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現在の支援総額

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目標金額は1,000,000円

支援者数

4

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2021/04/05に募集を開始し、 4人の支援により 18,000円の資金を集め、 2021/06/04に募集を終了しました

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※本日から『スパニッシュダンス』の「ホタテと瓢箪」の抜粋を掲載

 する予定でした。そうこの活動報告で予告しました。しかし考えま

 した。4/12のリターンの見直しと同様に考えました。このプロジェ

 クトの終了まで後僅か。「ホタテと瓢箪」を載せても回数が一〇回

 未満。満足に伝えられないとの懸念で考えました。

 結論は『未来探検隊』の抜粋で載せなかった七人の侍たちの評論の

 五つを載せるのと仲美子の宿題二つ。僕の持ち味は「小説内評論」

 と書いておきながら持ち味の未掲載では何とも中途半端。未掲載は

 ひとつひとつの評論の枚数が長く読者を困惑させるとの遠慮でした。

 プロジェクトの終わりに差し掛かり…やはり持ち味を載せなければ

 と思い直し、決断しました。


※予告と違う内容となり申し訳ありません。ご容赦下さい。



■ 宮本顕治(石丸明)

 一二年前の七月十八日。宮本顕治が死んだ。訃報に接した時に、

これで戦後が終わったと思った。この時に思った私の戦後とは敗戦

直後の混乱と混沌に広がった闇であった。

   この闇の中で生き抜いた最後の者が宮本顕治だった。

 闇市が至る処に作られ人々は依存した。朝鮮特需を経て、五五年

体制成立まで闇は続いた。闇の中は無秩序。何が起きても、起こっ

ても不思議はない。無秩序の中にも秩序が形成される。強い者が力

づくで秩序を作った。力づくとは金と暴力。モノを集めた者がのし

上がった。モノを集めた者にはカネとヒトが集まる時代だった。

 モノを集めてのし上がった男の典型が小佐野賢治。

 宮本顕治はヒトを集め、党の活動資金の基盤を造った。それが『

赤旗』である。『赤旗』の売り上げで共産党は政党助成金の受け取

りを今も拒否している。延べ二十四年の拒否。推定累計で三七〇億

円。これだけでも支持率が上がっても良さそうなのだが…。

 二人のケンジは敗戦後直ぐに暗躍。地歩を築いた。二人のケンジ

は左右の巨頭。宮本顕治は、一九五八年から共産党の書記長を務め、

以降四〇年も党を率いてきた。

 顕治が党内の権力闘争に勝ち抜いたのは結果から分かる。権力闘

争とはその渦中に居る者しか分からない。権力闘争は右でも左でも                           

常に闇の中。それでも共産党史を紐解くと闇が見えてくる。

 一九五〇年。コミンフォルムが、『日本の情勢について』を発表

し、野坂参三の占領軍解放軍規定を批判した。当時の日本共産党は

平和革命路線であった。コミンフォルムはこれも批判した。

 これが共産党の内部分裂の始まり。

 これを受けて日本共産党指導部は『「日本の情勢について」に関

する所感』を発表してコミンフォルムに反論した。しかしこの所感

は中国からも批判され、これが決定打になった。日本共産党はコミ

ンフォルムの批判を受け入れる他、路を閉ざされてしまった。

 翌年。日本共産党は武装蜂起路線を採択。数々の事件を起こした。

それで共産党は国民の支持を喪った。一九五二年の衆議院選挙で惨

敗。一議席も獲得できなかった。五三年の参議院選挙でも同じ。国

民に「共産党は恐い」が定着してしまった。

 一九五五年に武装蜂起路線を左翼冒険主義と総括せざるを得なく

なり、それは現在まで続く。日本共産党は武装蜂起を四年余り続け

ていた。一九五〇年当時宮本顕治は党の中枢では無かった。党の実

権は野坂参三・徳田球一・志田重男・伊藤律が握っていた。コミン

フォルムからの批判に顕治は、受け入れるべし、との立場を取った。

しかし武装蜂起には反対した。顕治がコミンフォルムの批判の背景

に在ったスターリンの思惑を掴んでいたかは分からない。

   スターリンの思惑とは『朝鮮戦争に際して日本共産党二〇万人。

後に朝鮮総連に結集する在日朝鮮人三〇万人が武装蜂起したならば

アメリカ軍に動揺が広がり朝鮮への出兵もままならなくなる』。

 一九五三年七月二七日。朝鮮戦争休戦。

 所感派の党の指導者は武装蜂起路線採択と同時に中国に逃げてい

た。『北京機関』を造り、そこから武装蜂起を指導していた。この

指導者の敵前逃亡は後の顕治に有利に働く。

 宮本顕治は平和革命と自主独立路線を敷いていた。共に今日まで

続く。一九五五年から顕治は壊滅状態に陥った党の再建に奔走する。

この再建の過程が顕治の党内権力闘争である。『北京機関』との闘

い。『北京機関』のシンパシィー勢力との闘いであった。これに勝

利。対峙する者たちが国外だと国内の力は削がれるものだ。


 対して小佐野賢治はフィクサーに徹していた。国際興業の社長で

ある以外、日本人のほとんどが知らない。知らせていない。財界人

としての活動もない。国際興業とは『ポルシェ・BMW』の輸入販

売会社。賢治が所有するタクシー会社も東京大手四社の一角。これ

らはほんの一部。略歴を調べると敗戦直後に進駐軍相手に商売を始

めた。進駐軍からモノを得た。それが後年の基盤になった。運輸・

観光事業に力を注ぎ不動産取引にも辣腕を発揮。ゴルフ場やホテル

も数多い。それは日本国内に留まらずハワイやラスベガスにも及ん

だ。その裾野は見えないほどの広がり。徹底しているのは三次産業

への特化。彼は事業再生にも取り組んでいた。破綻寸前の運輸交通

を再生させていた。彼の特徴は不採算部門の廃止と労働者の首を切

らない。これだけでも大した御仁。フィクサーとは世間に姿を見せ

ない。見せずとも右を束ね、執り仕切っていた。


 政党助成金の発端となったのがロッキード事件(一九七六年)。

   小佐野賢治は国会に証人として喚問された。テレビを通じて多く

の国民が生顔を初めて観た。闇が広がっていた時代なら小佐野は喚

問に応じなかったであろう。貸しがある議員たちを使って握り潰し

たであろう。追及する野党の狙いはロッキード社と田中角栄の仲介

者である小佐野賢治をテレビに晒す。そして言質を取る。

「記憶にございません」

 小佐野賢治はこれで押し通した。追及した野党の議員たちは記憶

の蓋を抉じ開けようとはしなかった。これが闇に君臨する者の力。

当時流行語大賞が存在していたならば「記憶にございません」は間

違いなく一位に輝いたことであろう。

 小佐野賢治のもうひとうのエピソードは浜田幸一とのラスベガス

(一九八〇年三月六日)。此処で浜コウは敗け続け、喪った金は四

億六千万円前後。この金は小佐野の金だった。常人ならばここまで

敗け込まない。途中で我に返る。自分の金でなければ尚更。ここが

ある意味、浜コウの凄い処。自分の金でなければ、まして小佐野の

金ならと思い、敗けに負けた。賢治は博打に手を出さなかった。泰

然自若として浜コウが何時辞めるのかを見つめていた。やはり大物。

それを外遊の一行の誰かがリークした。リークした者は特定できな

い。それをマスコミ各社が報じ話題になった。

 それで私も知った。


 浜コウは若い頃、児玉誉士夫の処に住み込み書生として三年弱を

過ごしている。それから小佐野賢治の下で一〇年もの間、不動産取

引を学んでいた。よもや浜コウは小佐野の下で博打の敗け方を学ん

だのではないと思うが、浜コウは親分の数え切れないほどの資産を

知っていた。それで敗けに負けたと思って止まない。大金持ちとは

己の資産を数えられない。数えられる金持ちはただの金持ちに過ぎ

ない。親分にとって四億六千万円は大した金ではない。これが浜コ

ウの本音だったのではなかろうか。

 その後、浜コウは衆議院予算委員会の委員長に任じられた(一九

八八年)。この予算委員会は数ある委員会の中で最も重要。その質

疑の時の出来事だった。共産党の議員の質問の最中に、独り語り始

め、周囲の制止に耳を貸さず、止めなかった。「宮本顕治は殺人者

である。小畑達夫スパイ査問事件で懲役刑を受けている」。ここか                           

らが始まり。共産党の武装蜂起事件についても語る。「共産党は信

用できない。今は民主主義路線を標榜しているが何時変わるやも知

れぬ」。浜コウはこれを繰り返えした。

 議場もテレビも視聴者も驚いた。

 激怒する共産党議員。

 この場違いな公の議場での発言により浜コウは政治生命を閉じた。

如何に常人とは異なる浜コウでも自らの発言による自らの顛末は予

測できたであろう。しかし堂々と最後まで語り続けた。                          

 この時、宮本顕治は党の要職に在った。一九九八年に委員長を辞

すまで共産党の表看板。長年表に出ていたとしても、顕治の本心は

表に出たくなかったと思う。しかし党内事情が許さなかった。共産

党委員長の時代でも国会議員に立候補せず批判を浴びている。表に

出たくなかったのはスパイ査問事件の過去と私は睨んでいる。時間

の経過と伴に、多くの人の記憶が薄れ、敗戦前の不可抗力として終

わっているのが現実のようだ。確定した罪名は傷害致死・監禁・治

安維持法違反・死体遺棄の併合罪による無期懲役。

 それらを何の脈絡もないまま浜コウが白日の下に晒した。白日の

下に晒すとは記憶を呼び起こし、知らなかった者に知らせ、記憶に

残す。浜コウが自らの意志で政治生命を独り語りに賭けたとは到底

考えられない。委員長は誰かに発言を求める必要がない。発言しよ

うと思えば何時でも可能。浜コウは誰かに言わされた。しかしすべ

て闇の中。浜コウには四億六千万円の借りが在った。

 小佐野賢治が死んだのは一九八六年。早死にだった。六九歳。

 私と同じ歳で死んだ。


 私は軍部が戦争中も非転向を貫いた宮本顕治を生かし続けた理由

を考えた。獄死が当たり前と考えていた。軍部にとって獄死は闇か

ら闇に葬り去る好都合。しかし私に結論は出なかった。顕治は幸運

だった。網走監獄での冬を迎える前に特赦で出獄した。

 一九四五年一〇月に顕治は晴れて娑婆に出た。

 顕治は生還したのだ。

 既に非転向の顕治は神格化されていた。

 一九五五年からの党の再建は顕治に託された。

 顕治は党内の政敵を排除。共産党は合法組織として延命した。し

かし民主主義の下で権力を握るには至っていない。政権を握るには

選挙で勝利しなければならないが国民の支持率は低い。近年の最高

支持率は四.二%(一九七三年)。最低となると一.三%(二〇〇

三年)。平均では二%辺り。公明党の下に甘んじることが多い。好

かれていない。今のところの政治的存在意義と役割は批判のみ。


 網走監獄に向かう時に志位委員長が三越前で街頭演説するとビラ

が撒かれていた。私は物見遊山で三越前に出かけた。志位委員長は

顕治の長男太郎の家庭教師だった。共産党でも東大出でなければ出

世できないようだ。彼の演説は眼を見張るものではなかった。相も

変わらず政権与党の批判。自分たちの主張が正しいと。魂を揺さぶ

る内容では無かった。演説は聴衆の気持ちを鷲掴みしなければ記憶

に残らない。小泉進ニ郎の方が上だった。

 驚いたのが動員された者たちだった。風采の上がらない、うらぶ

れた老人ばかり。身なりが良くない。貧民の集団が三越前のスクラ

ンブル交差点付近に集っていた。彼等は、ありがたそうに、志位委

員長の声に耳を傾けていた。中には手を合わせる老婆も居た。                         

 この光景を顕治が観たならば何を想うのだろうか…。

 網走監獄から戻ると私は『敗北の文学』を中央図書館から借りて

読んだ。一九二九年八月の『改造』の懸賞評論で一位に輝いた。二

位が小林秀雄の『様々なる意匠』。前から気になっていたが『敗北

の文学』を読まなかった。今回は供養を兼ねて読もうと決めた。


―「文人」という古典的な文学に相応しいとされていた芥川氏の住

んでいた世界は、永い間、私にとってかなり縁遠いものに思えてい

た。この作家の「透徹した理智の世界」に、私は漠然と繊細な神経

と人生に対する冷眼を感じるだけであった―


 これが二十二歳の顕治の書き出し。

 芥川龍之介の自殺はブルジュワ文学の末路、限界と評し『敗北』

と綴ったが意外にも面白かった。一気に読んだ。プロレタリア文学

の対極に位置する芥川龍之介のブルジュワ文学を教条的に切り刻ん

でいると予測していた。これが読むまでに至らなかった私の理由。

その時に、ひょっとして私の想い込みは間違っているのでは、との

懸念もあった。もし私の想い込み通りなら『様々なる意匠』を抑え

て一位になれない。私は四五年前に『様々なる意匠』を読み、評論

とは、かく在るべき、と思わされた。…評論とはついに己の懐疑的

な夢を語ることではないか…が書き出し。私は膝を叩いた。今は評

論を書く作家が居ない。懐疑的で在っても、無くとも、夢を語る評

論自体が存在していない。埴谷雄高・吉本隆明・江藤淳が最後。

 執筆当時の顕治は己の夢に懐疑していない。プロレタリア文学の

未来と革命にすべてを賭けようとしていた。『敗北の文学』の執筆

の頃はプロレアリア文学運動の興隆期。


―社会を変える気がないのに、社会に対する批判的な態度が、必然

的に自滅や停滞を招く。芥川の冷眼は自分にも向けられる。それが

「将来に対する漠然とした不安」。そして自ら命を絶った。これが

敗北。社会的な意識を持ち、社会を変える意識を持った生や文学が

敗北を乗り越える―以上が私の理解。


 プロレタリア文学は『革命的リアリズム』を根幹に据えている。                           

『革命的リアリズム』は主人公が困難や試練に遭遇しつつも克服し

てゆく過程を丁寧に描き、革命への自己変革を成し遂げる。

 ゴーリキの『母』は今、読んでも感動する。ロシアの寒村に暮ら

す母は文字を読めなかった。一念発起して読み書きを学習。その過

程でツアーリによる圧制が押し寄せる。「母」は困難と試練のひと

つひとつを乗り超える。それを息子の眼が捉え、追い、感銘を受け、                           

自らも「母」と共に成長を遂げる。成長した主人公は社会を意識し、

収奪による貧困を是正しようと、社会変革の路を進む。この社会変

革とは革命。『革命的リアリズム』とは革命遂行達成に不可欠な主

体形成を育み、達成に向けて揺らがない。

 顕治は芥川に「貴方が革命的リアリズムに目覚めていたなら死を

選ばなかったであろう」と語りかけていたのだと思って止まない。

『革命的リアリズム』は社会主義革命の精神的支柱。革命の美化と

神秘化を担ってしまった。世界の彼方此方で革命が起こった。革命

の嵐が沈静化したのが東西冷戦。冷戦が終わると社会主義革命の内

実が顕わになった。至る処で革命の美化と神秘化が削ぎ落ちた。明

らかになったのは一党独裁による恐怖政治。社会主義体制の矛盾。

官僚の汚職。ソヴィエトは国名をロシアに戻し資本主義。中国は資

本主義的国家社会主義。ロシアは何とか経済の危機的情況を脱した。

中国は日本を抜きGDP二位。遠からずアメリカを抜く。両国とも

事実上の独裁を継続。北朝鮮は触れる必要なし。

                                 

 顕治は芥川の文学を『敗北』と規定したが杓子定規ではなかった。

『敗北』を導く中で面白いことを書いていた。自分とは遠い世界に

住んでいると捉えていた芥川。自殺を知った時に顕治は「意外にも

私は我々に近く立っている氏を発見したのである。私は厳粛に氏を

見直さずにはいられなかった」。「…だが、感傷のためではない。

氏は、一生脱ぐことの出来なかった重い鎧を力一杯支えながら、不

安に閉ざされた必死の闘いを見せていたのであった。その数種の遺

稿と共に、最後に、我々に肉薄して来ているのであった」。

 次いで顕治は芥川の鎧を作品を通して解析する。鎧とは芥川の冷

徹な眼と自我。その解析の胆は、資本主義の悪を認め、その中に安

住する自分を恥じる、プチブル知識人の姿。これらの引用だけでも

私が想い描いた教条性はない。あちこちに芥川への敬愛が在る。

 顕治が述べる「最後に、我々に肉薄」は芥川も共産主義を意識し

ていたからであった。時代を透徹した眼で見つめたプチブル知識人

の苦悩と限界にまで到達したのが芥川。


―娑婆苦を娑婆苦だけにしたいものは                     

 コンミュニストの棍棒をふりまわせ。                            

 娑婆苦をすっかり失いたいものは

 ピストルで頭を撃ち抜いてしまへ。   『信条』―

 

 顕治は語る。「史的な必然として到来する新社会が今日の社会よ

りも幸福ではあるがそこにもまだ(芥川に)不安が残っている」と。

                          

―「芥川龍之介!芥川龍之介。お前は根をしっかりとおろせ。お前

は風に吹かれている葦だ。(中略)これからお前はやり直すのだ」                    

                       『闇中問答』―


 芥川はやり直せなかった。死を選んだ。

「肉体的にももはや不可能であった。後悔が自嘲がそして絶望が余

りにも氏をとりまいていた。敗北の文学を。そして階級的土壌を我

々は踏み込えて往かなければならない」

 これが顕治の結びであった。顕治は要所では私と書かずに「我々

」を用いた。顕治は歴史的必然を信じていた。顕治は歴史的必然に

よって導かれる「新社会」に不安を持っていなかった。

 私を刺激したのが「歴史的必然」と「新社会への信頼」。

 私は歴史的必然を神話と捉えている。歴史の大きなうねりを後世

から俯瞰し、革命に勝利した側からの歴史観と考えている。歴史的

必然が真理として成立するならばソヴィエトの崩壊、そして現況の

ロシア・中国・北朝鮮の姿も歴史的必然になろう。

「新社会」に一抹の不安もないのは、そして「今日の社会よりも幸

福」と語るのは革命家として立つ顕治の意気込み。そう思わなけれ

ば覆い被さって来る時代の困難の中を突き進んでゆけなかったであ

ろう。顕治を取り巻く闇には自分を殺しかねない権力が在った。

 芥川の「漠然とした不安」が正しかった。芥川は「漠然とした不

安」を透徹した眼力でつまびらかにしていない。それが惜しまれる。

芥川は「漠然とした不安」を主題にした長編小説を書くべきであっ

た。いずれにせよ芥川は「やり直し」に気づきつつも遠くへ逝って

しまった。「我々」の傍らに接近するも、逝ってしまった芥川への

惜別が顕治の『敗北の文学』であった。

 こう云う私は後年から当時を鑑みているに過ぎない。

 小林秀雄は『様々なる意匠』で私小説への批判である「社会化さ

れた私」に辿り着いている。私自身が感知する「私」と周辺。「私

」の自我と、それを取り巻く周辺が織りなし、ぶつかり合う私小説

には社会性がない。「私」の自我は周辺しか見つめていない。だか

ら面白くないのだ。「私」とは紛れもなく社会の一員なのだと。

 顕治はその社会と格闘していた。

 顕治は「社会化された私」よりも一段の高みに居た。                                   


 読み終えて、なるほど、と思った。やがてプロレタリア文学は全                         

盛期を迎えるであろう。その理論的支柱になるであろう『敗北の文

学』への支持が集まり見事一位に。納得した。

 私も『革命的リアリズム』に酔った時期が在った。しかしソヴィ

エトや中国、北朝鮮の動向が酔いを醒ました。多様性を認めない国

家は自我を認めない。しかしゴーリキの『母』から受けた感銘は私

から消えなかった。感銘を受けた者には責任がある。感銘への責任。

その責任を繋ぐのが精神のリレーと思った。繋ぎ方は多種多様。や

はり人間は社会を意識し社会矛盾や課題と向き合い正してゆかなけ

れば自らが閉塞する。正確な意味における単独者は成立しない。生

きてゆけない。人間は社会が在って生存できる生き者なのだ。『革

命的リアリズム』は色あせてしまった。しかし主人公が社会と向き

合い、格闘し、葛藤しつつ、成長しなければ小説にダイナミズムが

生まれない。このダイナミズムこそが小説の生命線。読者をドキド

キさせ、思わず次のページを捲ってしまう力を、私は『成長のリア

リズム』と名付けた。『成長のリアリズム』が小説に命を吹き込む

のだ。『成長のリアリズム』がオルタナティヴとして成立するのか。

成立したとして主人公は何処に向かうのか。

 

 私は主人公の向かう先を確かめなければならない。

 私も奮闘しなければならぬ。

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