—わたしには心配がひとつある。佐々木薫子に注意して。彼女は性悪女の眼をしている。
同じクラスに佐々木薫子と似た眼をしている女の娘が居る。名前はイザベル。彼女は人の
ものを獲るのが好きみたい。クラスの娘が付き合っていた他の高校の男子を誘惑して獲っ
てしまった。獲るのが目的だったから獲った後はその男子をポイと捨ててしまった。海彦。
油断したらダメ。佐々木薫子は突然現れて来てにじり寄ってくる。それを繰り返す—
カトリックの女子高校は敬虔が校風。日本ではそうだ。スペインは違うのかも。イザベ
ルの乱れ方は日本の女子高校生と変わらない。佐々木薫子が、俺を誘惑して、自分のもの
にして、それから俺をポイ捨てする。海彦にはどうにも現実的には思えなかった。
佐々木薫子には付き合っている奴が居る。一学年上の陸上部の男。これは周知の事実。
先ずはそれを伝えなくては…。それを知ればマリアは安心できる。
—マリアへ。佐々木薫子には付き合っている男が居る。だからマリアは心配しないで欲し
い。イザベルのことは分からないけれど佐々木薫子はイザベルではないから—
十五分後にメールが返ってきた。
—海彦は甘い。女の娘を知らなさ過ぎる。普通の女の娘なら付き合っている男子が居たら
他の男子を誘惑しない。性悪女は稀にしか居ない。稀な性悪女は付き合っている男子が居
ても関係ない。自分の望みを遂げるまで追及する。その結果、付き合っている男子と別れ
ても構わないと考える。そこが恐ろしい処。わたしの学校ではイザベルがチャンピオンだ
けれど似たような女子が二、三人居る。みんな大人びていて男子の眼を惹く美人揃い。み
んな自分の女に自信を持っている。佐々木薫子は恐ろしい女。警戒を怠らないように—
女の娘とは男と別の部類に入る生きものなのかも知れない。そのチャンピオンが佐々木
薫子。そうマリアが言っている。男子は付き合っている女の娘が居たら他の女子を誘惑し
たりはしない。それをマリアは甘いと言い切った。これはかなりヤバイのかも。佐々木薫
子は同じ一七歳なのに大人の色香を漂わせている。スタイル良し。顔良しの美人。それで
迫られたら男子はみんなイチコロ。俺もマリアが居なかったらイチコロに殺られる。
海彦が決めた方針は、佐々木薫子の半径一〇M以内に入らない、近づかないだった。そ
うしている間に三学期が終わり春休みに入る。休みの間は曲創り。曲創りを部長に伝える
なら部活も休める。佐々木薫子と対面しなくとも済む。
俺は佐々木薫子への警戒よりも曲を創らなければならない。それでも警戒を怠ってはい
けない。警戒を続けていると自分のペースが狂ってしまう。どうにも曲に集中できない。
海彦は何時も周囲の様子を窺っていた。佐々木薫子が居るのか、居ないのかを注視して
いた。こそこそ逃げ回っている臆病者状態だった。
海彦は方針通り部活を休んだ。佐々木薫子は隣のクラス。授業で顔を合わせない。気を
つけているのは登下校と昼休み。マリアの言う通りならこの時間帯が最も危険。
海彦はイジメに合い、怯えているような自分が情けなかった。
ようやく三学期が終わった。これで佐々木薫子から解放されると、肩の力が抜け、家に
向かった。これで曲に集中できる。門の左側の通用口の戸を開けようとした時に「お帰り
」。女の声がした。振り返ると佐々木薫子が立っていた。
「部活に出て来ないし身体の具合が悪いのかと心配になって来てしまった。迷惑…」
「俺は元気だ。部長に少しのあいだ休むと言ってある。ここで待っていたの…」
「うん。待たないと新学期が始まるまで海彦に逢えないから」
海彦はマリアの予言の『突然』を思い起こした。『突然』の後は『にじり寄る』も。ど
のようににじり寄ってくるのか。好奇心も。
「ねえ。お茶しない。一時間も立っていたから冷えちゃった」
「だったら俺の部屋に来いよ。友達に風邪ひかす訳にはゆかない」
「家に上がるのは止す。だって恥ずかしいもの。私が帰った後に海彦は『あの娘は一時間
も門の前で待っていた』と家族に言うから」
「そんなことは言わない。でも分かった。『長町』にでも行こうか」
「うん」
佐々木薫子は寒そうに肩をすぼめ、手袋に息を吹きかけていた。
海彦には佐々木薫子がいじらしく映った。
俺は約束もしていない女の娘を一時間も待てない。外は寒い。風が強い。
佐々木薫子が両手でココアを抱え微笑んだ。
「ワタシ。三学期が始まった時に海彦に告白しようと思っていたんだ」
佐々木薫子は海彦の表情を読み取ろうと上眼つかい。
「えっ。ナニ。それ」
海彦はココアで舌を火傷した。熱かった。慌てて水を含んだ。ジンジンする舌先の痛み
で『にじり寄り』を一瞬忘れた。
佐々木薫子は海彦の動揺を面白そうに見つめている。
「陸上部とは別れた。冬休みに入ってから直ぐに」
「どうして。似合いのカップルと俺もみんなも思っていた」
「彼は受験。大学の陸上部から推薦を得られなかった。それでガックリしちゃってさ。陸
上をやめると言い出したんだ。なんかつまんなくなった」
「そうなんだ。男はこうやって捨てられるんだ」
海彦は皮肉を込めた。
「弱虫は嫌いなの。頭の中がハムストリングな彼が陸上やめたら気持ち悪い」
「気持ち悪いのか。そう言うもんなんだ」
「海彦はマリアと付き合っているの…」
「付き合っている。でもマリアが仙台に住んでいて仲良くしているのとは違う。遠距離に
しても遠すぎる。家族ぐるみでもあるんだ。それで少し複雑」
「海彦はマリアを好きなの…」
「好きだよ。逢いたくても逢えないから複雑。逢いたいと思わないようにしてる」
佐々木薫子は海彦とマリアの関係に探りを入れ、想い描いていた通りの情況に、切り出
すのは今とばかりに言った。それも自然に、さりげなく、想いが伝わるように言った。
「それは辛いね。ワタシには逢いたい時に逢えるよ。これがワタシの告白」
海彦は上眼つかいの女には注意しろとの鉄則を知らなかった。無理もない。
「ワタシのこと嫌い」
「嫌いじゃない。今は曲を創りたいんだ。集中したいんだ」
「ワタシ。打ち込んでいる人が好き。秋の学校祭で海彦は篳篥とロックのコラボをやった。
あの時にグッときてしまった。それから好きになった」
「上手くゆくか心配だったけれどバンドと和楽器の相性が良さが分かった」
佐々木薫子は頓珍漢な海彦の応えを無視した。攻め処を知ってた。
「マリアとやったの」
海彦は狼狽した。落ち着きを喪った。何と答えて良いのか、何も浮かばない。
佐々木薫子は上眼つかいのまま。
「やってないのね。ワタシとやっていいのよ。今日は驚かせてゴメンね。待っている」
佐々木薫子はココアの代金をテーブルに置いて立ち上った。テーブルには携帯の番号が
書かれたメモが置かれていた。海彦は顔を上げ、佐々木薫子の後姿を追った。店から出よ
うとした佐々木薫子が振り返った。眼線が合った。
佐々木薫子の怪しい眼線を浴びた海彦は固まってしまった。
「ワタシ。待っている」と佐々木薫子は呟いた。海彦にはその呟きが聞こえた。
佐々木薫子の姿が見えなくなると海彦はメモを携帯に登録した。
海彦は動揺を隠しきれないまま帰りの道を歩いた。歩みは蛇行。
これが佐々木薫子の本性なんだ。マリアが居なかったら、マリアの警告がなかったら、
俺は明日にでも連絡してしまう。本当にイチコロの俺。しかしマリアが居なかったら佐々
木薫子は俺を待ったりしない。告白もしない。「ワタシとやっていいのよ」とも言わない。
俺はモテた訳ではないんだ。他人のものを欲しがる彼女の標的になっただけなんだ。
恐ろしい。だいたい「ワタシとやっていいのよ」と誘惑するJKが存在するなんて夢に
すら登場しない。きっとイザベルも佐々木薫子のような女の娘なんだ。
部屋に戻っても海彦の興奮は鎮まらない。曲創りへの集中は何処かに飛んで行った。繰
り返し湧き上がってくるのが「ワタシとやっていいのよ。待っている」。これを振り払え
ずにベットに転がったり、部屋の中をうろついていた。
もし俺が佐々木薫子とやってしまったらどうなるんだろう。そう想った瞬間に俺はただ
の助平男かとの疑念が湧いた。いやいや、やるとは言っていない。やった先の想定だ。
佐々木薫子は俺を意のままに篭絡した先を考えているに違いない。俺が最も恐れるのは
マリアに知れること。ならば何らかの方法でマリアの居所を調べている。日西友好協会の
事務局にマリアに手紙を書きたいと申し出ると住所を教えてくれる。きっとそうだ。既に
マリアに手紙を書く準備を整えている。何て女なんだ。
迂闊だろうが、でき心だろうが、助平心だろうが、やったら必ずマリアが知る。知った
らマリアは俺を軽蔑する。今までのように仲良くできなくなる。バンドもできなくなる。
そればかりか絶縁もある。それを見届けた佐々木薫子は俺を捨てる。俺の前から姿を消す。
ここは俺の絶体絶命のピンチ。
佐々木薫子から「やってもいいのよ」と言われたら男なら誰もがやりたくなる。それは
間違いない。俺もやってみたいと思う。それを彼女は知っている。自分の最大の武器と知
っているから言葉に出して誘惑する。これはポイ捨てに向けた、かどわかしだ。
俺はまだ女とやっていない。何時か、何処かで、誰かと、自然に結ばれると想っている。
佐々木薫子とは自然ではない。自然でないのは彼女の動機が不純だからだ。
俺は佐々木薫子の欲望の餌食にはならない。
海彦は佐々木薫子の携帯番号登録を削除した。設定を登録者以外非通知に変えた。
一週間後。海彦にショートメールが届いた。
「イクジナシ 薫子」。