Check our Terms and Privacy Policy.

石巻の街中にある3つのアートギャラリーで若手作家を中心とした企画展を開催したい!

宮城県石巻市の街中にある3つのギャラリーで石巻在住の若手作家を中心とした企画展「手つかずの庭」を開催します!震災以降、この土地で生まれた街へのイメージに縛られすぎずに、これからもここで活動していく作家たちが制作を続けていくための実験的な企画展示です。ぜひご支援・ご協力をお願いいたします!

現在の支援総額

822,800

117%

目標金額は700,000円

支援者数

78

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2021/06/30に募集を開始し、 78人の支援により 822,800円の資金を集め、 2021/08/12に募集を終了しました

エンタメ領域特化型クラファン

手数料0円から実施可能。 企画からリターン配送まで、すべてお任せのプランもあります!

このプロジェクトを見た人はこちらもチェックしています

石巻の街中にある3つのアートギャラリーで若手作家を中心とした企画展を開催したい!

現在の支援総額

822,800

117%達成

終了

目標金額700,000

支援者数78

このプロジェクトは、2021/06/30に募集を開始し、 78人の支援により 822,800円の資金を集め、 2021/08/12に募集を終了しました

宮城県石巻市の街中にある3つのギャラリーで石巻在住の若手作家を中心とした企画展「手つかずの庭」を開催します!震災以降、この土地で生まれた街へのイメージに縛られすぎずに、これからもここで活動していく作家たちが制作を続けていくための実験的な企画展示です。ぜひご支援・ご協力をお願いいたします!

このプロジェクトを見た人はこちらもチェックしています

thumbnail

こんにちは。企画展代表の鹿野です。皆様のあたたかく、力強いご支援・ご協力により、本日(8/11) 10時2分にプロジェクト目標を達成することができました!!ご支援・ご協力いただいた皆様、本当にありがとうございます。今年の春に、この企画展をやることが本格的に決定し、どのような企画展にすれば個々人の制作活動を続けていけるような企画展ができるか考えていました。クラウドファンディングに着手するにあたって「本当に達成できるのか」「自分たちに嘘をつかずに活動を発信することができるのか」と、不安なところもありましたが、結果として自分たちも納得できる発信方法で、目標に到達することができたかと思います。運営に関しては、正直まだまだ足りていないところがありますが、この企画展を一度だけのお祭りにはせず、継続して様々な企画展や活動を石巻で行っていきたいと思います。目標を達成するにあたって、TwitterやFacebookなどで投稿をシェアしたり、熱いメッセージを寄せて応援してくださった皆様、本当にありがとうございました。目標に到達することができたのも皆様のおかげです。終了まであと1日。ぜひ、このプロジェクトが終了する最後までご支援・ご協力を頂ければと思います。そして、あと3日でスタートする企画展「手つかずの庭」をどうぞよろしくお願いいたします。鹿野


こんにちは!運営スタッフの山田です。企画展「手つかずの庭」開催まで5日と迫ってまいりました!着々と参加作家の搬入が始まっています。今回は搬入、準備の様子を皆様にお伝えいたします。ART DRUG CENTER/かんのま子、光藤さくら/搬入風景THE ROOMERS` GARDEN/搬入風景THE ROOMERS` GARDEN/平野将麻/搬入風景ART DRUG CENTER/キラーギロチン/メンバー全員が石巻で揃うのは2回目…!どのような作品が鑑賞できるのでしょうか…!展示作品準備の風景は企画展の公式twitterでも随時お伝えしていきます。twitter→@no_niwa_https://twitter.com/no_niwa_


thumbnail

震災を機に石巻にUターンをし、自身の彫刻作品を中心とした制作を続けてきた彫刻家・ちばふみ枝。窓、カーテン、扉、壁、階段などのモチーフに、記憶の中の風景を組み合わせた造形を特徴とするその作品群は、鑑賞するたび自身の記憶とも接続されていく。「石巻のキワマリ荘」のメンバーとして活動しながら、東京・東北を中心に展示も開催。最近は被災した家を記録した写真作品も発表している。彼女の記憶の中の風景を組み合わせた独特の彫刻作品は、どのようにして生まれたのだろうか。--------------------------------2012 年 個展「くすんだベール」展示風景/日和アートセンター -ちばさんの作品は一貫したモチーフがあるように思えるのですが、このような作風になったのにはどのような経緯があったのでしょうか。ちば 学生時代から大学院までの時間で自分の作りたいものやどうやって作るのかなどの方向性は試行錯誤していました。レリーフを彫るみたいな作り方は大学院の修了展の時にやりはじめたものです。-大学時代はどのような作品を作っていたのでしょうか?ちば 家の中にあるものや日常的に触れるものがモチーフになることが多かったです。人間ではなくて、室内の柱とか壁とかふすまとかがモチーフなのは今と通じていて。それは彫るのではなくて、実際にふすまの紙を買ってきたり、柱も角材を買ってきて柱みたいに色を塗ったりとか。あとは、家の中で目にするもので、例えばジャンプ(週刊少年雑誌)とか使ったりもしたこともありました、断面とかを嵌め込んで使ったり…。柱にフックをかけたり、お盆を窓みたいに貼ったりとか、モルタルを塗り込んだりして形を作るっていう作品を制作したり…。テラコッタ課題作品/大学時代 -普段目に写るものがモチーフになっていることが多いんですね。ちば これは大学一年生の時の作品ですね。テラコッタを使った課題で、和式のトイレを型取りして作りました。この時から結構今の作品につながっていて。トイレって壁を隔てて、昔のだと扉も低くて上からのぞけて、下からも見えるって言うそんな薄い壁を隔ててみんなあられもない姿になっていると思うととても気になって…。石膏どりの課題で人体も制作しました。でもめっちゃ疲れているモデルさんのときがあって…。「えー」って思いながら作ってたんですよね。全然面白さを見つけられなくて、その時に「もう人体は作れないな」って思ったんですよね。何も引き出せないな、という風に感じました。それで、3年になってからはちょっとサブカル寄りっぽい感じになっていきました。和風なことに興味があって、そういう作品を作っていたり…。これも今の作品の組み立てに似ているんですよね。2003年/《記憶に在る家》ちば 4年は若干今の作風に近づいていますね。この作品は卒展のときの作品ですが、パタンパタンと閉じられるようになっています。-組み立てはだいぶ今の作品につながっていますね。家の一部が切り取られたみたいになっていますね。大学の時から今のちばさんの作品に通ずる雰囲気を感じますね…!課題以外の作品は今の作風と近いものが多いですよね。ちば 結構今に通じる作品が多いですね。修了展の時にはけっこう悩んでしまって、最後の方まで制作に取り掛かれなくて。これが初めて彫った作品です。勉強したことを生かそう、 っていうのが今までの作品だったのですが、実はこの作品にはモデルがいて…舞台に立っている子がモデルなんですが「その子がいる場所を作りたい」っていう気持ちと、その子に対するステージとか憧れとか、そういうのも含めて、自分のごく個人的な内面の部分と創作が結びつけられないかと思って。それで客観的にその子がいる場所を作ってみようと思ったんですよね。2006年/《彼女のつづく》-このモデルさんはどんな方なのでしょうか。ちば これは私のアイドル笑この子は、演劇の舞台とかライブとか歌とか、あとストリップの踊り子だったの。だからちょっとステージっぽい感じの作品になっていて、家着、外着、舞台の衣装をきた彼女がいるんです。-結構意外でした。ちばさんはあまりサブカルとかアイドルとかに興味があると思っていなかったので…。ちば 永遠のアイドルで…。ストリップとか一人で見に行ったりしていたんですよね。-しっかり応援していますね。ちば その子がいると怖くない、みたいな。ライブとかも、知名度があんまりなかったから、適当なブッキングをされることもあったりして、他のバンドは全然知らない人だけど、果敢に見に行って…。その子がいると最強だなって思っていたので。-それは東京時代ですか?院を卒業して…ちば そうですね。25歳くらいまで、うろうろしていて大学院卒業した後に、大学で教務補助の仕事をやっていて、週に 3,4 回出勤して、夏休みもあって…という2年契約のパートをしていました。だから大学に場所があるっていう感じでしたね。他のバイトも掛け持ちしつつ、アトリエも借りて制作を続けていて。その任期が終わってからは、他のバイト探して家兼アトリエを借りて制作を続けて行っていた時に震災が起こって…。-震災前にすでに「美術を生業にして食べていこう」という気持ちが強かったということでしょうか。ちば 何も考えていなくて…。親が許してくれる限り、好きなことをやっていて…。「美大行きたいんだったらいいよ!」っていう風に親が応援してくれたこともあって、院に行く時も「いいよ」っていう感じだったので、そのまま好きな制作を続けていましたね。震災前は石巻に帰ったとしても、制作をやっていくっていうイメージが全然湧かなくて…。-震災後、宮城にはいつ頃帰ってきたのでしょう。ちば 2011年の9月に宮城に帰ってきました。でも、石巻に最初から帰ってきていたわけではなくて、親が仮設住宅ではなくて仙台の方に家を借りたんですよね。親が会社を経営していてそこも被災したんだけど仕事を再開したいという意思があったので、私も帰ったら働かせてもらって、片付けも引き続きやろうと思いました。その時は本当に「家の仕事や片付けもあるし」という気持ちで、いったん制作するという自分の活動がお休みになっても仕方ないな、と思っていました。むしろその時に、制作することは一生続けられる、って思ったんですよね。それまでは年齢も年齢だったし、20代後半に差し掛かって、「どうするんだ、自分」という焦りもあり「このまま何にもなっていないまま制作を続けていくの?」と思いつつ、かといって、自分がどのように生活を安定させていけるかっていうのもあまりピンときていなくて…。震災があったことで、地元に帰る流れは当然のことという感じで受け入れられたし、家の片付けもしたいし、じゃあ仕事もやろうっていう気持ちになって。制作は別にやめないし、いったんお休みっていう期間があってもいいじゃん、という吹っ切れたような気持ちで帰ってきました。それで、次の年から通いで石巻の仕事をはじめました。-会社にはどのくらいの期間勤めていらっしゃいましたか。ちば 8年くらい。普通に働いていました。震災後の期間は、細々と制作をしているだけでアートシーンについてはすっぽり抜け落ちています。-自分の制作は続けているけれども、それまでよりは制作活動を中心に生活していくという感じではなくなったということですかね。ちば そうですね。だからインプットがほぼないような状態で、あっても自分が好きで見に行きやすい東京の展示をたまに見にいく、ということはありましたが…。積極的にいろんな本読んだりとか、情報を集めたりっていうのはしていなくて、2010年代はぽっかり空いている感じですね。-石巻のキワマリ荘との交流はいつ頃始まりましたか。ちば 2019年のReborn-Art festivalに参加したのですが、その前に「石巻のキワマリ荘」では個展をしました。そもそも中崎透さん※1が、私の大学の先輩で…。透さんが「日和アートセンター」も紹介してくれて…透さんには頭が上がらないというか、足をむけて眠れません笑透さんが仙台のメディアテークの企画に参加していて、連絡をくれたりしていて、「日和アートセンター」を(透さんの)知り合いが立ち上げるから遊びに行ってねーっていう感じでオープンの日も教えてくれて。なんか半信半疑でした。現代アートのレジデンス施設が石巻にできるっていうこと自体が。日和アートセンターオープニングレセプション風景 -「日和アートセンター」※2は現代アートのギャラリー兼レジデンス施設として存在していましたよね。ちば 2012年に私が仕事を始めてちょっとした時にそういう連絡が来て、オープンに行ってみたらすごく賑わっていて…。いろんな作家の人が展示していたんですけど、その展示していた作家の一人が、私が大学入試の時に通っていた予備校で一緒だった女の子がいたんですよね。大学は別々で、久しぶりに会って楽しくなって。黄金町※3の皆さんともその時につながりも出来ました。これからギャラリーをやっていく、という時に私が地元の作家として紹介されたりして、日和アートセンターを運営していた立石さんとも仲良くなりました。後々だけど、会社以外に通える場所がすごく自分にとって大きくて、それがあったから自分も制作を細々とでも続けていこう、関わっていこうと思えることができたと思います。ギリギリのところをつないでくれたっていうか。-アーティストにとっては展示できる場所が自分が住んでいる場所の近くにある、と思うと制作続けようかなと思いますよね。ちば 実際自分がすぐ展示しなくても、そういう関われる人がいるとか、環境があるってすごい違うなって思いました。2012年に仙台で二人展をしたんですよね。大学院で一緒だった広島に住んでいる團良子さん※4という作家がいるのですが、彼女が「東京時代に同じ職場だった方が仙台でギャラリーをやっているので、個展をしませんか?という話があるので仙台行くかも!」という連絡をくれて、私は「来て来て〜」っていう感じだったんですが、その後、團さんから「個展だと心細いから、ちばちゃんもやろうよ!」という話をもらって。ちょうど私が仙台に住んでいた時期とかぶっていたので、遊びに行く気は満々だったのですが、えーっ!と思って、制作する場所もないし、生活もあまり整っていないし…無理でしょ!と思って一回断ったんですよね。それが2011年の年末とかの話で。でもちょっとしてから、「やっぱやりたい!」という気持ちが育ってきて…家の片付けもちょっと落ち着いてきて、鍵も閉められるし、電気も通ってるし、水も流れるぞ、っていう風になったんですよね。部屋を片付けたら制作するスペースできるかもと思って、せっせと片付けをやり始めたんですよね。2012年の3月くらいに、1年の振り返り、みたいな感じでいろいろ考えるようになって…その時に「展示やっぱりやる!」という気持ちになりました。それで、團さんに「制作場所も整えたし、展示がやれるイメージが出来ました。」という連絡をして二人展をチフリグリ※5という仙台のギャラリーで開催しました。そのギャラリーのオーナーの方とも、同世代の女性だったのですが、仲良くなれて、すごく楽しくて…そういうスペースがあるということにも励まされましたね。2012年 /團良子・ちばふみ枝 二人展「バックトゥザフューチャー」/ギャラリーチフリグリ2012年/《星の砂》-同世代の女性がいる、ってなるとやりやすいですしね。ちば そう。そこから数年会社勤めをするんだけど、チフリグリのオーナーの佳代ちゃんにもすごい助けられました。グループ展をやる時にも声をかけてもらったりして、小作品を制作して展示していただいたり…。それが細々とあるから、なんとか「やっています」っていう気持ちに自分もなるし、人にも言えるし…。すごくありがたかったですね。-ちばさんは海外でも展示していますが、それも誰かとの繋がりで紹介されたっていう感じだったんでしょうか。ちば そうですね。企画者の高田彩さんと繋がったのは、塩釜にムサ美彫刻の 1 年下の子がいて、仙台出身だったんだけど塩釜のビルド・フルーガス※6 に関わっていて、それをきっかけにビルドの彩さんに紹介されて出展しました。ニュージーランドのクライストチャーチという地域で2011年2月22日に地震があって、被害も大きかった地域だったので「交流してアーティスト同士繋がって何かやりましょう。」という企画が立ち上がっていました。それに私は参加作家として呼んでいただきました。最初は、仙台のメディアテークでクライストチャーチの作家さんが展示してオンラインで繋がるイベントがあって、今度はこっちの作家がクライストチャーチで展示するという流れで…。作品だけ預けてもよかったんだけど、私は「あれ?行きたい!」となって、実際に現地に向かいました。 2013年/「Shared Lines」展示風景/カンタベリーミュージアム-ちばさんは興味関心に素直に行動することが多いですか。ちば 気持ちがそっちに向く、とか向かないとかあるじゃないですか。見極める時間もあると思うんですけど、その時は「有給こういう時に使うのか?」と思いながら、仕事も調整して行きましたね。-そう言われると、現実的ですね…。ちば 震災後だから、いろんな動きがあってたまたま縁があったから乗っかれたっていうのはありましたね。-仙台と石巻と美術的な繋がりができて、そこから石巻のキワマリ荘加入まで繋がっていくんですね。ちば そうですね。今後も制作を続けていきたい、っていう気持ちもあったし…。日和アートセンターに関わっていた時に思ったのですが、いろんな作家さんが他県から来て、出会えることがすごくいいなと思っていて…。日和アートセンターは irori の隣だったから、施設には関係ない街で活躍している人とも知り合いになれたりしましたね。もちろん地元の人たちとも出会えて。そういうのが楽しかったですね。単純に友達もできました。-日和アートセンターはアートと地域を接続する中間的な立ち位置の施設でよかったな。と思いますね。ちば 日和アートセンターは私が街なかに関わるとか、街に遊びに行くっていう意識が芽生えた場所でしたね。なにもなかったら、田舎だから引きこもってしまうし…。たまに東京から友達が戻ってきたらご飯食べに行ったりするくらいで。でも、通う場所が街にできたのがすごく大きくて、それがあったからだいぶ生活も変わったなと思いますね。自分の中でコミュニティを持てるというか。透さんの話に戻るんだけど、Reborn-Art Festivalっていう現代アートのイベントがあることも透さんが教えてくれて。それも結構半信半疑で。笑そんな大きな話が進んでるの!?みたいな。2012年/個展「くすんだベール」展示風景/日和アートセンター -今までそんな大きい現代アートのイベント的なものはありませんでしたよね。ちば そうですね。それで透さんが、「有馬さんが石巻引っ越したから会ってみて」という話をされて。そこで水戸のキワマリ荘の皆さんもいらっしゃるからその時に一緒に会おう、っていう風になり…。有馬さんは00年代の知っている作家さんだったので、実際に会った時に「あ、有馬さん…!?」っていう感じになったんですよね。水戸で有馬さんの作品を拝見したことがあったのですが、一体どんな人なんだろう?と思っていて。新聞紙のドローイングの作品は衝撃的でした。雑誌で犬山のキワマリ荘での活動を知って、そういうコミュニティを作れる人がいるのっていいなあと思ってた作家さんだったんですよね。実際に会ったら社交的だし、普通にコミュニケーションも取れて、水戸のキワマリ荘の人たちも楽しい人たちばっかりで…。(有馬さんと出会った時)まだ有馬さんは引っ越してきたばかりだったので「このスペースをやる上でとにかく人脈がないから、いろいろ知りたいんだ」っていうので、かたっぱしから人を見つけたり、紹介してもらった人にたくさん会っている時期で、それで私も有馬さんと会って…、「こういう場所にしたい」っていう話を有馬さんから聞いて、各部屋ずつ運営者を募りたいという話だったのですが、私も仕事をしていたから余裕がないな、と思ってすぐに借りますとはなりませんでした。でも、今後関わっていきますねということで、関係が続きましたね。Reborn-Art Festivalが終わった後に「じゃあ地元の人たちで独自の運営を続けていこう」という流れになり、最初の個展を「GALVANIZE gallery※7で開催するからちばさんやれない?」っていうお誘いを受けて、GALVANIZE galleryでの最初の個展を私が開催することになりました。2017年/「serendipity」展示風景/ガルバナイズギャラリー 2017 年/《これから》-ではGALVANIZE galleryでの1回目の個展がちばさんだったんですね。正式なメンバーになったのはいつからですか。ちば 多分、2019年が終わった時かな。Reborn-Art Festivalに出るために、その時は借りていなかったのですが、アーティストとして有馬さんが呼んでくれたので、みんなでスペースをどう使うか、という話し合いにも参加するようになりました。実際に展示した後に、メンバーが何人か抜けて、スペースが空いてしまうことになったので「私が空いたスペースに入ります」という話になったんですよね。2019年のReborn-Art Festivalの時にたくさんお客さんが来てくれて…。私、それでとても新鮮な気持ちになったんですよね。こうやって人が認知してくれたのに、(スペースが空いたら)もったいないなと思っていて、継続していく場所だから、こうやって何かで知ってくれた人が継続してきてくれたらいいなという気持ちもありましたし、積極的に地元の人にも認知してもらえる場所になったらいいな、石巻で現代アートが見れる場所として育っていけばいいな、と思う気持ちもありました。何人かメンバーが抜けると、キワマリ荘に足を運んできてくれた人たちが見れるものが減るわけじゃないですか。その時、有馬さんが「仙台から来るのにも往復1800円くらいかかるから、ギャラリーの入場料は無料だけれど、それだけかけてきてくれた人たちにそれだけの価値を持って帰ってもらわないといけない。」という話をしていて。その時は、この一拠点しかないし、だったらせめて各部屋埋まっていた方が「見た」っていう気持ちになるし、コンテンツが一つでも多くあった方がいいな、と私自身も思っていたので石巻のキワマリ荘に加入して、2020年の1月から「mado-beya」というスペースをオープンすることになりました。「mado-beya」 入口 -割と最近ですよね。石巻のキワマリ荘自体もオープンしてからあまり時間が経過していないですよね。ちば Reborn-Art Festival2019の前とかは、山形芸術界隈※8の人たちの展示を楽しみにキワマリ荘に来ていて…。-あの借り方すごくよかったですよね。いつ行っても何か見るものがあるっていうのは見ている側からは楽しいなと思いますね。東北はあまり県同士を跨いでアーティストの交流をするっていう機会があまりないと思うので、そういう意味でもすごくよかったですよね。ちば やっぱりその時に交流もできて、みんなそれぞれ活動している人たちだけど、ここで出会えた縁っていうのが今後も緩やかに繋がっていけばいいなと思います。-ここで、もう一度ちばさんの作品の話に戻りたいと思うのですが、ちばさんの作風はなぜこのような作風にたどり着いたのか…彫刻で人体を制作できないなと思ったという話についても詳しくお聞かせいただけますか。ちば 彫刻だと基本が、最初人体から始まることが多いのですが、でも人間って目の前のこの「人」が全て完成していて、この人は自ら動いて、自らを更新していて、それが完成形だから作る私は手出しできないし、その人を象る、っていう風にしか考えられなくなってしまって。だとしたら、その人はそれで完璧だから、その人と関わるとしたら関係性かな、と思ったんですよね。だから「人」がいる場所を作りたいなっていう気持ちが最初ありました。-その人はいないけど、その人がいたら完成する場所ということでしょうか。ちば そうですね。「人」っていうのは私の想像の世界の「人」なんですけど、場所だったら、私もそこに入れるし、その「人」もきっと来てくれるんじゃないかなと思っています。人間って、体は生身だし、想像や観念の話だけでは完結しないと思っていて、生身の自分の体があった上で、その「人」と関わりたいっていう気持ちが強くて。だから、現実の「場所」を作りたいと思いました。想像上の対象物、例えばぬいぐるみとか家族とか、アイドルっていう対象物と関係する場所やそれを想起する場所をモチーフに選んでいます。家族だったら部屋とか、アイドルだったらステージとか楽屋とか。-最近はおばあちゃんの家を掃除して、そこにあるものの写真を作品にしていますが、彫刻から離れたのは何か理由があったのでしょうか。ちば 記録的な意味もあるんですが、私は物が捨てられなくて…。感情移入してしまうんですね。だからぬいぐるみとか、おもちゃに命が宿るっていう話とか見られなくて、ただでさえ捨てられないのに、ぬいぐるみとかが意思を持っているなんて…っていうことが恐怖でしかなくて。そういうのが、お菓子の箱とかに対してもそういう気持ちがあるんですけど、最近は頑張って捨てるようにしているんですが…そういう性質があるので…。家の片付けをする時に、明かに被災した畳とかピアノとかはボランティアさんが来てくれた時に「捨てちゃえー」という感じで捨てたりしていた時もあったんですけど、家はヘドロとかにまみれたわけではなくて、綺麗な海水に浸かって、部屋の中をかき回して、さーっと引いていった感じなんですよね。だからカビとか匂いとかも最初気にならなくて、綺麗なままで、服とかもちょっと砂がついているけどただの濡れた服みたいに見えていたので干していたりしていたんですよね。兄がいるんですけど、兄が濡れた服とかを干して置いちゃったんですよね、捨てるものだとはきっと思えなかったんだと思うんです。おばあちゃんは一階にお部屋があって、おばあちゃんも捨てられない人だったので、部屋に物がギチギチにあったんです。服もなんでこんなにあるんだろう、っていうくらいあって…。捨てずに服とかを干したあと、衣装ケースとか段ボールにまたいれてしまったんですよ。そういう物もあるし、飾り物とかも捨てずにテーブルとかに乗っけたり…だからそもそもテーブルも捨てていないんですよね笑元の場所に戻すっていう感覚で、でもさすがにちょっといらないだろうっていうものもたくさんあるし…そういうことを考えるとキリがないし、混乱してしまうし。だからせめて捨てやすくするために一旦、写真を撮って、そしたら後々捨ててもいいかな、っていう気持ちになるかな。と思って写真を撮り始めました。2021年/《untitled (SALAD OIL)》2021年/untitled シリーズ展示風景/mado-beya 「mado-beya」の企画は3ヶ月ごとに考えているんですけど、年間の予定を考えていてなんとなくzineの展示ができそうだなと思っていたときに奥堀さんが詩を書いているし、zine作ろうっていう声がけを前からしていたんですけど、そうなったときにミシオくんもzineを出しているし、平野くんもzine作ってるみたいだから声かけよう、ってなった流れで自分も撮っている写真をzineにしたらいいかなと考えてzineの展示をしたんですよね。その時に、作品としてもみれる写真だよっていう風に見に来てくれた人が言ってくれたんですよね。まだ自分の彫刻と写真の作品がつながるところまでは完全には行ってないんですが、写真はzineの展示の時に「写真は写真だけで展示できたらいいかもな」くらいに思っていたんです。やっぱり「mado-beya」っていうスペースがあるのが大きくて、ある時、展示してほしいなと思っていた人が展示できないかも、となった時に「自分の写真出してみよう」となって写真の展示をやってみたんですよね。これから自分の写真と思考が結びつくのか、どうなのか…っていうところなんだけど、今年の 5 月に盛岡の cyg アートギャラリーで展示した家をテーマにした彫刻作品とつながるところもあって…。この「手つかずの庭」の企画展とほぼ同時期にプロジェクト FUKUSHIMA!での展示も始まるんですが、それも中崎透さんに呼んでいただいて…自分がcygアートギャラリーで出していた「くすんだベール」という彫刻の作品と「くすんだベールの干渉」というzineに使用していた震災後当時の家の写真と「海とカモシカ」で使用していた写真の3つで展示してみないか、という打診をいただいて、ちょうど自分もそういう考えがあったので、中崎さんの後押しもあり、彫刻作品と写真の作品を一緒に展示してみようとなりました。2021年/《くすんだベール》zine「海とカモシカ別冊 くすんだベールの干渉」zine「海とカモシカ 02」-私としては、ちばさんの彫刻の作品と写真の作品が同じ空間にあっても違和感なく入ってくるな、と思いました。ちばさんの作品は「記憶」とか「思い出」とかがベースなのかな、という風にステートメントを読んで思っているんですよね。こういう昔のものや、誰かの家族の記憶とかに触れると、同時に自分の思い出とかとも接続されていく感覚になりますし、彫刻は彫刻で日常的に触れるものがモチーフとしてあるので、そこはすごく親和性が高いんじゃないかなと感じています。あと、ちばさんの写真の作品の中で多分ちばさんのおばあちゃんが「ふみえちゃん写真」とか手書きで書いたものも混じっているんですけど、そういうのを見ると自分ではない家族の日常とか、生活とかがちゃんとあるんだ、っていうのを感じてグッとくるんですよね。ちば たからもの、とか書いてありますよね笑-これからも石巻では制作活動は続けていく予定なんでしょうか。ちば そうですね。今、仕事辞めて数ヶ月おやすみする期間があって…。自分が根詰めて一企業で仕事をしていた時とはやっぱり気持ちが変わるんですよね、仕事をしていない自分になると。今は制作に割く時間を結構とっているので、空白の10年の間の「これ知らなかったな」とかそもそも20代で全然勉強してこなかったなということを振り返って、本とか読んだり勉強したりしてインプットするのが楽しいなと思っています。今は結構制作寄りに傾いていて、これからもそういう風にやっていければいいなと思っています。街なかに「石巻のキワマリ荘」以外のアートの拠点もできて、20代の人たちも増えてわちゃわちゃやっているのもいいなと思っていますし、そういうところには人が集まってくるんじゃないかなとも思うし。そういう場所が自分の生活圏内にあって、自分も拠点として活動できるような場所としてあるっていうのが環境的に自分にとってはありがたいなと思っていて、自分がここでやれることがあればやっていきたいなと思っています。Reborn-Art Festivalがあるから人が来るっていう感覚もあって、人が来てくれるのは流動性もあって一過性のようでもあるけど、その中に出会いもあるからこの流れをすごく大事にしたいなと思っています。-自分たちよりちょっと上の世代のアーティストの人がいると、若い世代のアーティストも相談しやすいと思うんですよね。先輩のポジションっていうか。ちば あんまり偏らず、各世代バランスよくいる感じでいいですよね。関わる人が単純に増えてくれるといいですよね。-関わる人が増えると、相談できる人も増えていいなと思いますよね。(2021年7月31日 収録) text:山田はるひ※1 中崎透-美術家。1976年茨城県生まれ。武蔵野美術大学大学院造形研究科博士後期課程満期単位取得退学。茨城県水戸市を拠点に活動。※2 日和アートセンター-2012年3月から2014年7月末まで、宮城県石巻市の中心市街地に開設していた文化芸術拠点。※3 黄金町-横浜市にある黄金町エリアマネジメントセンター。黄金町は「アートによる街おこし」を推進しており、展覧会やアーティストのレジデンスなどが盛んに行われている。※4 團良子-彫刻家。ちばふみ枝が企画する「mado-beya」の展示にも参加。※5 チフリグリ-ギャラリーチフリグリは仙台市宮城野区にあるギャラリー。「チフリグリ」とは cheerfully=愉快に快活に、grin=笑うを、カタカナ読みにした言葉。「コレ」という固定観念のない空間を運営している。※6 ビルド・フルーガス-「ほら、鳥が飛んでいる…(エスペラント語)」という意味を持つ。最先端のアートシーンを追いかけるのではなく、独特でユニークなアートシーンが生まれる場所、そして、そこで活動を行っているアーティストに注目し、様々な交流を図ることを目的にしたプラットホーム。※7 GALVANIZE gallery-「石巻のキワマリ荘」一階部分のギャラリースペース。GALVANIZE (ガルバナイズ)の意味:電気を通して刺激する、治療する。駆り立てる、活気づける、活性化する。トタンを英語で、galvanized ironやGalvanized sheet。Luigi Galvani(イタリアの解剖学者1737~1798)の名前から来ている。オーナーが電気屋さんである、建物の外観がトタンである、街の活性化の三つからGALVANIZEとなった。※8 山形芸術界隈-山形ビエンナーレ2016期間中に開催されたアートの市「芸術界隈」(ディレクター・三瀬夏之介)から派生した芸術運動体。「石巻のキワマリ荘」では2018年に年間を通して展示をするというプロジェクトを行った。--------------------------------ちばふみ枝1981年、宮城県石巻市生まれ。2006年、武蔵野美術大学大学院造形研究科美術専攻彫刻コース修了。同年、「ニュー・アート・コンペティション of Miyagi 」に入選。その後、都内を中心に作品を発表。2011年、震災を機にUターン。翌年には地元石巻での初の個展「くすんだベール」を開催。震災体験を共有するクライストチャーチと宮城のアーティストたちの協働企画「 Shared Lines 」に2012年より携わり、せんだいメディアテークでのグループ展と翌2013年のカンタベリーミュージアムでのグループ展に参加。2017年、アーティストの有馬かおる氏が立ち上げたGALVANIZE Gallery 初の企画展にて個展「serendipity」を開催。「石巻のキワマリ荘」内に自身が企画運営を行うアートスペースmado-beyaを2020年1月にオープンし、拠点として活動。窓、カーテン、扉、壁、階段などのモチーフに、記憶の中の風景を組み合わせた造形を特徴とする。レリーフを紐で連結する方法で自立させることで、仮設的な場としての彫刻を制作している。


皆さまこんにちは!代表の鹿野です。クラウドファンディングも残り6日間となりました。そして、皆様からのご支援・ご協力により支援金額が60万円を突破いたしました!ご支援・ご協力いただいた皆さま、本当にありがとうございます。返礼品の種類も先日追加いたしました。販売等を行なっていない参加作家も多くおりますので、ぜひこの機会に作品を購入する感覚でご支援・ご協力いただければと思います。企画展までの期間も残り8日と迫っている中、開催するギャラリーの周辺ではポスターの貼り出しが始まっています。今後も街中で貼り出しの協力をお願いしていきたいと思います!クラウドファンディング終了まで、そして企画展開催までどうぞあたたかいご支援・ご協力をお願いいたします。


thumbnail

東北芸術工科大学大学院の実験芸術領域を卒業後、2009年より山形を中心に活動する現代美術家・大槌秀樹。空洞化した中心市街地や、東北に存在する消滅集落、廃村、鉱山を舞台に、その変化せざるおえなかった、環境や自然に介入した行為を記録し、行為から生まれる事象を映像や写真、パフォーマンスなどで表現している。近年では古代西洋の神々のポージングを用いて、近代化・資本主義の時代の流れから立ち現れる未分化状態な場と、人々の理想美を重ねる事を主体とした制作を行なっている。普段、山形のシェアハウス「ミサワクラス」に暮らし、主に東北で活動している彼はどのような経緯で現代美術の道へ進んだのか。そしてその中で出会った石巻という土地をどのように考えているのだろうか。---------------------------------大槌さんは大学では工芸で漆を専攻していたとお聞きしましたが、最初は職人の道を志していたのでしょうか。大槌 「工芸がやりたい」というのは最初から全くなくて。遡れば、僕は千葉県出身で、予備校が千葉美術予備校っていうところだったんですが、豊福亮さん※1というアーティストの方がいて。越後妻有とか瀬戸内とかで活躍しているアーティストなんだけど。その方が学生で、予備校の講師をでやっていて…。まだ学生だったのに、新潟で一軒家を借りて壁をぶち抜いて中に水路つくり水を流したり、すごい作品を作っていて、その手伝いにいった時に「現代美術ってすげえな」って思っていました。3浪していた時期は毎年夏に手伝いに行っていて、それが楽しくってしょうがなくて。その人の影響をめちゃくちゃ受けた…のかなあ。家庭がそんなに余裕がある家ではなかったから、藝大一本で受けていたんだけど、私大もボチボチ受けていて、3浪目の時に芸工大に受かったんだよね。「3浪だしそろそろ大学行かないとな」と思っていて、学費も比較的安かったし、芸工大に進学することになったんですよね。その時は、絵を書くのが好きだったから、藝大の試験も最後デザイン科で受けていたり…。東京芸大のデザインって平面構成がどっちかというと絵が中心だったんだよね、だから工芸もたまたま工芸に入ったっていう感じだったんだけど。で、芸工大に行って、工芸科に行った時に、金工、陶芸、テキスタイルの他コースがある中で「漆ってなんだこれ?ってなって、なんかわからないけど高級感がすごい!」というのだけで漆を選んだんだよね。演習で作らなきゃいけない時は作ったりしていたけど、それ以外で工芸作品を作ったことはないかなあ…。漆の黒い艶を使ったインスタレーションとかはしていたかな。-現在はパフォーマンスや写真、映像の作品を多く発表していますが、漆芸の時もそのような作品を制作していたのでしょうか。大槌 パフォーマンス映像はなかったんだけど、漆の黒い空間を使った空間を作ったりしていたかな…。インスタレーションっていうよりかは、空間演出をやっていた…かな。当たり前だけど、工芸だから、その学科の先生特有の評価ってものすごく(その道の基準が)あって、その評価の仕方に自分が限界を感じてきてしまったところがあって…そこで「素材を全部なくそう、0に戻そう」と考えました。技術も使えないような状態にして、身体だけで何かできないかと考えて、その方向にいきました。それで院で実験芸術学科に進んだ時に、自ずと身体を使ったパフォーマンスや写真、映像などに表現方法が移行していきましたね。いろんなものを無くして行った時に、自然にその方向に行ったっていう感じですね。でも本当に、0になった感じがあった。2009/《In My Dream》-2009年の院にいたときの作品《In My Dream》は、映像も白黒で、全裸でバケツと水だけを使用した作品だったと思いますが、それをみた時にすごく「削ぎ落とした表現だな」と思いましたね。大槌 かなり長い間白黒でやっていました。さわひらきさん※2っていう映像作家でビデオアートをやっている方がいて、その方の文章を読んだ時にモノクロにしている理由みたいなのが自分と似ているところがあって。そういう映像作家さんの影響を受けていたり。とにかく0になっているので、いろんな人の影響を受けていて、当時だったら田中 功起さん※3とかビデオアートをやっている方の作品を参考にしていたような気がする。2013/《bucket and black》2014/《black action》-《In My Dream》の後に同じくバケツをアイテムとして使用して2013年には《bucket and black》2014年には《black action》を発表していますが、連続した作品として意図しているんでしょうか。大槌 HPだとその間の試行錯誤とかあまり見えないんだけど、この作品と作品の間ではいろいろあって…。院の一番最初はお酒を飲むという作品を作ったこともありました。それが大学院で一番最初にやったパフォーマンスの作品であって…。それは展示の場に自分の部屋を使って、公の場所で俺がお酒を飲んでいるんだけど、呑みまくって「よーし脱ぐか!」って脱いで、ワーワー言って、最終的に吐いてというもので、飲んで、叫んで暴れるっていう作品でした。-身体を使うっていうのは技法を捨てるっていう意味合いが大きかった?大槌 大きかったですね。技術に頼らなかった時に、「じゃあ何をするんだ?」となったときに、アルコールを使った身体の変化を作品にするというところに行き着きました。-アルコールが身体に入って、自分の意図しないところで身体的なものが生まれる、一種の抗えなさみたいなものが生まれますよね。大槌  何もなくなった時こそ、何をするんだろう…。したくなかったら表現しなくてもいいじゃん、まあそれでもいいかなと思っていて。それでこのパフォーマンスを行うことにしました。-見てみたいですね。大槌 俺はみていて、すっごく気持ち悪い笑最後の方なんて目が泳いでしまって、ただ裸で吠えてる人になっているんですよね。当時は精神的に…っていうところがあったのかも、とも思いますね笑当時、若干そういうものが流行っていたっていうのもあったかもしれませんね。予定調和なものに対して問題提起する作品っていうのは。-アーティストになろうと思ったのはいつ頃だったんでしょうか。予備校生時代にはすでにそうなっていたのでしょうか。大槌 全然覚悟とかしていなくて、予備校生の時は「かっこいい!」と思っていました。豊福さんが本当にカリスマ的でカッコ良かったので。だけど、現実はシビアじゃないですか。覚悟を決めなきゃいけないと思ったのは震災後くらいかな。大学を卒業した後にミサワクラス※4というアーティストやデザイナーが集まるシェアアパートに入っていて、そこでプロジェクトや企画があって。大学卒業するとやっぱり(モチベーションが)落ちるんだよね。お金を稼がなきゃいけない、生活して行かなきゃいけない。だから、昔よく「大学在学中に作家にならないと厳しい」っていうのはリアルだなと思ったかな。大学出てからは間違いなく(モチベーションが)落ちて、制作もだいぶその時は迷っていたし。これで本当にやっていけるのか、みたいな。-リアルが差し迫っていく感じですよね。制作する、っていうのはなかなか生活に即していないし、現実は現実で迫ってくるし。というのがアーティストになろう、制作しようっていう気持ちを迷わせますよね。大槌 そうですね。2,3年はかなり迷走していました。迷走しているからって覚悟が決まっているわけではなくて、でもどこかでまだ全然(制作に)納得行っていないというか、思いも考えも表現もまだ全然追いついていない状態なだけで、絶対何か面白いことができるはず、っていうのがどっかにあったから。だからしぶとくやり続けていただけなんですよね。そこで震災があって、それで大学院の最後にやっていたバケツの作品に立ち返って、それまでは迷走したりもしていたんだけど。その立ち返ったときに、今まで透明の水だったバケツの中身を黒くしたんです。それは震災の時に津波が黒かった映像や状況を見て、示唆する意味も含めて。あれはなんだったんだっていう。確実に震災の影響はあって…。-バケツをモチーフにした作品は何作か制作されていますよね。大槌 連続性がないと深まっていかないし、それでバケツをモチーフにした作品を何作か続けて作りましたね。-千葉出身で、東北は遠い地だと思うのですが、いま東北で活動していくのには理由があるんでしょうか。大槌 僕の苗字が「大槌」なんだけど、祖母の家が岩手にあって、年に1,2回来ていて。祖母の家が後ろが山で、目の前には海があって、めちゃくちゃ楽しくて。だから親しみがありましたし、東北には縁がありました。いい思い出ばかりだったし。-普段は山形で活動されていると思いますが、石巻との繋がりはいつ頃だったんでしょうか。現在は「ART DRUG CENTER」で「 MOLE GALLERY -REBORN-」を運営しておりますが、それはどのような経緯で始まったのでしょうか。大槌 石巻との繋がりは、2018年石巻のキワマリ荘が独自に活動を始めた年に、一階のガルバナイズギャラリーにて、一年間山形芸術界隈で展覧会を行うプロジェクトが始まった事がきっかけです。その後、2019年のREBORN参加に向けて、調査していた所、偶然にも分断された廃道を発見し、さらに通うことになりました。「ART DRUG CENTER」に入る事になったのは、2019年のリボーンが閉幕した後、「ART DRUG CENTER」で有馬さんと今後の活動の話をしていた所、目の前にあるタンス(守さんの)が目に入り「このタンスをギャラリーにしたらどうだろう。」というアイデアが突破的にでました。僕は、ちょうど自身が掲げていた「MOLE GALLERY 」というギャラリーの居場所も欲しいなと考えていたため、その場で「MOLE GALLERY-REBORN-」を立ち上げようと決めました。当時今後も石巻の廃道には通おうと考えていたので、よいきっかけとなりました。-山形に来て10年以上経過していますが、思い入れがあってい続けているんでしょうか。大槌 山形はやっぱり、過ごしやすいっていうのもあるし、最近は住んでいる場所が遠くなってしまったけど、後藤さん※4と出会ったのがきっかけで廃村とかに連れて行ってもらったりしていて。バケツを使用した作品と、最近の廃道での作品の間にミサワクラスがある中心市街地での作品があります。-拡声器を使った作品がその二つの間にあって、結構連作で制作していましたよね。その始まりは山形だったんですね。大槌 ミツマススーパーっていうのが山形にあって、そこは昔老舗のスーパーだったんだよね。ある時潰れてしまったんだけど、夜逃げさながらで出て行ってしまったみたいで、全部建物の中に残っていて。そこをたまたま発見して。そこに頼んで入らせてもらって。そこの中に入ったら、ミツマス版のスーパーの音楽のカセットテープがあったり、「いらっしゃい」って呼びかけするための拡声器があったんですよね。それをもらってきて…。バケツとか拡声器って自分の中でゲームのアイテム的なイメージがあって、アイテムと身体っていう組み合わせが出来上がっているところだったので「今回のテーマは身体と拡声器と夜逃げだろ。」っていうふうになって…。夜の街の中でミツマスの拡声器を持って走ってもらうっていうパフォーマンスをしていて。夜、空洞化して人がいない中で、拡声器を持って走っている、まるでミツマスの亡霊がいるかのように声を拡張させて響かせるという表現に行き着きました。僕にとっては拡声器は今でも自分にとっては重要なアイテムですね。-今は廃道とか森とかと作品が近くなっていると思うんですが、今のアイテムは何かあるんでしょうか。大槌 今のアイテムは、そこから…拡声器もたまには使うんだけど、必然的になったくまよけの鈴とか、ホイッスル、花火とか、自ずと山に入る時に使う必需品がアイテムになりました。それが、今のアイテムかな…。さらにそこに最近はオリンピックとかけて、トーチとか、火がアイテムになりつつあります。-廃道の時くらいから色が作品に出てきたと思うのですが、それは自分の中で何かが変化したからなど明確な理由があるのでしょうか。大槌 白黒にしている意味がなくなってきた、というか…。白黒からカラーになったのは、今まで都市で撮影していることが多くて、しかも夜が多かったからという理由があって…。でも森に入ったら緑が強烈だったので、これを白黒にする意味がないな…と。2018/Unknown Gots-《Unknown Gots》の緑もとてもいいですよね。大槌  でもここも結構曰く付きの場所で…。ここはダイナマイト事故で何十人も亡くなっている心霊スポットらしいよ。ここは後藤さんと一緒に行って…。結構雰囲気が怖かったんだけど、心霊スポットっていうのもあるし熊がいたから…。その時は道がわからなかったから近くに車を止めて、15分くらい歩いてここにたどり着いたかな。後々は車で行ったんですけど。道もあるかないかギリギリのところに行くので、車も入ったら出れなくなっちゃうんじゃないかなって。-大槌さんはこれからも山形で作家活動を続けていく予定ですか。大槌 それがね、どうなんだろうね。今石巻が一番興味があったり、後今はコロナでいけてないけど、北海道の炭鉱跡地に、一回リサーチしたことがあるんだけど、また春くらいには行けるかなと思うんだけど、そこにも興味があって。山形にこだわっているわけでもないんだけど、かといって離れる理由もないくらいかな…。キワマリ荘いいよね。ギャラリーがちゃんとついてるじゃん。僕もまだミサワクラスにいるんだけど、ちゃんとした展示空間があるのはいいなと思った。最初、ミサワクラスもプロジェクトをたくさんやって、結構綺麗で部屋で展示とかもしていたんだけど。一つしっかり投資したギャラリーがあると、違うなって思ってしまった。-リボーンがあったからっていうのと、有馬さんが来てくれて確実に石巻のアートシーンは変わったと思います。大槌 ミサワクラスも、もしかするとちゃんと投資した展示空間があればまた違うのかな、と思ったり…。ミサワクラス-展示するスペースが街の中にあるだけで違いますよね。アーティストも、そうなりたいと思う人も展示できる空間があるのはいいなと。建物はそう簡単にはなくならないので、それも保証があるっていうか。大槌 それがいいよね。ミサワクラスでプロジェクトやっていた時は、「アートをする」というよりも「プロジェクトをする」という感じだったし…。もっと、「アーティストを育てる」っていう感じだったらまた大きく変わったのかもしれないけど。じゃあ、自分がやれよ、って言われたらそんな投資も当時できなかったし…。自分の部屋を「MOLE GALLERY」と言って展示空間にしてみたけど、自分の部屋だから他の人は使いにくいんだよね。-そうですね。結局は人の部屋を借りてしまう、ということになると思うので。大槌 そういうのもあって、今じゃあ自分の部屋をギャラリーにする必要があるか?って言われるともう全然なくって。だから今「ART DRUG CENTER」で「MOLE GALLERLY」っていうのをタンスを使ってやっているんだけど、もう自分の部屋を使う必要はないかなって。-東北芸術工科大学がある分、山形にはアーティストになりたい人も多いのではと思うのですが、どうでしょうか。大槌 山形の不思議なのは、現代美術を取り扱うギャラリーがそもそもないんだよね。大学の中にはあると思うんだけど。-ギャラリーが一個あると違いますよね。私が高校生の時は(2014年)石巻にアート的な施設はなかったので。大槌  キワマリ荘が回り始めたときに、僕とか後藤さんは「石巻面白い」って。山形は人材的にはたくさんいるはずなのに、大学があって大学の力が悪い意味じゃないんだけど、強いから。そこからはみ出た人は、全くもって自力でやるしかなく…。かといって自力でやったとしても、街に出たってギャラリーはないわけで…。人材はいるのに、なぜか大学以外になると一切がやりづらくなり、っていう場ではあるんだよね。だからって、僕がやる必要性も感じてなくて。さっきの話に立ち戻ると、山形にこのままいるのかいないのか問題に関しては、僕も、ちょっとよくわからないかな、最近は特に。かといって、大学が僕が嫌なわけではないし、好きな先生もいるけど、じゃあいつまで大学に頼るんだろう…とか。地方特有なのかなあ?と思ってしまう。一強というか。-地方にはそういった意味で余白があるとは言われますが、私としてはそういう話を聞くと、そんなに余白はあるのかな?と思ってしまうんですよね。大槌 俺もそんなに言われているようには余白があるようには感じていなくて。俺は逆に、多様性に寛容と思わせておいて、そんなことないんじゃないかなって。どちらかというと全体主義的な。みんな作品が似てくるみたいな、そういうのを地方で感じていて…。それがどんどん活躍する人が出てくるとより一層、山形だけではなくて東北全体がその色になっていくんじゃないかっていうふうに感じていて、それは僕の好みじゃないなっても思っていて、そこは若干懸念していて。それは今後どうなんだろ、とは思っています。-そうですよね。私は京都の美大に通っていたんですが、結構中退する子も周りに多かったりするんですが、先生とかが個別に授業っていうか指導とかもしていたりするんですよね。指示する先生的な人が街にいれば、大学卒業できなくてもそういう感じで救われていると思うんですよね。そういうふうに救われてくれる人がいてもいいと思うんですよね。それでいうとミシオさんとかはその前例を石巻に作ったんじゃないかなと思います大槌  たしかに。有馬さんも先生的な存在としていますよね。-いろんな人がいて、そういうのを救えるような存在がいるのがこれからの石巻とか大袈裟に言えば東北のアートシーンにつながるんじゃないかなって思うんですよね。大槌  そうだよね。東北はそういう色が薄いよね。あと、中退すると結構大学と関わり持てないんだよね。地方だと働くところも少ないから、中退してもその地に残るっていうパターンは少ないよね。よっぽど何かがないと、地元に帰っちゃうよね。-意外と家賃とか安くないし。っていうのもありますよね。大槌 今は唯一ネットが使えるっていうのは活路が見出せそうではあるかもだけどね…。-地方は特にあんまり活動の方向が見えないですよね。大槌 それにしても、石巻は楽しそうな感じがする。クオリティとかがすごく高いし、一回ハードルあげるとそれを保とうとするから下がらないと思うし。あとは認知されていくと思うし、全然続けていくのがいいと思う。周りの評価を気にせずに。-じゃあ何かに頼ってやっていくのか、と言われたらそれもどうなのかなと思いますし。大槌 Reborn-Art Festivalとか大きい祭りに頼っていくっていうかそれよりは独自でやっていくのがいいと思う。まあ、気張らず、淡々と続いていけばそれが積み重なっていくからな…。まずやらないと見に来ないから、それが重要だよね…。っていうのを自分にも言い聞かせてるんだけど笑-続けて行けるように頑張ります笑(2021年7月22日 収録) text:山田はるひ※1豊福亮 -1976年東京都生まれ。2000年株式会社OfficeToyofuku 創設、千葉美術予備校創立、学校長就任。美術に関わる人材の育成に取り組む一方、芸術祭を中心として自身の作品を展開。大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ2006、09、12、15、18、神戸ビエンナーレ2007、瀬戸内国際芸術祭2010, 13 参加。※2さわひらき -1977年石川県生まれ。 ロンドン大学スレード校美術学部彫刻家修士課程修了。 多数の小さな模型飛行機がアパートの一室をゆったりと飛び回る、穏やかな映像作品《dwelling》(2002)でアーティストとしてデビュー。※3田中 功起 -日本の美術家・映像作家。栃木県出身。東京造形大学客員教授。※4ミサワクラス -元旅館のシェア・アパート『ミサワクラス』。美術家・音楽家・写真家・建築士・デザイナー等、様々な人が共同生活や制作活動、展覧会を開催。--------------------------------大槌 秀樹 1981年、千葉県生まれ。山形を拠点に活動。空洞化した中心市街地や、東北に存在する消滅集落、廃村、廃道を舞台に、その変化せざるおえなかった、環境や自然に介入した行為を記録。行為から生まれる事象を映像や写真、パフォーマンスなどで表現している。近年では古代西洋の神々のポージングを用いて、近代化・資本主義の時代の流れから立ち現れる未分化状態な場と、人々の理想美を重ねる事を主体とした制作を行なっている。主な展覧会に『札幌国際芸術祭 2020 新型コロナウイルスのより中止 - webと書籍にてプランのアーカイブ化に参加』(2020年)、個展『分断と祈り』(@Cyg art gallery・2020年)、『Reborn-Art Festival 2019』(@石巻市街地エリア・2019年)、『第22回 岡本太郎現代芸術賞展』(@川崎市岡本太郎美術館・2019年)。