
ボタニカルアイランドの原点とも言える事例を紹介します。
トップ画像は鉄滓(てっさい)というもので、製鉄の際に発生する不純物や合金で、鉄を取り出した残りの廃棄物。こちらはずっしりと重みのある塊でした。こちらは軽い鉄滓で、木炭の欠片がめり込んでいるのが見えます。
(ちょっと長くなります。)
実は1年半前・令和元年の12月に山集落に「たたら製鉄」の痕跡を確認しました。実は南西諸島の歴史認識を塗り替える可能性があり、博物館などが調査中です。
ここにたどり着いたいきさつ…かつて奄美群島や沖縄諸島や先島諸島の集落には神様が多く鎮座し、人々と共に生きていました。 その集落の精神的支柱・繋がりの象徴ともいえる「神さま」を今一度しっかり調査し、現在の集落社会につなげて、集落コミュニティの一人一人が一歩踏み出す「動機」や「きっかけ」になるのでは?と考えたのです。
そこで、聖なる山(テラ・今は多くが神社と呼ばれる)や水の神(ミジカミサマ)や泉(イジュン)、拝所(ウガンジョ)、聖地(カミサマド)、聖なる道(カミミチ・カミサマミチ)神様の領域・禁忌エリア(ウトゥルシド)などを先輩方に伺い、清め塩と焼酎を持参しカミサマにあいさつしお参りしました。そして、山集落の火の神様にお参りしたところ発見に至りました。しかし、ウトゥルシドでとても神高い場所という認識のみで草木が生い茂って立ち入りさえ困難だったこの「火の神様」には伝承や逸話などが全く残っていないのです。 そのため、琉球王朝時代や江戸・薩摩藩政下時代といった、いつの時代の”たたら製鉄跡”なのか確定できず、現在科学的に年代測定を実施中です。そろそろ結果が分かり、公表されると思います。こうご期待
また、「たたら製鉄に大量に必要な「木炭」があるはず!!!」と思い、まずは先輩方に伺った昭和時代に使われた炭窯を調査に行きました。
そこにある石と粘土とで構築し、木をいただき炭にする・・・今は放棄され「遺跡」となりましたが、先輩方の力強さと努力の蓄積を語りかけてくるようです。
さらに、「他にもあるはずだよ」という先輩方の示唆と、「でもどこにどれだけあるかは誰もわからないよ」という状況から、山集落の山の中を歩き回り、特に沢沿い・谷間に炭窯があることを学習し、(コロナ感染症で聞き書き作業などを控えて)数カ月間とことん山を登り降りしたところ、山集落”だけ”で75基の炭焼き釜を確認しました
まだ全てのエリアを踏破してないのですが、山頂付近まで作られているほか、面白い発見(条件もいいのにまったく伐採されてないエリアがある=聖域か薪をとるため炭焼きが禁止されたか)や構造が変わった炭窯など、色々発見。 徳之島全体ならばもっとすごい量の炭窯があるでしょう。 ・・・車がない時代に、山奥・急峻な斜面や谷間を超えて作業する先輩方の業は神の領域に達していて、ただただ尊敬するだけです。
ふいごの羽口(はぐち)高温の釜に空気を送り込むための送風パイプの役目で、花崗岩製
たたら製鉄の原料・砂鉄は徳之島の浜辺によく見えます。最近知ったのですが、徳之島以外の南西諸島にはあまり砂鉄がなく、今まで琉球王国は武器や道具・農具といった「鉄器」は輸入または再加工(鉄製品を溶かし、鍛錬し直す)を行っていたというのが定説だそうです。高温で焼けた羽口の釜側・溶けた金属や岩石が付着してます
いっぽう、琉球王国の歌集「おもろさうし」では、徳之島が「かねのしま」と美称されています。ほかにも「かね」が謡われた歌が複数ありますが、この「かね」の意味が今までは謎でした。 これがもしかすると「かね=鉄」かもしれません。 重要な戦略物資で、世界の歴史や人々の生活を変えてきた「鉄」~大きな炎を数日間も上げ続け、砂浜の黒い砂から光り輝く「ちからの結晶」を産み出す”たたら”。それを操る「火の神」が徳之島・生まれ故郷に存在したということになんとも誇らしい思いと、尊敬する気持ちと、ドキドキでいっぱいです。
豊かな海と山に彩られた島の暮らし、海を越え・つながり紡ぎあげた島々の歴史、「環境文化」とも表現される島々の個性・輝きはとっても誇らしい。 こういった側面から島々をみることもとっても楽しいです。 このような「すべての原点」「神さまたち」に敬意をもって、その宝を次の世代にしっかりつなぎたいというメッセージが「ボタニカルアイランド」に込められています。
長くなりましたが、読んでいただきありがとうございました。