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朝鮮人強制労働の史実を伝えてきた「旧光顕寺・笹の墓標展示館」を再建したい

2019年2月、北海道朱鞠内において戦時下強制労働の史実を伝えてきた「旧光顕寺・笹の墓標展示館」が積もった雪の重みにより倒壊しました。私たちは、死者の追悼、歴史の展示のみならず、日本・韓国・在日韓国/朝鮮人はじめ東アジアの若者たちの交流の場となってきた展示館の再建を目指しています。

現在の支援総額

3,882,000

32%

目標金額は12,000,000円

支援者数

381

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2021/06/01に募集を開始し、 381人の支援により 3,882,000円の資金を集め、 2021/07/30に募集を終了しました

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朝鮮人強制労働の史実を伝えてきた「旧光顕寺・笹の墓標展示館」を再建したい

現在の支援総額

3,882,000

32%達成

終了

目標金額12,000,000

支援者数381

このプロジェクトは、2021/06/01に募集を開始し、 381人の支援により 3,882,000円の資金を集め、 2021/07/30に募集を終了しました

2019年2月、北海道朱鞠内において戦時下強制労働の史実を伝えてきた「旧光顕寺・笹の墓標展示館」が積もった雪の重みにより倒壊しました。私たちは、死者の追悼、歴史の展示のみならず、日本・韓国・在日韓国/朝鮮人はじめ東アジアの若者たちの交流の場となってきた展示館の再建を目指しています。

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皆様のご支援に感謝申し上げます。
目標達成に向け引き続きご支援よろしくお願い申し上げます。


みなさま、こんにちは!

私たちは日本有数の極寒・豪雪の地、北海道 幌加内町 朱鞠内(しゅまりない)にある「旧光顕寺・笹の墓標展示館」の再生を目指す、NPO法人 東アジア市民ネットワークのメンバーです。

下記に詳述いたしますが、私たちは朝鮮人強制労働の歴史を伝える「旧光顕寺・笹の墓標展示館」を拠点に、歴史の真実に学び、東アジア市民の交流を深めることによって、東アジアの和解と平和の実現に寄与することを目的に活動しています。

私たちは1997年から、夏には強制労働犠牲者の遺骨発掘ワークショップ、冬には積雪が2メートルを超える「旧光顕寺・笹の墓標展示館」の雪下ろしワークショップを開催するなど、2000人以上の若者や市民による参加のもと活動を行なってきました。


私たちは永らく朱鞠内にある「旧光顕寺・笹の墓標展示館」 を拠点に、北海道の地に眠る強制労働犠牲者の遺骨を発掘し、遺族ならびに故郷の朝鮮半島に遺骨を届ける活動を行なっています。

「旧光顕寺・笹の墓標展示館」は、戦時下における強制労働犠牲者を弔い、その歴史を伝えてきた強制労働資料館です。

それと共に、ここに集う日本・韓国・在日韓国/朝鮮人・アイヌ・台湾など、民族や世代、国境を越えた人々の学習・交流の場でもありました。

しかし2019年2月、展示館は2メートルを超える雪の重みにより傾き、2020年1月、完全に倒壊しました。

私たちは展示館が果たしてきた役割を継続し、東アジアの和解と平和を実現するために「笹の墓標展示館」の再生を決心しました。


私たちが「旧光顕寺・笹の墓標展示館」を守りたいと思うのは、「戦後」76年が経つ現在においても今だに故郷に帰ることなく安置されているご遺骨が、この場所にあるからです。

笹やぶの下に長い間埋まっていたご遺骨を、はじめて発掘した1980年から、わたしたちは朱鞠内で強制連行で犠牲になった方々を弔い、ご遺族を探し、故郷へお返しする活動を続けてきました。

私たちの手で発掘したご遺骨が私たちのもとにある以上、活動を続けてゆく責務があると考えます。

そしてその史実を広く伝えていかなければなりません。

2015年には北海道各地で発掘された115体のご遺骨が韓国へ里帰りを果たしましたが、それは死者を弔うことで歴史認識を共有する、という和解への道のごく始まりにすぎず、植民地主義を経験した双方にとって、問題はまだ山積みなだけに、私たちが長年続けてきた活動を止めてはいけないと強く感じます。

だからこそ私たちは、東アジアの和解と平和の取組みが維持・継続されるようこの場所を再建したいのです。


私たちが「旧光顕寺・笹の墓標展示館」を守りたいと思うのは、この展示館がご遺骨の安置や追悼、歴史の展示だけではなく、その過程に多くの東アジア市民の交流があったからです。

その中でもとくに若者たちの交流は非常に活発でした。

ワークショップが始まった1997年ごろの日本と韓国は、歴史認識が大きく異なり(現在も続いていますが)、また韓流ブームのような文化的交流もなく、ベールに包まれたものでした。

すでに24年が経ち、当時の若者も年を重ねましたが、あの時の日・韓・在日韓国/朝鮮人の若者たちにとって、お互いの出会いは非常に衝撃的でした。

はじめはたどたどしく始まった交流も、時間が経つにつれ深まっていきました。

歴史認識の違いから幾度となく衝突がありました。

言葉の壁もありました。

自らのアイデンティティーに悩む在日の葛藤もありました。

そんな中、若者たちは戦後半世紀以上、土の中に忘れさられていた遺骨を発掘し、その犠牲の痛みや悲しみを共に「体験」することで、歴史の真実を学びました。

次第に「日・韓・在日」というような自らが作っていた、国家や民族の視えない壁を、歴史と向き合う中で、「あなた」と「わたし」というように、個々の関係として築いていきました。

その想いは東アジアへと広がり、台湾の若者たちも参加するようになりました。

「また朱鞠内で会おう!」

そう約束し、今は各々が、あらゆる国や地域で、朱鞠内で体験した歴史の真実と向き合っています。

ワークショップで出会い結婚し、親子で参加するようになった若者もいます。

その全てのはじまりが「旧光顕寺・笹の墓標展示館」でした。

犠牲者のご遺骨が巡りあわせてくれたご縁です。

今はまだ、日韓や日朝、東アジアにおける過去の植民地問題は解決に至っていません。

むしろ解決があるものでもなく、歴史と向き合い、市民が交流を続けることで克服していかなければならない問題です。

だからこそ私たちは、東アジアの和解と平和の取組みが維持・継続されるよう、「旧光顕寺・笹の墓標展示館」 を再生し、市民たちによる交流を途切れることなく続けていきたいと思っています。


私たちは展示館の再生に向けて、2019年7月に「笹の墓標展示館再生・和解と平和の森を創る」実行委員会を発足しました。

名称の通り私たちは、展示館を再建築するとともに、展示館が所有する敷地内に和解と平和の森を創造しようとしています。

展示館の周辺には「記憶・継承の碑」「平和の踏み石」「願いの像」などの追悼碑が立ち並んでいます。

また、五右衛門風呂「シュマリの湯」や、ツリーハウス「くまげら荘」カヌーなど、ワークショップの参加者たちが作った自然を満喫できるアイテムが揃っています。

私たちはこの場を、歴史と向き合う場でありながら、訪れる人々が雄大な自然に触れ心を休め、あらたな活力を得られるような場に創りたいと思っています。

おひとりでも、こどもと一緒でも、どなたでも訪れていただき、命の大切さ、自然の大切さを感じていただきたいです!


私たちが「笹の墓標展示館」の再生に向けて掲げた募金目標は3,000万円です。

2020年1月から宗教者・教員・芸術家・ジャーナリスト・平和活動家など250人を超える呼びかけ人(2021年5月現在) と共に、支援募金を開始しました。

2021年5月現在、よびかけ人をはじめ、多くの有志などから2,000万円を超える支援募金が寄せられています。

クラウドファンディングでは、手数料も考慮させていただき、1,200万円のゴールを目指しています。

また、今回みなさんに呼びかけることによって、目標を達成すると共に、多くの方々に私たちの活動を知っていただく機会にしたいと思っています。

下にさらに詳しく、私たちの活動とこの地域の歴史についてまとめています。

ぜひお読みください!




笹の墓標展示館として利用してきた旧光顕寺は、今から87年前の1934年に建立されました。
その翌年、1935年からは雨竜ダム建設の資材輸送のために、名寄⇔朱鞠内間を走る名雨線(旧深名線)の鉄道工事が始まりました。工事には多くの日本人タコ部屋労働者が従事させられました。



その後、1937年から始まった雨竜ダム工事には、朝鮮半島から強制連行された労働者が従事させられました。1942年の統計上の移入朝鮮人数は3000人にのぼるとされます。

鉄道工事・ダム工事は過酷をきわめ、犠牲になった労働者は工事現場に程近い光顕寺に運びこまれました。ご遺体は光顕寺で一夜を過ごし、朱鞠内共同墓地裏の笹薮の中に埋められました。
当時の檀家の証言では、濡れたままの遺体が次々と運び込まれ、畳が腐り、床が抜けたといいます。

1943年、「東洋一のダム」と称された雨竜ダムが完成しました。
犠牲者は日本人約200人、朝鮮人約50人にのぼるとされます。

朱鞠内の戸数はダム工事(1938年~1943年)の最盛期には400戸を越え、飲食店やカフェなどが軒をつらね、ダム工事関係者を含め数千人の人口を抱える街でしたが、ダム工事の終了とともに人口が減少しました。

光顕寺はわずかになった檀家の力で守られてきましたが、ついに廃寺となり、朱鞠内歴史保存委員会に管理が任され1995年9月に「旧光顕寺・笹の墓標展示館」として新しい歩みをはじめることになりました。


私たちが光顕寺と出会ったのは、今から45年前の1976年9月でした。

代表の殿平善彦(浄土真宗・一乗寺住職)など空知民衆史講座のメンバーが朱鞠内を訪れた際、地元の方に光顕寺へ案内され、そこでダム工事・鉄道工事犠牲者の位牌(いはい)80余りを発見しました。

なぜ朝鮮人の名前が記されたご位牌がこんなにも沢山あるのか。

その後、調査が開始され、残された位牌と幌加内町に保存されていた埋火葬認許証から犠牲者の名前と本籍地が判明し、ダム工事・鉄道工事の犠牲の実態が明らかになっていきました。


1977年以降、光顕寺の檀家の方々によって朱鞠内で亡くなった犠牲者の追悼法要が行なわれるようになりました。

次第に私たちは、朱鞠内共同墓地裏に埋葬されている工事の犠牲者の遺骨を掘り起こし、遺族に遺骨を返したいという願いを強くしました。

1980年5月、朱鞠内共同墓地裏で犠牲者の遺骨発掘がはじめて行なわれ、雪どけのあとの笹薮を刈り取った土の中から、6体の遺骨が掘りおこされました。

以後、1983年7月までに計4回の遺骨発掘が行なわれ、16体の遺骨が掘りおこされました。

1992年3月には「遺骨奉持団」が訪韓し、朱鞠内で犠牲になった2体の遺骨を故郷の韓国へとお返ししました。


発掘された遺骨は光顕寺で改葬され、位牌とともに光顕寺に安置されてきましたが、檀家の減少で光顕寺が廃寺となってしまったことにより、1995年に朱鞠内歴史保存委員会が旧光顕寺の管理を引き受け、遺骨の安置とともに、強制連行・強制労働の歴史を展示する「笹の墓標展示館」として新たなスタートを切ることになりました。

1997年から新たな局面を迎えることになります。

代表の殿平善彦と韓国の鄭炳浩(チョン・ビョンホ、韓国漢陽大学文化人類学科名誉教授)の偶然の出会いをきっかけに、日本・韓国・在日韓国/朝鮮人の大学生などが合宿をしながら遺骨発掘をする「日韓共同ワークショップ」が始まりました。

はじめてのワークショップには若者を中心に約250名が参加しました。
10日間の日程で朱鞠内共同墓地裏での発掘が行なわれ、4体の遺骨を土の中から掘りおこしました。

昼間の発掘を終えると参加者たちは夜を徹して語り合い、学びあいました。

日本・韓国・在日韓国/朝鮮人の歴史における相互のへだたりは、ただちに超えられるものではありませんでした。

共に笑い、時にはぶつかりあいながら、参加者たちはこれまで出会ってこれなかった時間を埋めるかのように語り、友情を育みました。

その熱が冷めやまぬ若者たちは、翌年の冬に朱鞠内で再会することを約束し、1998年2月からは毎年、冬の雪下ろしワークショップが開催されるようになりました。

その後も夏はソウル(1998年)や大阪(1999年)、冬は朱鞠内でワークショップを積み重ね、植民地主義が生んださまざまな痛みと向き合い、未来について語りあってきました。

2001年の夏には、アイヌや台湾など、参加者の枠が広がったことをうけ、日韓に焦点が絞られていた問題意識の幅を東アジアに拡大し、「東アジア共同ワークショップ」と名称を変更し、再度朱鞠内共同墓地裏の発掘を行い、2体の遺骨を掘りおこしました。


その後もワークショップは北海道の猿払や浅茅野など、朝鮮人強制労働があった現場で途切れることなく続けられ、多くの遺骨を掘りおこしてきました。冬のワークショップでは日本学校と朝鮮学校の高校生たちが出会いと学びを続けています。



また、私たちは遺骨の発掘とともに犠牲者の遺族を探し、遺骨を故郷の朝鮮半島にお返しする活動を続けてきました。

日本の敗戦から70年目の2015年、ついに「70年ぶりの里帰り」として115体の遺骨が故郷の韓国に奉還されることになりました。

2015年9月、北海道北部の浜頓別を出発した遺骨奉還団は、朱鞠内をはじめ、北海道各地で発掘された遺骨115体とともに、約70年前、朝鮮半島から連行されてきた道を逆にたどり、東京・京都・大阪・広島・山口で追悼法要を行なったのち、関釜フェリーで故郷の韓国へとお連れすることになりました。

奉還団は釜山やソウルで追悼式・葬儀などを行なったあと、ソウル市が提供した納骨堂に遺骨を安置し、ついに「70年ぶりの里帰り」を果たすことになりました。


このように私たちは、過去の侵略戦争、そして現在も続く植民地主義に向き合いながら、日本・韓国・在日韓国/朝鮮人・アイヌ・台湾など、多くの若者や市民が協力しあい、東アジアの未来をより良いものにすべく活動を行なってきました。

「旧光顕寺・笹の墓標展示館」は惜しくも雪の重みにより倒壊してしまいましたが、私たちが40年をかけて築いてきた東アジア市民たちとの友情は、さらに強いものになりました。

日本社会は今日に至っても戦時下の歴史が残した課題を解決できず、近年は「徴用工」問題をはじめ、強制労働の歴史を否定する論調が目立ち、露骨なヘイトや差別が横行するようになりました。

私たちは、再び過ちを繰り返そうとする動きに抗し、今こそ東アジアの未来に希望の種をまくため、倒壊した「笹の墓標展示館」の再生を呼びかけます。

あなたのお力をいただけるならきっと素晴らしい展示館が再建されるでしょう。

ご支援を心からお願いするとともに、あなたもぜひ自然豊かな朱鞠内にお出かけください。



<All-in方式の場合>
本プロジェクトはAll-in方式で実施します。目標金額に満たない場合も、計画を実行し、リターンをお届けします。

最新の活動報告

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  • 感謝とご報告

    2021/08/04 19:02

    6月1日からスタートしたクラウドファンディングは、7月30日をもって終了いたしました。クラウドファンディングにお寄せいただいたご支援は、3,882,000円、381名にのぼりました。クラウドファンディングを開始して以降、WEBが苦手だからとオフラインでも500万円を超える寄付が寄せられました。知人にお声がけくださった方、SNSなどを通じてご協力くださった方、たくさんの皆さまの心のこもったご支援や応援のメッセージをいただくことができ、感謝の気持ちでいっぱいです。皆さまからのお気持ちを受け止めながら、展示館の再建への意義を改めて強く感じております。皆さまからのご協力により、笹の墓標展示館再建のための募金は、2800万円を越え、目標まであと一歩と迫りました。引き続き目標達成に向けて募金活動を続けながら、歴史と向き合い、東アジアの和解と平和を築くための新たな展示館再生に向けて、歩みを進めて参ります。今後の活動などは下記のサイトをご参照いただき、引き続きのご関心をお願い申し上げます。https://www.sasanobohyo.com/この度は、本当にありがとうございました。笹の墓標展示館 再生 クラウドファンディング事務局一同 もっと見る

  • 「笹の墓標展示館再生・和解と平和の森を創る」実行委員会で事務局をしている、金英鉉(きんよんひょん)と申します。6月1日からスタートしたクラウドファンディングは本日7月30日をもって終了いたします。本当に多くの方から支援を頂いていることに感謝いたします。クラウドファンディングを開始して以降、WEBが苦手だからとオフラインでも500万円を超える寄付が寄せられました。事務局として、皆さまの支援を毎日受け取る者として、皆さまの心のこもった支援やコメントに、展示館の再建への意義を改めて強く感じております。皆さまに深く感謝をしながら、本クラウドファンディング最後の寄稿として私の想いを書かせていただきます。私は京都出身の在日朝鮮人3世です。「旧光顕寺・笹の墓標展示館」の倒壊を知り、2年程前から北海道の多度志に移り住み、笹の墓標展示館再生のための事務局をしています。京都から関空まで2時間、関空からは飛行機で2時間半、空港から多度志まで電車とバスを乗り継ぎ3時間。さらに多度志から「旧光顕寺・笹の墓標展示館」がある朱鞠内に行くには車で1時間ほどかかります。私はこの2年の間、何度も多度志から朱鞠内を訪れました。朱鞠内へ向かう道中、舗装された道路や、トンネル、白く花開いた美しいそば畑を通りながらいつも思うことは、70年以上前、朝鮮半島から強制連行され、釜山から下関へと関釜連絡船に乗せられ、日本を縦断しながら牛馬のように列車やトラックで北海道まで運ばれてきた朝鮮人は何を考えただろうかということです。引き離された両親や兄弟姉妹のことか、あるいは妻や子どもがいた者もいたのではないか。チャンスがあれば逃亡を企図した者もいただろう。しかし何百キロと続く北海道への連行でその希望は打ち砕かれただろう。朱鞠内に来てからもタコ部屋に閉じ込められ、昼夜過酷な労働で逃げる体力を奪われ、冬にはマイナス40度にも達する極寒の地で生きる気力さえ失ったであろう。死んだ者は共同墓地の片隅に折り重なるように埋められ、死してもなお足を伸ばすことも出来ずに土を被された朝鮮人は、一体死の間際に何を想っただろうか。まだ生きたかっただろうか、もはや死にたかっただろうか。朱鞠内へと向かう道中、北海道の雄大さを傍目に、この道を運ばれ犠牲になった朝鮮人を思うと、我が祖父の不幸を思うように胸が締め付けられます。だからこそ私は在日朝鮮人として、この課題に取り組んでいます。1980年になって初めてこの地で遺骨発掘が行なわれ、数多くの遺骨が発掘されました。戦後35年以上が経ってからです。日本ではまもなく迎える8月15日を「終戦76年」として記念するでしょう。しかし朱鞠内には76年以上も、土の中に忘れさられ、今だに戦後を迎えらていない遺骨が数多くあります。このご遺骨にとっての戦後とはいつになるのでしょうか。そしてどのように訪れるのでしょうか。「旧光顕寺・笹の墓標展示館」は、遺骨の発掘、追悼と共に、歴史の展示、そして東アジア市民たちの交流の拠点でした。ここに集まる市民たちは歴史と向き合いながら、東アジアの和解と平和を築くためにともに遺骨を発掘し、お酒を飲み、友情を培ってきました。この営みが続き、過去の反省のもとに未来へと進むならば、必ずや日本にも戦後が訪れ、2度と戦前を迎えることがないと確信します。皆さまの共感をいただけるならば、是非ともクラウドファンディングならびに展示館再生支援に想いをおよせください。私が北海道まで来た道程は、強制連行で連れてこられた朝鮮人の道程に比べれば半分にも満たないし、比較にもならない楽な道ですが、この道が和解と平和を作る道になればと思います。2021年7月30日金英鉉1982年に掘り起こされたご遺骨光顕寺に残されていたご位牌旧光顕寺・笹の墓標展示館解体後の旧光顕寺跡地(奥の建物は庫裏) もっと見る

  • 台湾人がまだ植民から脱却されていないというのは、意識されていなくても、無意識的に言葉と行動から滲み出しています。私は笹の墓標展示館に訪れた時に、すでに薄々意識しました。台湾は今でも植民されています。自分の主体を持って行動することができていません。今の台湾の歴史教育の中で、植民問題を論じることがまだ少ないです。外国の話ではなく、日本植民地時代で戦争動員させられ、琉球で命を落としました。戦後、この歴史をしっかり精算するはずでしたが、再び中国に植民されて、戦争責任の精算ができませんでした。それは台湾と言葉を失って、恐怖が溢れて自由がなかった日々でした。民主化から20年、戦後から70年も経って、やっと琉球の平和記念公園で公式的に台湾の塔が建立されて、犠牲した台湾人が記念されるようになりました。また、中国に植民されていた間に、中国の内戦に動員させられた台湾人もたくさんいました。多くの台湾人は帰れない者になりました。その内戦の60年後に、生き延びた元兵士は焼身自殺で政府に抗議しました。そして、やっと「戦争と平和記念公園」が建立されて、唯一台湾籍兵士たちを記念する施設になりました。日本軍、中国国民党軍そして中国人民解放軍の軍服を着た台湾人たちの声を聞く耳は、台湾社会がまだ持っていません。その中に、自分の家族もいたかもしれないのに。公園の敷地は狭くて、国立施設ではなく地方自治体によって管理されています。しかし、記憶を呼び戻すための大事な一歩です。人類の歴史の中で、恐怖と苦痛が溢れています。歴史を掘り起こすことは難しいですし、過去をあやふやに忘れていくこともしばしばあります。笹の墓標展示館で韓国と日本が手を組んで、過去の犠牲を記念して、平和と自由の難しさを世間に示すことは大事です。台湾もまだ記憶を取り戻そうとしている途中です。お互いの経験と記憶を大事にして、過去の恐怖と苦痛をすべて癒されるように、そして二度と過去の過ちを繰り返されないように、心から願っています。第十五回東アジア青少年歴史キャンプ参加者、台湾台中教育大学台湾言語学部Ku龜--ê (Khu Chùn siâng)受殖這件事我想台灣人即使意識上不清楚,不經思考的話語和表現出來的行為卻都還能證明,對此,當時到館前的我就有意識到這件事的輪廓了,即使台灣還在無法完全以台灣優先和行動的殖民當局管理下。也因此台灣現行歷史教育的內容和方式對此是鮮少提及和被記憶,不用說外國,像台灣受日殖被戰爭動員在琉球受難,戰後本應開始重建和追討不義的台灣隨後卻因缺乏遠見被完全中殖半世紀,那是失台、噤聲和透過恐怖輾壓自由的日子,一直到所謂民主化開始後的20多年,總共過了快70年台灣的狀況才允許在琉球平和祈願公園以官方名義建立台灣之塔來紀念受難的台灣人,更別說萬名台灣人被殖民中國騙往中國內戰只有百名回來也是過了60多年在倖存台灣人自焚抗議下才順利設立了台灣唯一紀念台籍老兵的「戰爭與和平紀念公園」,這些穿過日本、中國黨和中國解放軍服的台灣人歷史對今日多數台灣人可能還是從所未聞,即使受難的可能就有自己家族內的親人,而園區雖然不大也還只是在地方政府的管轄下,但也已經能算是開始回憶的重要一步。想想,人類恐怖和痛苦的歷史,曾經發生過的事要能被想起是多麼的困難,過去又是多麼容易的被模糊,韓日能合作來紀念受難的記憶,讓人還能知道和平與自由的不易是有其意義和必要,台灣也還在重建記憶的工程當中,期待彼此經驗和記憶保存的作用下,在那未來能讓歷史只成為遙遠的過去就好。Ku龜--ê (Khu Chùn siâng) もっと見る

コメント

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  1. 2021/09/16 22:32

    こんにちは。大学在籍中に一度だけワークショップに参加いたしました。 それまでお恥ずかしながらこんなに身近な場所で強制労働が行われ、たくさんの尊い命が失われた事を知りました。 それは、旧光顕寺があったからこそ知れたことであり、改めて今快適で豊かな暮らしができていることを痛感し、他者を尊重する大切さを学べたきっかけでした。 その経験のおかげで、ワークショップ後の教育実習で、わずかですが生徒に『他者を尊重することの大切さ』を伝えられ、社会人となっった今でも人との繋がりを大切に思える事が出来ます。 卒業から4年経ち、ふと「今あのお寺はどうなっているのだろう。」と調べたところ、倒壊してしまったことを知り残念に思いました。 社会人になり忙しくなかなか今までのように時間を作る事が出来ませんが、再建されましたら是非行きたいと思います。

    1. 2021/09/17 10:48

      BREINNIA 様 こんにちは。コメントありがとうございます。 展示館は残念ながら雪の重みで倒壊してしまいましたが、ワークショップや光顕寺に関わった多くの方々のご支援・ご協力で支援目標がまもなく達成されようとしています。再建された折には是非お越し下さい。 ホームページや、Facebookなどで情報が配信されますので、是非ご覧下さい。 HP https://www.sasanobohyo.com/ FB https://www.facebook.com/sasanobohyomuseum


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