6月1日からスタートしたクラウドファンディングは、7月30日をもって終了いたしました。クラウドファンディングにお寄せいただいたご支援は、3,882,000円、381名にのぼりました。クラウドファンディングを開始して以降、WEBが苦手だからとオフラインでも500万円を超える寄付が寄せられました。知人にお声がけくださった方、SNSなどを通じてご協力くださった方、たくさんの皆さまの心のこもったご支援や応援のメッセージをいただくことができ、感謝の気持ちでいっぱいです。皆さまからのお気持ちを受け止めながら、展示館の再建への意義を改めて強く感じております。皆さまからのご協力により、笹の墓標展示館再建のための募金は、2800万円を越え、目標まであと一歩と迫りました。引き続き目標達成に向けて募金活動を続けながら、歴史と向き合い、東アジアの和解と平和を築くための新たな展示館再生に向けて、歩みを進めて参ります。今後の活動などは下記のサイトをご参照いただき、引き続きのご関心をお願い申し上げます。https://www.sasanobohyo.com/この度は、本当にありがとうございました。笹の墓標展示館 再生 クラウドファンディング事務局一同
「笹の墓標展示館再生・和解と平和の森を創る」実行委員会で事務局をしている、金英鉉(きんよんひょん)と申します。6月1日からスタートしたクラウドファンディングは本日7月30日をもって終了いたします。本当に多くの方から支援を頂いていることに感謝いたします。クラウドファンディングを開始して以降、WEBが苦手だからとオフラインでも500万円を超える寄付が寄せられました。事務局として、皆さまの支援を毎日受け取る者として、皆さまの心のこもった支援やコメントに、展示館の再建への意義を改めて強く感じております。皆さまに深く感謝をしながら、本クラウドファンディング最後の寄稿として私の想いを書かせていただきます。私は京都出身の在日朝鮮人3世です。「旧光顕寺・笹の墓標展示館」の倒壊を知り、2年程前から北海道の多度志に移り住み、笹の墓標展示館再生のための事務局をしています。京都から関空まで2時間、関空からは飛行機で2時間半、空港から多度志まで電車とバスを乗り継ぎ3時間。さらに多度志から「旧光顕寺・笹の墓標展示館」がある朱鞠内に行くには車で1時間ほどかかります。私はこの2年の間、何度も多度志から朱鞠内を訪れました。朱鞠内へ向かう道中、舗装された道路や、トンネル、白く花開いた美しいそば畑を通りながらいつも思うことは、70年以上前、朝鮮半島から強制連行され、釜山から下関へと関釜連絡船に乗せられ、日本を縦断しながら牛馬のように列車やトラックで北海道まで運ばれてきた朝鮮人は何を考えただろうかということです。引き離された両親や兄弟姉妹のことか、あるいは妻や子どもがいた者もいたのではないか。チャンスがあれば逃亡を企図した者もいただろう。しかし何百キロと続く北海道への連行でその希望は打ち砕かれただろう。朱鞠内に来てからもタコ部屋に閉じ込められ、昼夜過酷な労働で逃げる体力を奪われ、冬にはマイナス40度にも達する極寒の地で生きる気力さえ失ったであろう。死んだ者は共同墓地の片隅に折り重なるように埋められ、死してもなお足を伸ばすことも出来ずに土を被された朝鮮人は、一体死の間際に何を想っただろうか。まだ生きたかっただろうか、もはや死にたかっただろうか。朱鞠内へと向かう道中、北海道の雄大さを傍目に、この道を運ばれ犠牲になった朝鮮人を思うと、我が祖父の不幸を思うように胸が締め付けられます。だからこそ私は在日朝鮮人として、この課題に取り組んでいます。1980年になって初めてこの地で遺骨発掘が行なわれ、数多くの遺骨が発掘されました。戦後35年以上が経ってからです。日本ではまもなく迎える8月15日を「終戦76年」として記念するでしょう。しかし朱鞠内には76年以上も、土の中に忘れさられ、今だに戦後を迎えらていない遺骨が数多くあります。このご遺骨にとっての戦後とはいつになるのでしょうか。そしてどのように訪れるのでしょうか。「旧光顕寺・笹の墓標展示館」は、遺骨の発掘、追悼と共に、歴史の展示、そして東アジア市民たちの交流の拠点でした。ここに集まる市民たちは歴史と向き合いながら、東アジアの和解と平和を築くためにともに遺骨を発掘し、お酒を飲み、友情を培ってきました。この営みが続き、過去の反省のもとに未来へと進むならば、必ずや日本にも戦後が訪れ、2度と戦前を迎えることがないと確信します。皆さまの共感をいただけるならば、是非ともクラウドファンディングならびに展示館再生支援に想いをおよせください。私が北海道まで来た道程は、強制連行で連れてこられた朝鮮人の道程に比べれば半分にも満たないし、比較にもならない楽な道ですが、この道が和解と平和を作る道になればと思います。2021年7月30日金英鉉1982年に掘り起こされたご遺骨光顕寺に残されていたご位牌旧光顕寺・笹の墓標展示館解体後の旧光顕寺跡地(奥の建物は庫裏)
台湾人がまだ植民から脱却されていないというのは、意識されていなくても、無意識的に言葉と行動から滲み出しています。私は笹の墓標展示館に訪れた時に、すでに薄々意識しました。台湾は今でも植民されています。自分の主体を持って行動することができていません。今の台湾の歴史教育の中で、植民問題を論じることがまだ少ないです。外国の話ではなく、日本植民地時代で戦争動員させられ、琉球で命を落としました。戦後、この歴史をしっかり精算するはずでしたが、再び中国に植民されて、戦争責任の精算ができませんでした。それは台湾と言葉を失って、恐怖が溢れて自由がなかった日々でした。民主化から20年、戦後から70年も経って、やっと琉球の平和記念公園で公式的に台湾の塔が建立されて、犠牲した台湾人が記念されるようになりました。また、中国に植民されていた間に、中国の内戦に動員させられた台湾人もたくさんいました。多くの台湾人は帰れない者になりました。その内戦の60年後に、生き延びた元兵士は焼身自殺で政府に抗議しました。そして、やっと「戦争と平和記念公園」が建立されて、唯一台湾籍兵士たちを記念する施設になりました。日本軍、中国国民党軍そして中国人民解放軍の軍服を着た台湾人たちの声を聞く耳は、台湾社会がまだ持っていません。その中に、自分の家族もいたかもしれないのに。公園の敷地は狭くて、国立施設ではなく地方自治体によって管理されています。しかし、記憶を呼び戻すための大事な一歩です。人類の歴史の中で、恐怖と苦痛が溢れています。歴史を掘り起こすことは難しいですし、過去をあやふやに忘れていくこともしばしばあります。笹の墓標展示館で韓国と日本が手を組んで、過去の犠牲を記念して、平和と自由の難しさを世間に示すことは大事です。台湾もまだ記憶を取り戻そうとしている途中です。お互いの経験と記憶を大事にして、過去の恐怖と苦痛をすべて癒されるように、そして二度と過去の過ちを繰り返されないように、心から願っています。第十五回東アジア青少年歴史キャンプ参加者、台湾台中教育大学台湾言語学部Ku龜--ê (Khu Chùn siâng)受殖這件事我想台灣人即使意識上不清楚,不經思考的話語和表現出來的行為卻都還能證明,對此,當時到館前的我就有意識到這件事的輪廓了,即使台灣還在無法完全以台灣優先和行動的殖民當局管理下。也因此台灣現行歷史教育的內容和方式對此是鮮少提及和被記憶,不用說外國,像台灣受日殖被戰爭動員在琉球受難,戰後本應開始重建和追討不義的台灣隨後卻因缺乏遠見被完全中殖半世紀,那是失台、噤聲和透過恐怖輾壓自由的日子,一直到所謂民主化開始後的20多年,總共過了快70年台灣的狀況才允許在琉球平和祈願公園以官方名義建立台灣之塔來紀念受難的台灣人,更別說萬名台灣人被殖民中國騙往中國內戰只有百名回來也是過了60多年在倖存台灣人自焚抗議下才順利設立了台灣唯一紀念台籍老兵的「戰爭與和平紀念公園」,這些穿過日本、中國黨和中國解放軍服的台灣人歷史對今日多數台灣人可能還是從所未聞,即使受難的可能就有自己家族內的親人,而園區雖然不大也還只是在地方政府的管轄下,但也已經能算是開始回憶的重要一步。想想,人類恐怖和痛苦的歷史,曾經發生過的事要能被想起是多麼的困難,過去又是多麼容易的被模糊,韓日能合作來紀念受難的記憶,讓人還能知道和平與自由的不易是有其意義和必要,台灣也還在重建記憶的工程當中,期待彼此經驗和記憶保存的作用下,在那未來能讓歷史只成為遙遠的過去就好。Ku龜--ê (Khu Chùn siâng)
台湾人です。2016年夏で笹の墓標展示館に訪れました。その時、北海道で行った台湾、日本、韓国、中国の歴史キャンプに参加しました。北海道の強制労働も含めて、歴史をめぐって違う国々の生徒と一緒に勉強、交流しました。それまで強制労働の歴史を一度も聞いたことがありませんでした。私たちの歴史教育は、権力者によって選別、構成されたものなのです。台湾では、多くの生徒は歴史教科書に沿って自分の歴史観と世界観を作り出しました。しかし、教科書より地元の当事者から生まれた歴史はもっと相応しいと思います。人々は多様なアプローチを通じて歴史を触れ合って、記憶する方が適切的だと思います。私の人生の中で、笹の墓標展示館はまさに上記の理念を感じらせる存在です。「北海道」で強制労働させられた人々のなかで、台湾人がいなかったかもしれませんが、他の場所で、強制労働させられた台湾人がいました。重要なのは、私たちが人権侵害の理由、及び当時の政治と経済背景を認識しなければなりません。国籍に問わず、人々にとっても大事な記憶です。笹の墓標展示館は、記憶の居場所として、犠牲者を追悼する場所として、交流と勉強の場として、長い間に本当にお疲れ様でした。これからの笹の墓標展示館は、更なる新たな意味を作り出すことを信じています。展示館再生クラウドファンディングをぜひご協力ください。国立台湾大学工学部建築と城郷研究科 楊 婷雅(ヤン テンヤ)我是台灣人,曾於2016年夏日拜訪過笹の墓標展示館。那時我幸運地參與到辦在北海道的台日韓中歷史營,與不同國家的學生一起學習與交流了許多歷史課題,包括北海道的「強制勞動史」。那段歷史是我過去從未聽聞的,我們的歷史學習總是被許多權力揀選與建構,而在台灣,多數學生都是透過歷史教科書來建構我們對歷史與世界的認識。然而,歷史或許由更多當地、當事者來寫述、有更多元的方式來被人觸及與記憶會更加適切,而笹の墓標展示館就在我的生命經驗中,真實讓我感受到這件事。雖然在「北海道」被強制勞動的人沒有台灣人,但台灣人仍有在「其他地方」被強制勞動的歷史,不過其實核心在於,我們應更加認識為什麼「人權被剝奪」,是在什麼時空與政治經濟背景下發生的。這些都需要人來記憶,不分國籍。很謝謝過去笹の墓標展示館的人們存放這些記憶、讓人悼念過去犧牲的生命,甚至做為一個讓人交流與學習的地方。我也深信,笹の墓標展示館會在未來創造出更多新價值,希望大家能一同參與募資。
2017年の夏、私は初めて北海道に訪れました。東アジア共同ワークショップに参加して、海外の観光客がまれに訪れる朱鞠内湖にいって、笹の墓標展示館に見学しました。ワークショップのプログラムを通じて、朱鞠内湖と雨竜ダムは強制動員、強制労働させられた植民地の労働者が、非常に酷い労働環境の中で作ったことを初めて知りました。北海道の冬の厳しい寒さのなかで、たくさん朝鮮半島出身の労働者たちは、二度と故郷に戻れなくなりました。その位牌はまだ旧光顕寺、今の笹の墓標展示館にありました。台湾人は北海道の強制労働の被害者ではありませんでした。しかし、同じ植民地統治のなかで、大日本帝国に動員させられ、男子が戦場に行って、女子が軍隊で性的労働をさせられました。台湾人とは関係ない戦争なのに、家族と引き離され、犠牲になりました。事情が異なると見えますが、帝国が植民地の人々の運命を操るという論理は同じです。笹の墓標展示館は、私たちにこの血と涙の歴史を忘れてはいけないで、過去の誤りを肝に銘じて、繰り返さないようにと語っています。私たちは国境を越えて、ここで出会うきっかけはこんな悲しい過去です。しかし、私たちは、歴史の傷を癒して、新の連帯を作り直しようとしています。お互いの気持ちを大事にして、支え合って、東アジアの平和を守っていきたいです。再生した笹の墓標展示館は、これからも東アジアの若者たちを見守り続けている存在になれるように、心からお願いしています。2017年ワークショップ参加者、NGO職員 鄭敏(ジェン ミン)2017年的夏天,我初次踏上北海道的土地。因為報名了東亞共同工作坊,我拜訪了海外遊客鮮少前往的朱鞠内湖、參訪「笹の墓標展示館」,並在工作坊的參訪過程中,得知朱鞠内湖和雨龍第一水壩乃是日本強徵殖民地人民、讓他們在惡劣的勞動環境下興建而成。北海道冬天氣候嚴寒,不少來自朝鮮的工人因此客死他鄉,再也回不了家,牌位安於舊光顯寺—如今的笹の墓標展示館。儘管台灣並非此段歷史的參與者,但在當時日本的殖民統治下,一樣成為帝國的工具,男性用於戰事、女性則被欺騙至軍營提供性服務,為了與台灣人無關的戰爭被迫與家人分離,甚至犧牲。看似不同的時空的事件,背後卻是一樣的邏輯操弄著殖民地人民的命運。而笹の墓標展示館的存在,便是提醒後世的我們這段血淚的壓迫史,記得曾有的傷害且不再重蹈覆轍。雖然這段橫跨國境的連結,起於傷痛的過往;但因緣際會齊聚在此的我們,願能在撫平歷史的傷痛後,建立新的連結—相互尊重、彼此照顧,守護東亞的和平。希望重建以後的笹の墓標展示館,能繼續為來自東亞各地的年輕人做見證!2017年工作坊參與者、NGO工作者 鄭敏