■ 福居良(泉澤繁)
君はやりたいことをすべてやり切ったのだと想っている。六七年
のシアワセな人生を送った。きっとピアノを持って天空の彼方に旅
立った。惜しむらくは些か早い永眠。「俺は畳の上で死ぬことはな
い」と言っていた君は愛妻に見届けられて天上人になった。
旅芸人の家に生まれ三歳で舞台に立ち三味線を弾いた。飛んで来
るおひねりが嬉しかったと…。北海高校野球部。ピッチャー。野球
への情熱が冷めやらず朝野球のチームを率いて投げ続けた。君はラ
ンニングが嫌いだ。それを補っていたのだ股関節の柔らかさ。開脚
片足交互屈伸が得意。元ロッテの成田文雄投手もこれが得意。成田
はシュートが武器だった。福居良もシュートが決め球。卓越したア
コーデオンは客を喜ばす技のひとつ。彼のエンターティメントは幼
い頃からの舞台で育まれていた。
バリーハリスとの出逢いからピアノが変わった。和音が複雑にな
った。セヴンス、ナインスコードが増えた。複雑になっても聴く者
にスッキリとした陰影を残した。早弾きを控えるようになった。そ
の訳を尋ねると「早く弾いてしまうと客から情緒が喪われる」
坊主頭で丸顔。無精髭。丸メガネの奥に人なつっこい子供の瞳。
Jazzで喰えない時代を迎えてもサッポロに暮らしピアノを弾い
た。東京には収入が多い仕事もあったろうに。サッポロを愛してい
たからだと他に理由を見つけられない。
自分はまだ死ねない。やりたいことをやり切っていない。やり切
った時にはそっちで芸術とは何かを語り合い、飲んで騒ごう。その
時には『キースジャレット』を弾いて欲しい。
「Jazzは庶民の娯楽。Jazzを伴奏にしてみんな踊っていた
」と俺は意地悪した。
君は悲しそうな、見たことのない表情で黙り込んだ。
「自分の音楽は、子供から年寄りまでを笑わせ、楽しませる一人楽
団。ボードビリアン。それを知っているから君は反論しなかったの
だと思っている。自分にも弱みが在る。マィルスディビスの『Ro
und About Midnight』や『So What』は踊れ
ない。コルトレーンもだいたい踊れない。踊れない曲は他にも沢山
在る。踊れない曲ではみんな静かに聴き入ってしまう」
芸術とは神秘の力によって感動をもたらす作品。何によって忘れ
られないほど心に刻まれたのか。心を突き動かしたのは何か。これ
らの何を言葉にできるようでは神秘とは云えない。何が何だか分か
らない、言語化できない得体の知れない力が神秘。解析しても、し
ても辿り着けない闇の奥深い処に神秘が潜んでいる。心に刻まれ、
心を震わせ、心が動き、時には生き様を決めてしまうのが芸術。芸
術には心を鷲掴む魔力が在る。だから人は常に感動を求めて作品と
向き合うと、言おうとしたら「俺は『芸術とは何か』なんて考えな
い。だいたい『芸術』を振りかざして語る連中にロクなのが居ない。
俺はピアノを聴いている人たちに感銘を届けたいだけ。芸術とは、
それぞれの、心の奥に、しまわれている感動への憧れ。それが時お
り顔を覗かせる。その呼び水が感銘」と先を越されてしまった。
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『福居良』は短かった。助かり。分かり易かった。
氷空ゆめはチチの帰りを待った。チチは大のJazz好き。レコ
ードは書斎の壁に据え付けられた棚に隙間なく。ピアノが多かった。
チチのJazzと云えばピアノだった。『バリーハリス』を探した。
一枚だけあった。『I am Old Fashiond』。福居良は
無かった。「勝手に触ってはいけない」と言われてきた再生機。幼
い頃はプレーヤーの円盤が回転するのが面白かった。アンプとプレ
ーヤーに電源を入れた。ターンテーブルにバリーハリスを置き、慎
重に針を落とした。チチの愛用は高価なオルトフォン。
その時チチが帰って来た。
「おっ。珍しいな。バリーハリスがピアノを弾いている」
「お父さん。福居良って言うピアノ弾きを知っている」
「あぁ。亡くなってしまった」
「やっぱ。知っているんだ」
「Jazz Pianoが好きな奴で知らない者は居ない」
氷空ゆめはプリントした泉澤繁さんの『福居良』を差し出した。
「おっ。泉澤さんの哀悼の文面だな。チチは泉澤さんも知っている。
何度か会社のイヴェントに来てもらった。泉澤さんが舞台に立つと
会場が一気に盛り上がるんだ」
「有名なんだ。わたし。チンドン屋さんかなと思っていたんだ」
「エンターテイナーとしては一流だ」
「……芸術とは何かを振りかざす者にロクな奴はいない。まったく
同感。芸術の言い廻しも的を得ている。さり気なく的確だ。ゆめは
チチに何を聞きたかったんだ」
「別に。お父さんが知っているなら安心」
泉澤繁さんだけが動画。六九歳。太鼓を背負っている。頭にはハ
イハットが取り付けられていた。アコースティックギターを抱え、
口元にはハーモニカも。ギターを弾き、唄う時には小刻みに動く。
右足を踏み込むと太鼓が叩かれ、両足を閉じるとハイハットが鳴る。
伊達メガネをかけ、衣装はカーネルサンダース仕立て。ひとり楽団
は忙しい。曲名は『チェムチェムチェリー』。
趣味はサッカー。サイドバック。何時も脚を動かしているから俊
敏なのかも。小柄の泉澤さんはサッカー日本代表の長友を絶対意識
している。帽子を取ると髪型が同じ。それにしても、楽しそうに、
嬉しそうに、唄い、演奏している。
氷空ゆめには文と文章が短かった分だけ余裕が在った。
けれども芸術が難しかった。
ひと言で言い表せない。
ウィキペディアの解説では『表現者(表現物)と鑑賞者が相互に
作用し合い、精神的・感覚的な変動を得ようとする活動』。他に、
もうひとつ在った。『美を追及、表現しようとする営み」。
氷空ゆめは…『美の追及』が芸術の根幹では…と想った。
『精神的・感覚的な変動を得る』には美が欠かせないからだ。
美しくない表現には人は心を動かされない。
神秘の力によって感動をもたらすのが芸術。
感銘は心の静かな動き。得体が分からなくとも魅せられてしまう。
人知を超えた美しさは神秘と呼ぶのにふさわしい。
この神秘を言葉にできるようでは芸術とは言えないみたい。
言語化できない得体の知れない力が神秘。
…芥川龍之介さんは言葉で美を追及し、言葉で言語化できない神秘
を築こうとした。その営みを時代が許さなかった。独りで立ち向か
う体力は無かった。絶望感が襲った。決して『漠然とした不安』に
よる絶命では無い。わたしは『敗北の文学』と絶対に言わない…
感銘は感動の一歩手前の静かな心の動き
日常を跳び超え、覚醒した心を、鷲掴みにするのが芸術。
心を鷲掴みされた者は感動で打ち震える。
氷空ゆめには一度だけ衝撃と感動で打ち震えた体験が在った。
地下街を美子と歩いて大型書店に向かう高二の夏だった。
美子が壁に貼られたポスターを指差して「観てごらん。あの娘。
ゆめにそっくり」。氷空ゆめは美子の指の先を追った。『ターバン
を巻いた少女』が大判のポスターに描かれていた。近代美術館のフ
ェルメール展の案内がポスターの下に小さく。
少女が眸を見開いて斜め後ろを見ていた。
青いターバンが少女の頭に巻かれている。
少女の視線と眼が合った。
その時氷空ゆめは金縛りに。
身動きできなくなった。鳥肌が立った。歩もうとしても足が動か
ない。鳥肌を見ようとしても手を持ち上げられなかった。
…少女は振り向きざまに何を見たんだろう…
これだけが浮かんだ。
美子も足を止めて少女に魅入っていた。
「同じ年頃のオランダの少女。フェルメールは一七世紀の画家。顔
の輪郭は違うけれど憂いの在る眸と目元はゆめ」
少女は色白。オランダの少女だから白人だ。肌の色が白いのは当
たり前。眉毛が薄い。長距離ランナーの日本人のわたしは色黒。で
も、眸と眼元は、わたし、そのもの。
『貴女を見ていた。私に似た貴女が気になって見てしまった』
話しかけられた。
その途端に金縛りが解けた。
氷空ゆめはポスターの前に立った。
美子に向けて少女と同じポーズ。
「どう。少女になっている…」
「ターバンが無くてもゆめは少女のよう。日本の少女。でも眼線が
下向き。オランダの少女はやや上向き」
以来氷空ゆめは、やや上向きの、眼線を心がけた。
…わたしに似た少女が一七世紀のオランダに居た。少女はわたしを
見つめて話しかけてきた。わたしも少女にご挨拶…
「貴女と出逢った瞬間に言葉を喪った。おまけに金縛りに。ポスタ
ーの中にわたしが居た。氷空ゆめです。一七歳。ヨロシクね」
『私も一七歳。しばらくは近代美術館に居ます。逢いに来てね』
次の日。氷空ゆめは本物の少女と再会した。
少女の前に人が群がっていた。
ポスターと違って背景の黒色が濃かった。
少女が浮き出ていた。
今にも動きそうだった。見つめていると瞬きしそうな気配。憂い
の中に一瞬、見たものに驚いている。それで眸が大きく見開いてい
た。何を見たのだろう。…謎…。人が多くてお話しは無理。
…まぁイイか。昨日少しお話しできたから…
少女は見えないものを見たのだ。何を見たのかを尋ねたい。昨日
は何を見ようとして見たのだろう。違うような気がする。意図して
見たのでは無い。表情に驚きが在る。偶然見てしまったのだ。それ
は見てはイケナイものだったのかも知れない。これも違うな。多分
わたしに驚いたんだ。似ているから。微かな笑みが在る。何を見た
のか分からないから神秘的なんだ。
少女の瞳に映っていたのは何なんだろう。初対面の時はわたしだ
った。そう伝えられた。お話しできたならそれが分かるのに。それ
にしても本物の少女は美しい。透きとおり静かに輝いている。青色
のターバンが似合っている。そして眸と目元がわたし似。
…これが言葉にできない芸術なんだ…
氷空ゆめは身震い。
もう一度少女に魅入った。
そして一礼して離れた。
『ゴメンナサイ。多くの人に見つめられてお話しできなかった。ま
た逢いましょう。私は故郷のデン・ハーグで暮らしています』
氷空ゆめは振り返った。
眼線が合った。
少女が微笑んだ。そう想った。
この時からバンダナはフェルメールブルーに決めた。
少女は芸術の力で永遠の命を授かったのだ。