支援者の皆様、大変お世話になっております。
今回の画像は、現在の高時川大橋の一部分です。そこに、かろうじて残っていた明治時代の橋の写真が飾られています。写真に写っている人は、木之本の浄信寺で毎年法要が行われている「地蔵盆」に、お参りに行かれるところだそうです。
木之本は今でも、「地蔵縁日」が八月の二十二日から二十五日まで執り行われ、門前は歩行者天国になり、多くの出店が出て賑わいます。
夜には、人の波に乗りながらでないと歩けないくらいの人手です。
昨年は流感のため出店は中止になりました。今年はできるのでしょうか。最終日には大花火大会もあります。この辺りの人々の大きな楽しみの一つ。これにお参りしたら夏休みが終わるというくらいの一大イベントです。
さて、この橋は、古橋に残る書き付けの中に設計図が残っており、三成公がご存命の頃もこのままの形だったことがわかるそうです。現在の橋はしっかりしたコンクリートとアスファルトの車で通っても大丈夫なものになりました。
高時川は増水すれば暴れ、橋は直ぐに流されました。川幅は70メートルくらいなのではないかと思うのですが、巧妙に木組みされ、人が歩く部分は、大木を縦に二つに割り、それを上下逆さまに合わせて並べて渡してあったそうで、人や牛馬が渡るのが精一杯の橋だったようです。
保存会の人の話では、恐らく大八車も渡れなかっただろうから、土手に置いておいて荷物だけ担いで渡ったに違いないということでした。
与次郎は、三成公を叺(かます)に入れて、背負ってここを渡ろうとしました。
叺というのは、ムシロを縫い合わせて袋にしたものです。
「ふるさと古橋ものがたり」では、あえて「俵」と表記しました。それは、叺と書いてもなかなかイメージするのが難しいのではないかと心配したからです。俵ならば、昔話にもよく出てきますし、時代劇にもよく出てきます。わかりやすさを取りました。前回のネタばらしです(笑)
とにかく、この橋はよく流されましたので、その度に架け替えが行われていたというのですから、当時は大変だったのですね。私、当時に生まれていたら生きられなかったかもと思ってしまいます。
この橋を、観光で訪れる人はまずおられません。ツアーの行程には含まれないからです。観光客の皆様の目的は紅葉であり、歴史的な、まして三成公が捕縛された場所に関心がある方が参加される内容ではないからです。
恐らく、旅行会社の方々も、そこはご存じないかもしれません。
流感が治まり、お越しになる時には、ご案内させていただきますので、お問い合わせいただければと思います。
伊勢から敦賀へ抜ける北国街道の本通り。その途中の、高時川大橋。
石田三成公が捕縛されたまさにその場所です。