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現在の支援総額

18,000

1%

目標金額は1,000,000円

支援者数

4

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2021/04/05に募集を開始し、 4人の支援により 18,000円の資金を集め、 2021/06/04に募集を終了しました

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 瀧上(たきのうえ)家では、男子が誕生すると、代々お爺さんが『海』を、ひと文字入

れた名を付けた。家系図には嘉蔵から四代目の男子に『海人』とある。以降、瀧上家の男

子は全員が『海』を有する。

 瀧上家の家系図は嘉蔵以前と以後に分かれている。嘉蔵が瀧上家を存続の危機に陥れた

からであった。それでもお家断絶を免れた。

 嘉蔵から数えて十六代目の海彦の父は海太郎。祖父は海之進。曾祖父は海翔。高祖父は

海市。言い伝えでは、嘉蔵の跡を継いだ蔵之介が、孫に『海人』と名づけてから、男子の

命名権はお爺さんに属した、と云う。

瀧上家の窮地とは嘉蔵がイスパニアから戻らなかったことに起因する。

 一六一三年一〇月二八日。伊達政宗の命を受けた支倉常長はイスパニアに向けて牡鹿半

島の付け根の西に位置する月の浦から船出した。政宗の命とは伊達藩とイスパニアの通商

の実現。家康もそれの後を押した。通商とは交易。交易とは主に貿易である。

 ここでは戦国武将である政宗の野心と家康の魂胆には触れない。

 嘉蔵の剣の凄味は藩内でも定着していた。それで藩の道場では師範を務め、四十四俵の

蔵米取りであった。これは知行地取りの五〇石に相当する。

 嘉蔵は剣に満足せず銃の改良に取り組んだ。単発でしか発射できなかった火縄銃の連発

に挑んだ。やがて銃身を二本備えた銃を製作。難点は銃身の重さ。それでも画期的な銃で

あった。これにより政宗から百石の知行地を与えられた。

 それから一〇年。支倉の打診を快諾した嘉蔵により瀧上家は百五〇石に。


 ここで当時の百五〇石の価値を述べてみたい。

 一石とは成人男子が一年間に消費する米の量を表わしている。明治に入ると一石は二.

五俵と定められた。一俵は六〇キロ。一石は一五〇キロ。一日当たり約四一〇グラムの米

を食べる勘定。一合は一五〇グラム。一日の米の消費量は二合半と少し。米は炊くと三倍

の量になる。茶碗で七杯余。昔も今も一日七杯余の御飯を食べる人は少ない。ここでの米

は玄米を指す。江戸時代の人々の多くは年に数回の祝い事以外は玄米を炊いて食べた。み

んな玄米の栄養価を知っていた。

 当時の平均的家族構成は、爺・婆・家長・妻・家長の兄弟姉妹二名・子供四名(子供は

二人で一名と換算)の八名。八名の年間消費量は八石。家来が三名だと二四石。当主の家

を合わせると三十二石が年間の消費量となる。

 百五〇石の知行地取りは多くて四〇%。伊達藩では三五%が標準。五二.五石が瀧上家

の実高であった。家族の消費と家来分を差し引くと二〇.五石が食費を除いた可処分所得。

これを銭に変えて米以外を賄った。現在の生産者平均米価(六〇キロ単価一三〇〇〇円)                                                            で換算すると六六六二五〇円。これが瀧上家の自由に使える金員であった。 

 発展途上と雖も、商品経済が未発達な、自給自足が色濃い江戸時代初期の仙台。米以外

の生活必需品の物価は現在の一〇分の一以下。瀧上家は農民町人から羨まれる、何ひとつ

不自由がない、恵まれた暮らしぶりであった。


 嘉蔵は連発式火縄銃に満足せず、火縄銃そのものの改良を追及した。火縄銃には様々な

弱点があった。それを克服するならば主君は天下を獲れると考えた。

 雨に打たれると使いモノにならない。一発撃つ度に銃身の先から調合した火薬を流し込

む。次に弾丸をこめる。それらを棒で固め定着する。弾ごめに熟練した者でも二〇秒余を

費やす。この作業も雨に極めて弱い。雨粒がひとつ入り込んでも不発に終わる。更に銃身

に施状溝が刻まれておらず弾道が安定しない。連射すると熱により弾道が伸びてしまった。

 嘉蔵は弱点の克服には、火縄による着火を捨てなければならぬ、と気づく。火縄を捨て、

新しい方式を造り出すのは簡単ではない。銃身を二本装着するのとは訳が違った。

 薬莢を造り、そこに火薬と弾丸を詰め、固定する。薬莢の底に打撃を加えて発火発射す

るを思いついた。その他にも銃身の内側に螺旋状の溝を彫り、弾丸の軌道を安定させる。

 連発を可能にする方法は円柱状の弾倉を作り、それを回転させる四連発を考案した。現

在のリボルバー銃である。リボルバー銃は発射すると自動的に弾倉が回転するが、嘉蔵は

一発撃つ度に手で回した。手で回したとしても連発銃としては充分。

 嘉蔵は薬莢と弾丸の開発に取り掛かった。それまでの円球の弾ではライフリングを彫っ

ても回転が上手くかからない。彫り方の微妙な違いで銃に癖が現れた。野球の投手に例え

るなら、綺麗な回転の直球にならない。ある銃は右に曲がり、別の銃は左に反れた。それ

と完全なる円球を大量に作るのは無理。少しずつ円球に狂いが出た。弾丸によっても軌道

に違いが出た。実験結果は施状溝の乱れを正し、弾丸の形状を変えろと諭していた。

 嘉蔵は試行錯誤を繰り返し、円柱の胴の先をすぼめ、尖らした現在の弾丸の形状に辿り

着いている。薬莢にこめる火薬の調合はこれまでの経験値で問題がなかった。

 弾丸の固定は薬莢の内側に膠を用いた。暴発の回避に必要な条件は熱を与えない。衝撃

を加えない。弾丸の保管と移動には鉛を伸ばしケースを作った。緩衝材には和紙。

 最後の難関は薬莢。撃鉄で薬莢の底を打っても発火しないことが多かった。不発弾が山

と積まれた。まだまだ完成には遠い。遠くとも、此処までくると、あと一歩。

 嘉蔵の試みはイノベーターではない。発明家であった。しかし嘉蔵はここで追及を止め

てしまった。瀧上家に残る『火縄捨去候也』には追及を止めた経緯は記されていない。数

多い図面と実験の結果。それと嘉蔵の感想が細かく書かれていた。           


 政宗の戦略は、戦わずして勝つ、であった。それで勝つ方に就いた。仙台は小田原にも

大阪にも遠い。政宗は情報網を張り巡らし戦さの趨勢を分析した。参戦の遅延を責められ

ると政宗は遠方を大いに活用した。

嘉蔵は足軽十五名を率いて、小田原に参戦しているが、彼の武功は聞こえて来ない。二

連発銃の威力効果も残されていない。小田原の秀吉の下に到着した時には北条が滅びる寸

前であった。北条氏政は政宗の加勢を唯一の拠り処として秀吉に屈しなかった。しかし政

宗は秀吉に就いた。氏政は降伏。切腹。北条は途絶えた。遅れに遅れた政宗の小田原への

参戦は政宗の政治判断。機を窺っていたのである。

 政宗は関ケ原には参戦していない。政宗は家康に命じられ、上杉景勝と戦い、上杉の関

ケ原への足を止めた。その時、嘉蔵は別動隊として相馬藩に侵攻した。ドサクサに紛れて

の領地拡張を企てた政宗の策謀。かつて相馬は政宗の領地であった。関ケ原を終えた家康

は政宗の動きを知る。二度の大阪でも政宗はまともに豊臣と戦っていない。それで伊達藩

の武功は無きに等しい。政宗の戦略は適中するも秀吉も家康も不信を強めた。

 家康の時代が始まると戦さが起こらなくなった。それで嘉蔵は四連発銃の開発を止めた。

その後の彼の活動を鑑みると、そう考えるのが穏当であろう。


 嘉蔵は家督を蔵之介に譲り隠居した。隠居してから広瀬川の治水に乗り出した。

 北上川の河川切り替え工事は既に始まっていた。石奉行が担った。工事の全容を知ると

嘉蔵は「これでは急流の北上川は再び氾濫する」と断じた。しかし「申すに及ばず」と胸

中に留め置いた。計画変更を申し出るには遅かった。工事には政宗の是が下っていた。

 一方、広瀬川は手付かず。広瀬川は仙台平野をゆっくり流れる穏やかな川。このゆっく

りと穏やかが厄介であった。急流の洪水は被害甚大でも復旧への着手が早い。水の引きが

早いからである。広瀬川は氾濫すると一ケ月以上も水が引かなかった。

 政宗は嘉蔵の『広瀬川治水建白之儀』に是を申し渡した。

 嘉蔵は測量器を作った。地面の高低差を読み取れる単純な造りであったが、大いに役立

った。計測できない距離は縄と歩測で補った。

 嘉蔵は広瀬川流域の荒れ地に眼を付けていた。荒れ地とは低地の氾濫原。おまけに湿地。

此処に蓄えられた水を海に流すなら耕せる。嘉蔵は広瀬川の右岸に一本の水路を考えた。

左岸には溜池を五つ。湿地に暗渠を埋め込み水路と溜池に通した。堰には水門を設け、増

水時には水門を開き、盛り上がる水を海に流した。広瀬川は治まり、湿地は二年で乾いた。

 乾いた氾濫原の土壌は豊か。田圃に向いている。これは弥生時代からの知識であった。

三年目の秋には実りをもたらした。水路は運河としても活用できた。湊に陸揚げされた荷

を陸地の奥に運ぶのに大いに役立った。

 堰に備えた水門が嘉蔵の工夫だった。水門は大人一人の力で開閉できた。歯車の応用。

 測量器の使い方、それと治水土木工事の設計図も『広瀬川治水顛末記』に残っている。

そこには「黒鍬衆に任せておけない」との嘉蔵のいち文が添えられていた。

 伊達藩の石高は公表六十二万石。それを豊作時の実石高が百万石に達するまで増やした

のは嘉蔵抜きでは語れない。伊達藩は前田の百二十万石・島津の七十二万石・越前の六十                                      

七万石・尾張の六十三万石の石高に次いで五番目。実石高では島津・越前・尾張を凌駕し

ていた。それでも徳川の外様。外様とは幕府の使役が多い。政宗の戦略の帰結でもあった。


 嘉蔵は広瀬川を終えた時に足軽頭の支倉常長からイスパニア行きを打診された。ここで

の打診とは命令と同じ意味を持つ。イスパニアへの船出は地球を半周する行程。帰路を合

わせると一周分に相当する。何時、帰れるか分からない。生きて帰れないかも知れない。

 それまでに西ヨーロッパに渡った日本人は一五八二年の天正遣欧使節団だけであった。

九州のキリシタン三大名の名代として少年四名がバチカンを表敬訪問。一五九〇年に帰還                                     

している。四名が見知った西ヨーロッパは日本に広く伝えられていない。秀吉が情報を独

占してキリシタンとポルトガル・イスパニアの植民地政策の分析に充てた。

 嘉蔵には太平洋と大西洋を渡る船旅とイスパニアは未知であった。未知故に彼は死を覚

悟した。そして支倉に快諾を告げた。家族にも死を覚悟と伝えた。自分は隠居の身。死ん

でも蔵之介が家を護る。嘉蔵は後ろ髪を引かれることなく、月の浦に停泊されているサン

・ファン・バティスタ号に家来の与助と乗り込み、遠ざかる仙台を見おさめた。



■近未来のお届けはひと先ず終了です。僕のもうひとつの追及課題である「スペインと日

 本の繋がり」の『アンダルシアの木洩れ日』と『スパニッシュダンス』の抜粋を始めま

 す。ご期待下さい。



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