旧光顕寺・笹の墓標展示館」の倒壊を知り、2年程前から北海道の多度志に移り住み、笹の墓標展示館再生のための事務局をしています。
京都から関空まで2時間、関空からは飛行機で2時間半、空港から多度志まで電車とバスを乗り継ぎ3時間。
さらに多度志から「旧光顕寺・笹の墓標展示館」がある朱鞠内に行くには車で1時間ほどかかります。
私はこの2年の間、何度も多度志から朱鞠内を訪れました。
朱鞠内へ向かう道中、舗装された道路や、トンネル、白く花開いた美しいそば畑を通りながらいつも思うことは、70年以上前、朝鮮半島から強制連行され、釜山から下関へと関釜連絡船に乗せられ、日本を縦断しながら牛馬のように列車やトラックで北海道まで運ばれてきた朝鮮人は何を考えただろうかということです。
引き離された両親や兄弟姉妹のことか、あるいは妻や子どもがいた者もいたのではないか。
チャンスがあれば逃亡を企図した者もいただろう。
しかし何百キロと続く北海道への連行でその希望は打ち砕かれただろう。
朱鞠内に来てからもタコ部屋に閉じ込められ、昼夜過酷な労働で逃げる体力を奪われ、冬にはマイナス40度にも達する極寒の地で生きる気力さえ失ったであろう。
死んだ者は共同墓地の片隅に折り重なるように埋められ、死してもなお足を伸ばすことも出来ずに土を被された朝鮮人は、一体死の間際に何を想っただろうか。
まだ生きたかっただろうか、もはや死にたかっただろうか。
朱鞠内へと向かう道中、北海道の雄大さを傍目に、この道を運ばれ犠牲になった朝鮮人を思うと、我が祖父の不幸を思うように胸が締め付けられます。
だからこそ私は在日朝鮮人として、この課題に取り組んでいます。
1980年になって初めてこの地で遺骨発掘が行なわれ、数多くの遺骨が発掘されました。
戦後35年以上が経ってからです。
日本ではまもなく迎える8月15日を「終戦76年」として記念するでしょう。
しかし朱鞠内には76年以上も、土の中に忘れさられ、今だに戦後を迎えらていない遺骨が数多くあります。
このご遺骨にとっての戦後とはいつになるのでしょうか。そしてどのように訪れるのでしょうか。
「旧光顕寺・笹の墓標展示館」は、遺骨の発掘、追悼と共に、歴史の展示、そして東アジア市民たちの交流の拠点でした。
ここに集まる市民たちは歴史と向き合いながら、東アジアの和解と平和を築くためにともに遺骨を発掘し、お酒を飲み、友情を培ってきました。
この営みが続き、過去の反省のもとに未来へと進むならば、必ずや日本にも戦後が訪れ、2度と戦前を迎えることがないと確信します。
皆さまの共感をいただけるならば、是非ともクラウドファンディングならびに展示館再生支援に想いをおよせください。
私が北海道まで来た道程は、強制連行で連れてこられた朝鮮人の道程に比べれば半分にも満たないし、比較にもならない楽な道ですが、この道が和解と平和を作る道になればと思います。
2021年7月30日
金英鉉