(明治44年10月20日付山形新聞「山寺に遊ぶの記(一)」より抜粋)
(株)文化財マネージメントの宮本です。
今回修復を目指す高橋源吉《最上川(本合海)》が展示された「山寺油絵展覧会」の詳細について、前回に続いてお伝えします。
明治44年(1911)に、山寺油絵展覧会は山寺村(現在の山形市山寺)の立石寺・根本中堂内で開催されました。
そこには、源吉が描いた《天華岩》、《山寺全景》、《最上川(本合海)》などのほか、源吉の父である高橋由一の作品などもかなりの数が展示されました。
そのうち一つだけ紹介しますと、たとえば、山形新聞には
「故高橋由一畫伯の遺墨たる、三島縣令時代に開鑿した縣下各新道の開鑿工事中の見取畫が一同の目を牽ひた」
(明治44年10月20日付山形新聞「山寺に遊ぶの記(一)」より抜粋)
とあります。
明治17年(1884)、高橋由一は、明治15年(1882)まで山形県令を務めた三島通庸の委嘱により、当時新しく工事された道路の写生を行うため、山形を旅行しました。
その時に制作された新道の記録画が、山寺油絵展覧会で展示されたことを、新聞記事は伝えているのです。
「山寺油絵展覧会」は、山寺の地域振興の一環として行われたものでしたが、同時に由一の功績や山形との結びつきを伝えるものでもあったようです。
ここに、すでに他界していた父を思う源吉の気持ちが現れていたともいえます。