(株)文化財マネージメントの宮本です。
今回は、高橋源吉について研究している山形大学教授の小林俊介先生から、明治時代の美術界における源吉の位置についての原稿をいただきましたので、以下に掲載します。
少し長いですが、ほかでは読むことのできないコラムですので、ぜひご覧くださいませ。
高橋源吉(以下、源吉)は、これまで《鮭》で有名な高橋由一の息子で、画家でもあったという程度の認識でも、あればまだ良い方だったのではないでしょうか。
しかし、実際には、彼は明治期に「美術」という「仕組み」や「考え方そのもの」を作った重要な人物のひとりだったのです。
例えば源吉が執筆した『高橋由一履歴』(由一の伝記)に以下のような有名な記述があります。
由一が西洋画にめざめたのは、幕末に西洋の写実的な石版画を見て、単に現実をリアルに描いてあるだけではなく、ひとつの“趣味”(taste)をそこに発見したからだと。
しかし幕末にはまだ芸術としての「美術」はおろか、その前提となる「趣味」という言葉も感覚もありません。
むしろ西洋画は「写真(photograph)」と同様、当時の言葉でいえば「真ヲ写ス」ための「技術」であり、白黒の写真を参考にそれ以上にリアルに描く、というのが由一生涯の仕事であり、目標でした。
今日由一は本邦初の本格的な西洋画家であり、「芸術家」のひとりとされています。
しかし由一のような(職人的な)西洋画家は、例えば五姓田芳柳・義松親子など、当時他にもたくさんいたのです。
源吉は『履歴』において、明治期にようやく普及してきた芸術家としての「美術」という考え方のスタートに由一がいた、ということを宣伝しているようにみえます。
大げさにいえば、実作者として、また今日風にいえばアートディレクターとして、「近代日本美術(史)」という考え方そのものを作り、そのスタートに由一を置いたのが源吉、といってもおかしくありません。
このことは、源吉自身の業績をみるとよく分かります。
彼は本邦初の本格的な美術団体である「明治美術会」の創立会員としてその活動をとりしきっています。
講演会や展覧会を行い、彼自身も同会で「tasteとstyleについて」という講演を行い、美術という「考え方」の普及を行っています。
英語が得意だった源吉は、イギリスの有名な画家アルフレッド・イーストの離日の際には、源吉は同会を代表してイーストに講演の礼を述べに横浜に赴くなど、同会の重鎮として活躍しました。
これらはすべて芸術としての「美術」の普及に関係することでした。
明治35年に明治美術会が解消すると、東京で発表の場を失った源吉は地方を放浪した、とされています。
しかし実際には、山寺ホテルにある《本合海》の存在が雄弁に物語るように、山形で制作活動を行い、明治41年に山寺で「油絵展覧会」を開き、大正2年に石巻で没するまで、生涯「美術」の普及を行っていたのです。
しかもそれは、山形における本格的な西洋画紹介の嚆矢というべきものでした。
源吉の業績をあげれば、他にも由一の開いた画塾「天絵社」での指導やその運営などキリがありません。
源吉は父・高橋由一の助手であり、共同制作者であり、伝記作者でした。
いうならば“本邦初の西洋画家、由一”という“看板”のもと、西洋画の普及と販売を行っていたのです。
東北地方の新開地を記録し、おそらく山寺の「油絵展覧会」でも展示された「三島県令道路改修記念画帖」(山形大学附属博物館蔵)は、由一の下絵(写生)を源吉が石版画に起こしたものです。
また由一晩年の作とされている作品のなかには、源吉が加筆・制作したと考えられるものもあります。
『高橋由一履歴』は口伝と伝えられますが、実際には源吉の脚色が相当加わっていると私は考えています。
作品制作はもとより、著作や展覧会で由一を「美術」の祖として宣伝すること。
それが源吉の「芸術」としての美術や西洋画を普及する方法であり、またそれは美術館や画商はおろか、「美術」という仕組みそのものが定着しない明治期における由一と源吉の「営業」の一環でもあったのです。