ヤダ~。
また陽大を想っている。
走っている姿が浮かんでくる。
何かに夢中になっていないと何時もボ~ッと想ってしまう。
静かな時間がやって来ると決まって陽大に集中してしまう。
陽大は「俺と似ていると想った。共通する何かを感じたんだ。俺は恐らく捨
て子。それで我慢できなくなって声をかけた」と私と花南に言った。
「こんな話を聞いてしまったら花南の他にもう一人応援しなければならない」
美子の陽大への思慕はこの時から始まっていた。
陽大と花南の共通項は小っちゃい頃の不遇。
それも誰もが経験するような不遇ではない。
陽大と花南の強さは共通している。
『とにかく生きる』
『生きる為に全力を尽くすのを厭わない』
『全力を尽くさなければ自分らしく生きられない』
それが二人を結びつけている。私にはそれらがない。生きるって、ごく当た
り前の日常。花南の全力は五歳の時から幾度も目撃した。時として私も花南と
一緒に頑張った。一緒に頑張らなくても応援し続けた。それは大輔も同じ。
陽大の全力を私は知らない。知らなくても施設で育ち、暮らすを考えてみる
なら分かる。分からなければ愚か者。施設で暮らすとは保護と援助と補助の渦
中。そうでなければ施設は子どもを守れない。子どもの成長を保障できない。
それは規律を生み出す。施設の暮らしは規律との向き合い。ささいなことで縛
られる。就寝時間や起床時間。それと食事時間。テレビを観る時間も決められ
ている。それはテレビの番組にも及ぶ。観たい番組を観られないに慣れなけれ
ば暮らしてゆけない。規律に鈍感にならなければ暮らしてゆけない。
気に懸かって施設の暮らしぶりを調べた。小一になると園長先生から月々の
お小遣いが渡される。最初は五百円から。年ごとに増えて二千円が限度だった。
就学前の子どもたちに人気のアンパンマングッズの人形たちや多種多様のカー
ドつきのお菓子も買えない。遊び友だちが持っているのを眺めるだけ。それで
も同じ境遇の子どもたちに囲まれて生活できるのはある意味幸運。これが独り
ぽっちなら心がグレてしまう。みんなと違う自分の不遇に気づいてしまう。
陽大には心の乱れが感じられない。ごく普通に育ち、育てられてきた雰囲気
に包まれている。お小遣いひとつとっても欲しいものをなかなか買えないだけ
ではなく、当然その使い途をお小遣い帳に記入しなければならない。私にとっ
ては窮屈。何をしても「私の勝手でしょう」とは言えないのが規律。施設の子
どもは勝手して生きてゆけない。施設の外で子どもは生きられないから我慢を
当然として受け入れる他ないのだ。陽大の頑張りとは我慢。でもそれは眼に見
える範囲。本当の頑張りは身寄りのない、捨て子の自分を、如何に受け入れて
きたのかに尽きる。孤独の中の本当の孤独を噛み締めてモノ心がついてから生
きてきたのだ。その深層には誰も近づけない。花南でさえも近づけない。自分
が置かれた境遇を恨んだり、呪ったりは陽大には微塵もない。在るのは自分を
育ててくれた人たちへの感謝。今は両親への敬愛。私ならこうはゆかない。
私は今の私のままで施設に暮らせない。施設から飛び出し、逃げ出したとし
ても、子どもの私は何もできない。逃げ出して夜になって途方に暮れていると
見つけ出されて連れ戻される。子どもの脚と足ではそう遠くに行けない。
そんなことを何回か必ず繰り返す。そうしているうちに私は此処でしか生き
てゆけないと思い知る。一八歳で自立を余儀なくされて、仕事に就いて、独り
で暮らし始めるまで、言ってはイケナイと思い知った「私の勝手でしょう」。
美子は現実逃避とトモダチになった。
それが唯一残された今の私との接近。
現実が嘘で見ている夢が本当。
明日になれば何かが変わる。これは嘘。
嘘の現実は何も変わってはくれない。
夢は本当を見せてくれた。
ー私は白雪姫なの。毒リンゴを食べさせられて死んだ私を蘇らせてくれた王子
さまのKiss。私は王子さまと結ばれる。Someday my prince well comeー
私は歌を覚えた。
夢は歌に変わった。
ギターが音楽室に在った。
指導員の先生のギター。
先生は弾き方を教えてくれた。
コードも教えてくれた。
最初に覚えたのが『Someday my prince will come』
音楽室は夜の一〇時まで使えた。
トモダチが二人増えた。
歌とギター。
初めての本当のトモダチ。
歌とギターは嘘をつかなかった。
私は夢を唄った。
本当の私を唄った。
私は強くなった。
私には歌が在る。
私はワタシの歌を唄えるのなら此処で頑張れる。
一八歳には成りたくない。
一八歳は大人の入り口。
一八歳は旅立ち。
一七歳は子どもの最後。
此処を離れたくないな。
誰にも邪魔されないもの想いは悦び。
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