花南に頼み込んで他の教科書を見せてもらった。
花南が積み上げてくれた教科書を、片っ端から捲り。書き込みを見つけると
図書館のコピー機に向かった。かなりの数だった。
日本史と世界史は書き込みが多く、そして文字が小さく、コピーを拡大する
必要が在った。拡大するとA4に収まらない。その調整と手間が面倒だった。
美子は部屋に戻るとA4のコピー用紙と向き合った。
陽大の書き込みは教科書の(注)よりも面白かった。教科書の(注)はテス
トに出される確率が高い。見逃せないのが(注)。陽大の書き込みはテストに
まず出ない。面白いのは陽大の興味と好奇心が赤裸々に表現されているからだ。
授業での先生の話よりも面白い。陽大は自分で考えている。ひきかえ先生の話
は毎年繰り返しているマニュアル。だから退屈して眠くなる。
美子はどの書き込みにも惹き込まれそうになった。
惹き込まれそうな度合いを計り整理した。
強烈が(五)。
かなり面白いが(四)。
まあまあが(三)。
おやっ。ナニコレは★。
へぇ~は(二)。
な~るほどは(一)。
気に懸かった書き込みは盛り沢山。
『現国の(日本のかたち)司馬遼太郎』『漢文の片隅に日本の古代文字(漢字
到来以前の文字。弥生時代の硯が発見された)』『日本史の西南戦争』『生物
の人類の系譜(ホモサピエンス誕生以前の人類)』『地理の地球温暖化』『地
理と地誌の違い』『数学の微分積分は何の為に在るのか。他にもΣ・λ・log・
sign・cosine・tangentの意味と目的」。ちょっと変わっているのが複素数』
『物理の福島原発の原子炉内の燃料デブリは取り出せるのか。取り出したとし
てデブリをどうするのか』『公民のスーパーのポリ袋有料化はプラゴミの削減
に寄与するのだろうか』『世界史の、今、香港が騒がしい』などなど。
良いな。花南は。陽大に包み込まれている。羨ましいな。でも花南は教科書
と格闘していて書き込みに注目していない。教科書をひと通りやっつけてから
と考えている。もったない。書き込みには陽大が活きているのに。花南に先回
りして私が陽大と対話する。反則かなぁ~。いいえ。違う。これは陽大と私が
心を通わせる最初の儀式なんだ。
『西南戦争』は圧巻だった。
日本史の教科書の巻末の余白に細かい文字でビッシリ。
余白が足りなくなって巻頭に続きを書いていた。
―新政府の要職に就き日本の近代化(中央集権化)を推し進める中心者で在っ
た西郷が鹿児島の士族の不満に呼応して挙兵したのは新政府内の腐敗と征韓論
に敗れたのが直接の因であった―が陽大の書き出し。
…これは教科書の定番。誰もがそう理解している…
―西郷の征韓論に反対する者たちとは明治四年に不平等条約改正を目的として
欧米に向かった外交使節団のメンバーだった。岩倉具視・木戸孝允・大久保利
通・伊藤博文。何れも新政府の重鎮。西郷は留守政府を預かった。
幕末に威臨丸でアメリカに渡った勝海舟。福沢諭吉も随員として参加。通訳
はジョン万次郎であった。帰国後の勝海舟の不戦の政治的スタンスはアメリカ
で決定された。福沢諭吉が帰国後任官せずに市井において学問と教育の途を追
及したのもアメリカの体験(多様性)に相違ない。ペリーとの交渉で幕臣にス
パイ呼ばわりされたジョン万次郎は通訳に徹していた。
余談であるが榎本武揚はジョン万次郎の私塾に通い英語を習得している。榎
本はジョン万次郎を『間諜』と呼ばずに『先生』と呼んだ。
外交使節団のメンバーの政治的スタンスも欧米で決定された。
不平等条約改正どころでは無かった。
異国に渡った日本人たちの眼に焼き付いたのは同じ景色だった。幕臣たちも
新政府の重鎮たちも圧倒的なスケールと技術で近代化を支える国家の姿を見た。
日本が追いつくには遠い。遠過ぎる。何年かかるのだろう。要するに打ちのめ
されたのだ。国内で争っている場合では無い。先ずは急ぎ中央集権を確立しな
ければならぬ。西郷が欧米の近代化の生の姿を一見していたならば征韓論を唱
えなかったであろうし挙兵も無かった。北海道に馴染みの深い島義勇も欧米を
観ていない。下野した後に江藤新平らと佐賀の乱を起こし首を刎ねられている。
これも特権を剥奪された士族の反乱。反乱は鎮圧されるのが常―
…ここまでだったら『な~るほど』或いは『へぇ~』止まり…
―西南戦争が始まる以前に新政府は全国に通信網の整備を終えている。
明治八年。長崎経由で上海と繋がった。上海からは欧米とも。反して薩摩軍
の通信手段は馬による伝令と狼煙が主。これだけでも戦さの帰趨は決する。
通信網の整備を推進したのが榎本武揚。彼のオランダ滞在は三年半。彼はオ
ランダから開陽丸の他にも様々を持ち帰った。そのひとつが通信網の整備。
ヨーロッパの近代化と帝国主義を知った榎本が何故箱館まで新政府軍と戦っ
たのかは謎である。『どこの馬の骨と分からぬ薩長土肥をからかってみた』と
の晩年の酒席での逸話が残されている。榎本には開陽丸が在った。『この軍艦
が在れば勝てる』が榎本を支えていたのは間違いの無い処。
榎本は通信機をブレゲ式からモールス式に替えた。ブレゲ式は一度に送る量
が限られているが送る側の操作も送られた方の解読も容易だった。モールス式
は一度に送れる量が圧倒的に多い。しかし送り手も送られた側の解読もどちら
にも高い専門性が求められた。その技術者が日本には居なかった。これが新政
府がブレゲ式を採用した理由。これが中央集権を急ぎ成し遂げようとする日本
の近代化の現状であった。榎本は技術者の養成に着手。
明治一〇年の西南戦争の時には松並木をも活用し九州全土に電線が張り巡ら
され、東京とモールス式で繋がり政府軍の情報収集能力はリアルタイム―
…これで『おやっ。ナニコレは★』にひとつ昇格…
―山鼻屯田兵は西南戦争に出兵した。
明治九年の入村から一年後。
開拓の目途が立たない時期だった。
巨木を切り倒しても根起こしもままならぬ時期だった。
開拓長官黒田清隆の命による出兵。
新政府軍は戦意旺盛の薩摩軍の肉弾戦に苦しんでいた。
全国の警察からも抜刀隊を組織して送り込んでいる。
山鼻屯田兵には会津出身者が多い。
そこに黒田が注目した。
薩摩軍と互角以上の戦意を期待した。
抜刀隊にも会津出身者が多かった。
期待に違わず会津の者たちは奮戦した。
『戊辰の仇』が合言葉だった。
時には薩摩軍の戦意を上回った。
夜襲では数々の成果を挙げている。
黒田が組織した屯田第一大隊は入村者の二四〇名。
この二四〇名に将校と下士官は含まれていない。
二四〇名が屯田第一大隊の主力である。
戦死者一名。負傷者二〇名。
俺の高祖父は会津出身の山鼻屯田兵。
榊長左衛門。
俺は五代目。
爺さんから長左衛門の戊辰と西南戦争を聞かされていた。
爺さんは命のやり取りを省いていた。
鶴ケ城から何度も出撃して戦った。剣の達人だった。藩の序列では二番目。
副指南役を務めていた。白虎隊が鶴ケ城が燃え、堕ちたと、遠くから観て錯覚。
自害したのを惜しみ悔やんでいた。薩摩の剣は剛力で頑丈な剣だったと。ふた
つの戦さも生き延びた。剣が長左衛門の命を繋いだ。開墾がひと段落すると子
どもたちに剣道の道場を開いた。ワシもその門下の一人。今でも忘れないのは
剣を握った時の眼光。子ども心に残っている。あれは殺気だ。村に語り継がれ
ているのが冬眠前の気が高ぶっている雄の羆の首を一刀で切り落とした。これ
は伝説になっている。一刀で首を刎ねないと羆の反撃にあって殺られる。その
羆の毛皮が記念館に飾られている。入村者にとって怖いのが狼と羆。開拓とは
そんな怖さが身近に在る。陽が落ちたら子どもは絶対に外に出られない」―
山鼻屯田兵が西南戦争に出陣したのは知っていた。小五の課外授業で山鼻屯
田記念館に行った。記念館は学校の隣に在った。その時に知った。
屯田兵全員が一枚の写真に写っていた。二四〇名の集合写真では顔が識別で
きない。小樽から船に乗る前の山鼻での記念の集合写真。
その中に榊長左衛門さんが居たんだ。大きさが三メートルもある羆の毛皮が
在ったのを覚えている。それが榊長左衛門さんが一刀で両断した毛皮。
西南戦争は遠い時代の歴史のひとコマ。それも北海道から最も離れた鹿児島
での内戦だった。私が住んでいる山鼻は屯田兵が拓いた地域。これも遠い時代
の出来事。私の今からはかけ離れている。それが陽大の書き込みで近づいてき
た。陽大は身近な自分のこととして記憶。今も語り継いでいる。
これが知識では無い血の通った歴史なんだ。
…『まあまあ』を超えてふたつ昇格の『かなり面白い』に…
―俺は爺さんの語りを聞く度に不思議な気分に包まれた。
爺さんにはルーツを記憶している誇りが在った。
高祖父の榊長左衛門と俺は血が繋がっていない。
爺さんとも繋がっていない。
榊家のルーツは俺のルーツでは無い。
俺は俺のルーツを知らない。
知らなくとも今は榊家の長男として大切に育てられている。
榊家のルーツに接する度に俺のルーツを知りたくなる。
それは叶わない。
俺にはルーツと結びついたIdentityが欠落している。
だからどうだって言うんだ。
過去よりも今だ。
今が無ければ未来は無い。
ルーツを知らなくても生きてゆける。
けれど何かが欠落している。
その欠落が妙な不思議感になる。
こんな感覚を誰にも伝えられない。
爺さんにも婆ちゃんにも父さんにも母さんにも。
みんなを不安にさせてしまう。
俺は吉岡園長を訪ねた。
「今日来たことは家族に内緒にして欲しい。俺が捨て子だったと小っちゃい頃
から気づいていた。両親を指導員の先生や職員に尋ねても誰も知らないからだ。
園長先生が俺と養子縁組してくれて俺には戸籍ができた。そして今は榊家の長
男になった。何ひとつ不自由が無い生活を送っている。大切にされている。時
として捨て子だったことを忘れてしまう。でも時折何かの拍子で思い出す。だ
から今日園長先生に会いに来た。俺は何処でどのようにして捨てられていたの
か…。捨てた両親は誰なのか…。それを知りたい。教えて下さい」
「家族に内緒は心得た。陽大が何時か訪ねて来ると思っていた。尤もな疑問だ。
陽大にとっての過去は小三までとそれ以降でしかない。問題は小三以前だ。そ
れも出生の時だ。両親の存在は本当に誰も知らないんだ。陽大はこの施設の玄
関に置かれていたんだ。クリスマスイヴの夜に置かれていた。母親が書き残し
たと思われるメモが籠の中に在った。『この子をお願いします。生後二週間で
す。申し訳ありません。私は会津出身者です』。
施設には沢山の大人が居る。陽大をしっかりと育てようと大人たちは誓った。
今と違って監視カメラが備えられていなかった時代だ。映像に記録されている
ものは何ひとつ無い。手掛かりは会津だけ。これだけでは追跡できない。母子
手帳の控え。出生届も職権で調べた。会津出身者の戸籍も可能な限り当たった。
しかし何も出て来なかった。せめて名前だけでも判明していれば…。実は私も
会津出身者の子孫。君のお母さんは私が会津出身者と知っていたと思う。それ
を頼りにした。私を会津出身者と知っている知人縁者友人を片っ端に当った。
その中に出産した女性は居なかった。そして会津の縁が在って榊さんと出会っ
た。私が陽大に伝えられるのはこれがすべてなんだ」
「そうですか。クリスマスイヴの夜だったんだ。俺の誕生日は十二月一〇日。
それが不思議だった。それが今日分かった。園長先生。ありがとうございます。
来て良かった。爺さんが榊家のルーツを俺に語った意味も分かりました。俺も
会津と無縁では無かったんだ。骨を折ってくれたんですね。感謝します」
「榊家とは古い付き合いなんだ。私は山鼻屯田兵の四代目。もう一四〇年以上
の付き合いだ。安心して榊さんにお任せできるから…」
「婆ちゃんから…過去を恨んだり、呪ったりしてはイケナイ。恨んだり、呪っ
たりしたなら、それだけの人生しか送れない。前を向けなくなる…と言われて
います。俺はそれを座右の銘に据えています。だから俺は大丈夫」―
これは教科書への書き込みでは無い。陽大の評伝だ。陽大の文は流れが良い。
淀みがないから読み易い。読み易いと内容に惹きつけられる。でもこの書き込
みは読み手を意識していない。自分だけに自分に向けて書いている。
書き出しの西南戦争から何と云う展開。
…『強烈』を超えてしまった。想定していなかった『圧巻』…