わたしの母方の祖母は三人産んだ。出産時の苦しみ、辛さ、痛み
を尋ねると「お腹が大きくなって身体の自由が奪われるのが辛かっ
た。陣痛が始まると後は産むだけ。これで身体が元に戻ると思うと
出産は辛くはなかった。ぶっといウンコを出す感じ」。
敗戦前は「産めよ。増やせよ」が国家の大方針。たくさん産むと
表彰された。子供は家族で育てた。大家族が当たり前だった。三人
の子供が家の中を走り回っている。多い家では五人から六人の。子
育てにはベテランの婆ちゃんの存在が大きい。女性は安心して子供
を産んだ。子育てを心配することなく産んだ。
我家も核家族。父方の祖父母はサッポロ。それでも一緒に住んで
いない。子供はわたしと弟。同じサッポロに住んでいる爺ちゃん婆
ちゃんには助けられたと母が言っていた。それでわたしも弟も保育
園に預けられなかった。そのお陰で母は共働きを続けられた。
大家族が崩壊したのは昭和三五年から始まる高度成長。急速に発
展した日本の経済。それに比例して都会の労働力が足りなくなった。
建設建築現場や各種サービス業、工場労働者も。それで男も女も都
会に働きに出た。そして家庭を持った。そこに両親は居ない。専業
主婦でなければ子育ては大変。乳児保育園を探さなければならない。
探し出しても定員と収入等の条件の壁に阻まれてなかなか入園でき
ない。三歳児以上の保育園も入園できたらラッキーと云う状態。大
家族崩壊がつまびらかになっても「子供は家で育てるものだ」との
認識は変わらない。その認識は、実態を見つめていない、眼を背け
ている政治家のジジイが形成している。近年は離婚の増加につれシ
ングルマザーの子育ても浮上。
仕事か子育ての二者択一を迫られると子供を抱えた女性は必ず子
育てを選択する。結婚して家庭を持ち、子供を作ろうかと考える夫
婦には、こうした子育てに伴う現実が否応なしに覆いかぶさる。夫
の収入がそれなりであって、専業主婦を維持できるなら、まだ産み
やすい。専業主婦は社会に出て、会社で活躍しない。自分で事業を
起こす女性は稀。専業主婦を望んでいない女性にとって、子育てを
選択して、会社を辞めるのは出産よりも辛い。子育てに区切りをつ
け、それまでの仕事に就く社会復帰は極めて困難。
こうなると子供を産む意欲は女性からどんどん喪われてしまう。
仕事を続けながら子育て出来る環境が日本には乏しかった。今でも
不充分を放置している。待機児童が二万人強と云う現実は解決しよ
うとすれば直ぐにでも可能。待機児童一人に二百万円の資金で何と
かなる。四百億円強の予算措置で解決できるのに…。
国会議員には予算決定権が在る。国会議員が求める予算の獲得に
は各省庁を通さなければならない。それらを政府が束ねる。その結
果が予算案。国会で審議して決定される。と云うことは四百億円強
の少子化解消に向けての待機児童ゼロ予算の優先順位は少なくとも
最新鋭潜水艦『おやしお』(約四五三億円)よりも低い。そして他
よりも低い。保育園は厚生労働省の管轄。直接的な指導監督業務は
各自治体。そうなると自治体が待機児童ゼロを目指すなら可能。け
れど、ここでも予算の壁に阻まれているに違いない。全国一七九七
の自治体のうちゼロの自治体はひとつも無いのでは…。
待機児童問題はやる気になれば直ぐにでも解決できる。
在った。
本気で取り組んだ女性がいた。やはり、これからゼロを目指すと
言って憚らない自治体は今まで真剣に本気で取り組んでこなかった
のだ。サッポロもそうだ。
千葉市と横浜市は待機児童ゼロだった。横浜市長は女性。彼女が
待機児童ゼロを政策の中心に据えた瞬間から庁内の雰囲気がガラッ
と変わったらしい。強い指導力を発揮したのだと思う。心強い。