美子は書店で探していた顔を見つけた。
本の表紙に彼女の顔と全身が載っていた。
…病んでいる。彼女は病んでいる。眼の座り方が普通で無い。眉間の力が眸を
中央に引き寄せている。何時も一点を見つめてる。見えないものを見ようとし
ている。そうだ。彼女は二酸化炭素を見ているのだ。二酸化炭素が見えるのだ。
病まないと二酸化炭素が見えないのだ。私と同じもう直ぐ一七歳。かなり小柄。
発育不全に感じてしまう。きっと幼い頃拒食症に見舞われたのだろう…
ストックホルムに住む彼女は環境活動家と称されている。マスコミは頻繁に
彼女の活動を取り挙げ賛辞を送っている。それで彼女を知っていた。まともな
高校生ならばみんな知っている。賛辞を送っているのはマスコミだけでは無い。
地球温暖化を憂う団体から、彼女の活動に対して、例えばスウェーデンの国会
議事堂の前でのたった独りでの抗議の座り込み、そして金曜日の学校ストライ
キ(『Friday for Future』)を表彰した。他にも富裕層の慈善団体や個人か
ら多額の、それも五十万ポンド規模の寄付を贈られている。
彼女はノーベル平和賞に推薦されそうになると「私はもう賞はいらない。私
はもう充分に活動を評価された。欲しいのは大気から温室効果ガスの駆逐。少
なくとも世界中がパリ協定の遵守が欲しい」と辞退。
この辞退もマスコミは放って置かなかった。
西欧では彼女に共感したひとつの都市圏で一〇〇万人以上の学生が様々なス
タイルで地球温暖化に消極的な自国や先進国への抗議を行っている。それは複
数の都市圏で同時発生。そして継続した活動として定着している。日本では彼
女の活動への共感と支持はあまり広がっていない。声を挙げたのは一〇〇人ほ
ど。その活動はデモ。学校ストライキまで発展していない。それも単発的。継
続した抗議活動が定着していないのは日本のマスコミがヨーロッパに比べて取
り上げていないからでも在る。彼女を知らない高校生も多い。
私が彼女を知り、共感しても、「あらゆる手を尽くし地球温暖化を世界規模
で食い止めなければ私たちの未来は無い。私の未来を盗まないで」と叫ばない
のは、私には二酸化炭素が見えないからだ。温室効果ガスの充満を皮膚に感じ
ないからだ。病まないと見えず、感じ取れないのだ。
彼女は自らのアスペルガー症候群を「スーパーパワー」と言い切っている。
アスペルガー症候群は自閉症スペクトラムに分類されている。スペクトラムと
は連続する状態を意味する。要するに発達障害なのだ。自分が思い考えること
以外に興味も関心も無いのだ。だからこそのスーパーパワーなのだ。
アメリカを除くパリ協定に調印した世界の国々が協定を遵守したところで平
均気温は上昇する。パリ協定とは2030年までの平均気温上昇を産業革命以
前から1.5度未満に抑えるのが目標。1.5度の上昇では済まないとの研究発表
が相次ぐ。これが彼女の更なる活動の根拠となっている。手遅れの前に何とか
しなくては…。1.5度の上昇でも手遅れかも知れないのだ。平均気温1.5度の
上昇が何をもたらすのか…。勉強するならば直ちに理解できるのに…。
彼女への風当たりは強い。それはパリ議定書に調印して当面の任務を果たし
たと肩の荷を降ろしている政治家が中心。パリ議定書を取り纏める議場から「
地球温暖化はフェイクニュース」と言って派遣した代表団を引き上げさせたア
メリカの大統領もその一人。彼は都合が悪くなると「フェイク」と叫ぶ。
彼女の反論は痛快だ。
「家が燃えているのに何もせずにただ見ているだけ」
「学校に戻って勉強せよ」に対して「未来が無くなるのにナゼ勉強しなければ
ならないの。私は温室効果ガス。特に二酸化炭素を減らす勉強をしてきた」。
共感を強めたのが「永遠の経済発展は幻想なのだ」。
新型コロナの感染は全世界に広がっている。当然に経済活動は停まった。こ
れだけでも「永遠の経済発展」は怪しくなる。「永遠の経済発展」は二〇三〇
年には気温を1.5度以上も上昇させる。これは手遅れを意味する。北極の氷が
解け北極熊が絶滅。グリーンランドや南極の二千メートル以上の氷河が薄くな
り海面の上昇を加速する。国土が水没する国も出てしまう。海面温度の上昇は
異常気象を多発させる。異常気象の多発は既に現れている。
彼女は声を挙げていないが「貴方と貴女が無自覚に求めてきた永遠の経済発
展はコロナで止まってしまった。経済のダメージは計り知れない。パリ議定書
から逃げだした大統領が治める国の被害が著しい。そのお陰で二酸化炭素の排
出量が激減している。飛行機が飛ばない。走り回る車も激減。工場も稼働して
いない。電力の供給量も右肩下がり。どう、この辺りで新しい生活のスタイル
を作ってみては…。便利快適から不自由でも二酸化炭素を排出しない生活スタ
イルに変えないと…。コロナは長い間手をこまねいてきた人類に怒った神さま
の警鐘。それでもまだ永遠の経済発展を続けるのですか…。人類は北極に氷が
無くなった時に後悔するんですか…」と言いたいに違いない。
地球温暖化を阻止するには、二〇三〇年を笑顔で迎えるには、経済活動を変
えなければイケナイのだ。すなわち便利快適のあくなき追及を止めなければな
らないのだ。その原型がコロナに怯えた感染防止の今に在る。人類はコロナに
怯えていても、地球温暖化に怯えていない。何と云う鈍感。
彼女は恋とは縁遠い。恐らく初恋を体験していない。だから恋の悩みとは無
縁。関心が在るのは二酸化炭素と温室効果ガスの劇的削減。恋は、その目的の
延長上か、達成してからの雑事なのだろう。
彼女の主張と行動に共感しつつも、前のめりにならなかったのは、私には二
酸化炭素が見えなかったからだけでは無い。温室効果ガスを皮膚で感じ取れな
かっただけでも無い。彼女の本の表紙の写真に嫌悪を覚えてしまった。その瞬
間に体重がつま先から踵に移った。私に似ている。身体つきは違うけれど、私
が怒りを抑え切れなくなったり、答えが見つからず苛ついている時の顔つきに
似ていた。そんな時は誰も近づいて来ない。大輔は勿論、花南でさえも。私は
あの表情を周囲に振りまいていたんだ。独りだけの時に許される表情なのに。
陽大にもあの表情を見せていたのかも知れない。だったら嫌がられる。
これが彼女への熱を冷ました。
すべては美子の心の裡に在った。
日々強まる陽大への恋慕を弱めたいと、夢中になれるものを探している途中
に彼女に出逢っただけだった。彼女への共感は確かだった。しかし共感に至る
までの動機が自分勝手。彼女への共感が、これだけは譲れないとする、心の中
の塊にならなかった。前のめりになったとしても私は彼女に乗っかっているだ
けの女止まり。なのに陽大の塊は日増しに大きくなってゆく一方。止めようが
無い。彷徨っている私の魂。しかし止めようにも止められない。
美子の表情は本の表紙に近づいてしまった。
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