私が鍵林に嫁に来た頃(あらら50年以上も前(;^_^)。お煎餅作りは朝の3時ころから始まっていました。舅や主人、流通経済大学一期生のアルバイトさんが夜明け前から7時頃まで米を蒸したり、様々な作業をして、お煎餅の生地(きじ=うるち米を蒸した餅状のもの)を作ります。
7時頃休憩と朝食を摂り、8時から、社員が集まって製造を始めます。社員と言ってもオバちゃんで、重労働だから足腰も丈夫、口も達者の皆さん。ペエぺエの嫁は隠れてみているだけ。
蒸し上がった生地が幅広の布のような形で出てくると、一列になった丸い金型の下を通ってポンポンと湯気の上がった柔らかい煎餅が出できます。ベテランのオバさんが型抜きした後の生地を棒でくるくると巻き上げ、型抜きされて、ぞろぞろ出てくる生地の先には天日干しにするための四角い金網をもって違うオバちゃんが待ち構えています。
蒸し機の熱い蒸気のこもる中で、あ、うんの呼吸で流れ作業が続きます。生地が柔らかすぎると、巻き上げるオバちゃんの行動は凄まじい早さで、垂れる生地を高速回転で巻き取るのです。(巻き上げのできるオバちゃんは姑も恐れるボスでした(;^ω^))
そのあと天日干し用に作った屋根に生地の乗った思う金網をはしごに乗ってリレーで干すのです。
と、昔のことで覚えているのはそこまで。「仕事はやらせない」(???)との主人との約束通り普通の嫁さんのように、家に入っていたので、経過がおぼろなのですが、一番大変な生地作りは名乗り出た会社にコツを伝授したり、県内の専門の生地やさんに特注したりで生地作りは 中断しました。
30年後、餅米で揚げ餅の生地を作るようになりましたが、その頃には自動生地乾燥機などが導入され、朝3時からの仕事はなくなりました。
こうして思い出して書いていると、その朝仕事の光景はまざまざと脳裏に浮かぶのですが、わからないことが山ほど。舅も主人も亡くなってしまい、コロナ禍で姑にも会えません。
記録はもう何もない・・ 記録するって大切だね(^^♪
今日もたくさんの方々からご支援を頂きました。ちゃんと記録して対処しますね!本当にありがとうございました_(._.)_