クラウドファンディング終了まであと4日となりました。もし面白かったらぜひTwitterかFacebookでシェアお願いいたします!SNSをされていない方は「LINEで送る」からLINE VOOMに投稿いただけると本当に嬉しいですm(__)m===元祖 鯱もなか本店です。『嗚呼、ロックな日々 編』『ブラック企業に就職、そして大手商社へ 編』『絶頂期にドクターストップ、そして独立へ 編』と続いてきたシリーズもいよいよ最終章となりました。会社員から独立し、自身の事業で生計を立てるようになった私(社長の夫)ですが、2020年に大きな転機が訪れます。言わずと知れた世界的なパンデミックへの突入です。とは言っても。当時のメイン事業への影響はそこまで大きくありませんでした。外出や移動が制限されたことについては、オンライン化への対応で乗り切ろうとしていました。ですが、別の部分で不穏な空気が流れ始めました。妻の実家が長年家業として営んできた「元祖 鯱もなか本店(以下当店)」のかつてない異変です。当店は明治40年(1907年)に創業し、戦前から名古屋の土産菓子を製造販売するお菓子屋です。これまでの歴史についてはこちらの活動報告で詳しく説明していますのでぜひご覧ください。私としても妻の家業としてそこにあるのが当たり前だった当店が、いよいよ無くなることになりそうでした。100年以上続いてきた歴史といえども担い手がいなければあっけなく消える、当たり前のことですが自分たちが直面した時の喪失感は想像を超えるものでした。この状況を打開するにはどうしたらいいのか、いくら考えてもわかりませんでした。私たち夫婦は菓子製造販売の知識も経験もなかったからです。そこで最初に取った策は専門家への相談でした。商工会議所に行き現状を伝え、なんとか当店を残すことができないかできる限りの方法を模索しました。M&Aで会社を売却することも提案され、一通りの方法を検討しましたが正解はわかりませんでした。そんな中でスッと道が開けた気がした出来事が、Facebookのコロナ支援グループへの出品です。掲載すると驚くほどの注文があり、あっという間に在庫が無くなりました。そこで気づいたのです。同じ商品でも、見せ方や宣伝する場所を変えるだけで驚くほど売れるようになるんだと。私たちは鯱もなかの可能性を信じ、このお店を継ぐことを決意しました。まず取り組んだのは1にも2にもオンラインの強化でした。元々消えゆく準備をしていたお菓子屋です。そのまま引き継いでも消えてしまうのです。いくら作っても買い手がいなければお菓子屋であり続けることはできません。そして、最初に着手したのがWebサイトの一新です。当店は紛れもない老舗なのです。それが伝わるWebページが必要だと確信していました。老舗といっても格式ばらずに親しみやすい、長年培ってきた雰囲気を出さなければいけない。オンラインの全ての入口であるホームページに徹底的にこだわって制作しました。当然プロのWebデザイナーが入っていますが、細かく指示を出し全体的な雰囲気を作り上げたのは妻です。妻が最も得意とする分野はデザイン。彼女は社長でありデザイナーなのです。そして、同時にSNSと公式LINEを整備しました。SNSで力を入れたのがInstagramです。お菓子屋なので購買意欲を刺激する美味しそうな写真を増やしていこうと考えました。そしてLINEではお得情報などの発信を始めました。ですが、当初はそれほど大きな反応はありませんでした。コツコツ投稿したり知人に宣伝することで、確かにサイトからの売上は増えましたが、全体ではコロナ前の足元にも及びません。それがある日を境に、ガラッと状況が変わります。2021年9月11日に当店が掲載されたYahoo!ニュースの記事です。この記事が掲載された瞬間に100件を超える注文がありSNSのフォロワーが急激に増え始めました。何が起こっているのか目を疑いましたが現実のようでした。後にこの記事のPV数(閲覧数)が63万を記録したことを知り、勢いの理由に納得しました。記事を書いてくださったのは名古屋ネタライターの大竹敏之さんです。この日を境に様々なメディアに取り上げられSNSでの反響も圧倒的によくなりました。たった一日のできごとだったのですが、実は大竹さんとのご縁は2009年まで遡ります。私は大学生の頃、ヴィレッジヴァンガードでアルバイトをしていました。当時の店長とはアルバイトを辞めた後も交流があり、ある時必読書として薦められたのが大竹さん著の「東海珍名所九十九ヶ所巡り」でした。この本に感銘を受け、私は結婚前の妻と連れ立って珍スポットを巡るようになりました。当時はブラック企業勤めの生活に苦しんでいたタイミングです。表情を失った私の唯一の癒しが週末の珍スポット巡りでした。ある日、本を片手に愛知のキングオブ珍スポット「五色園」に到着した時のこと。何やら施設を見学している団体がいるようでした。その中に案内役の方がいて「・・・先生、大竹先生」と呼ばれていました。なんと、私が片手に持っているその本を書いた御本人がそこにいたのです!そのまま五色園の修復作業に参加させていただきました。そして9年後、まだコロナが流行る前の2018年、豊田市で行われていた野外フェスに行った際にも偶然お見掛けし、お話しさせていただきました。初めて鯱もなかのことをお話しした記憶がありますが、その時にはまさか自分たちが継ぐなどとは考えてもいません。このご縁が12年越しにこのバズ記事に繋がるなんて世の中本当に不思議なものです。ブラック企業で苦しんでいた時の私が知ったらどう思うでしょう。当時の妻と私を並べて、こんな嘘みたいな本当の話を聞かせたら驚くだろうな、なんて想像するだけでもニヤニヤしてしまいます。廃業寸前だった当店の復活劇は始まったばかりです。ウイルスの変異などで状況はガラリと変わりますし、少しでも油断したらどうなるかわかりません。だからこそ今は前だけを向いて描いた未来をその通りに創る!それだけを考えています。改装の計画やこのクラウドファンディングも明るく楽しい未来にたどり着くための手段です。それは一人で手に入れることができません。夫婦で二人三脚で、先人も次世代も一緒になって、一緒に働く仲間と同じ方向を向いて、取引先様と良い仕事をして、お客様に必要とされて始めて実現することができるはずです。これからも元祖 鯱もなか本店は「名古屋らしくて見て楽しい、食べて美味しい」お菓子をお届けして参ります。明治40年からずっと在るお菓子屋はこれからもここに在り続けます。どうか、今後とも末永いお付き合いのほど、何卒!何卒よろしくお願いいたします!===クラウドファンディング終了まであと4日となりました。もし面白かったらぜひTwitterかFacebookでシェアお願いいたします!SNSをされていない方は「LINEで送る」からLINE VOOMに投稿いただけると本当に嬉しいですm(__)m
元祖 鯱もなか本店です。先ほど公開したリターンで分かりづらい点がありました。リターンの修正ができないため、こちらに正しい内容を記載いたします。大変申し訳ございません。「サイズの選定方法」についてこちらで改めてご案内いたします。===サイズはフリーザイズです。サイズは15種類からお選びいただけます。※サイズ表をご確認の上、必ず備考欄にご希望のサイズをご記入ください。(原文ママ)===とありますが、サイズはフリーサイズではございません。失礼いたしました。また、お選びいただけるサイズは15種類ではなく以下の13種類となります。上段の120~XXXLの中よりお選びいただき備考欄にご記入をお願いいたします。以上となります。ご確認いただけますと幸いです。分かりづらい状態で公開してしまい、大変申し訳ございませんでした。
元祖 鯱もなか本店です。リターンを追加しました!以前アンケートを取った時にリクエストが多かったTシャツに缶バッジを2個つけてお届けいたします。このTシャツのデザインはクラウドファンディングのリターン限定品で、今後の追加製作はありません。ぜひこの機会にご支援いただけますと大変幸いです。プロジェクトも残り5日。目指すのはただ一点、100%です!!!皆さまにご来店いただきゆったりとお菓子とドリンクを楽しんでいただき、ワクワク楽しめる空間を作り上げて参ります。最後まで全力でやり抜きますので、ぜひご協力のほどよろしく願い申し上げます!===ぜひこの投稿をSNSでシェアお願いいたしますm(__)mいつも本当にありがとうございます!心より感謝申し上げます!
クラウドファンディング終了まであと5日となりました。もし面白かったらぜひTwitterかFacebookでシェアお願いいたします!SNSをされていない方は「LINEで送る」からLINE VOOMに投稿いただけると本当に嬉しいですm(__)m===元祖 鯱もなか本店です。『嗚呼、ロックな日々 編』『ブラック企業に就職、そして大手商社へ 編』はお楽しみいただけたでしょうか?今回は当店の社長の夫である私が、フリーターパンクロッカーからトップ商社マンになった後に陥った悲劇、そして独立へと至った経緯についてお伝えしたいと思います。当時は東南アジアを飛び回りながら、国内の重要顧客を担当し、社内のプロジェクト推進やチームのマネジメントなど、多忙に多忙を極めました。その結果どうなるかというと、必然的に勤務時間が増えていきます。働き方改革やリモート化が進んだ昨今では文字にもできない恐ろしい労働時間となり、休みも寝る間もありませんでした。そのままいけば順調に出世コースに乗れたはずでしたが、取り付かれたように働き続ける日々を2年ほど続けた結果、過労で倒れてしまいました。身体が悲鳴を上げていたことに気づかず無茶を続けてしまっていたのです。するとどうなったか。自分がいないと成り立たないと強迫観念に駆られていたその職場も、他のメンバーだけで何とか回っていくのです。そこで気づきました。「こんなに無理しなくても良かったんだ」「いつしか自分や家族より重視していた世間なんて虚像だった」そして「自立しよう」と決めました。その時の私は31歳でした。紆余曲折ありたどり着いたのが空間活用ビジネスでした。当初は会社員をしながらの副業でしたが、のちに独立することができました。空き家や空き部屋を資源として捉え、リノベーションしたり有効活用することで新たな付加価値を生み出すモデルです。その時既に専業主婦となっていた妻ですが、芸大卒で手先が器用でデザイン感覚が優れているので、サポートしてもらいながら二人三脚で進めていきました。副業感覚で始めたので安定的な売上を確立するのは容易ではありません。そこで私が着目したのがブラジル人コミュニティでした。故郷を遠く離れ、地球の裏側から日本に渡ってきた在日ブラジル人の方が多数存在しています。そんなブラジル人の一人と私は親友になりました。彼の名を仮にルーカスとします。ルーカスは8歳の時に家族と日本に渡ってきました。わけあって15歳で一人になり、それ以来自力で生計を立ててきた逞しい男です。100キロ以上ある大男なのでパッと見は怖いです。彼は家族の愛に恵まれずに育ちました。それでもその家族が病気になったとき、自分が働いて貯めたお金を全部渡してブラジルに帰らせました。自分はひどい目に合ってきたが、最期くらい故郷で過ごさせてあげたいと思ったのだそう。ルーカスは愛の人なのです。彼には美人の奥さんと天使のような二人の小さな娘さんがいて、子供たちには「何でも自分でできるように」するのが教育方針です。自分が苦しんだからこそ子供たちが困らないようにと、彼は愛を注いでいるのです。実際に怖い見た目とは裏腹に、彼はとても熱心なクリスチャンです。私もよく教会に招かれ礼拝に参加したり、一緒に食事をするなどおもてなしされました。信仰には馴染みが薄い私ですが、ブラジル人たちの教会に行って驚いたことが大きく二つあります。一つ目は、賛美歌をバンドスタイルで斉唱し、ロックのライブさながらにスタンディングオベーションが起きること。二つ目は、礼拝が終わるとBBQパーティーが始まることです。ブラジルで好まれる牛肉の部位「ランプ」を塩コショウで味付けしたら豪快に焼き上げ、細く切り分けます。誕生日の人がいる場合は、女性たちがキッチンで沢山のケーキを作ります。鮮やかな緑や黄色や青や赤のケーキに大人も子供も大喜びです。彼らブラジル人は教会を中心にコミュニティを形成しており、すっかり私も入り込んでいきました。底抜けに明るい彼らですが、実は日本語ができずに生活に困るブラジル人もたくさんいます。言葉や文化の壁が分厚く存在しているのです。ルーカスはある時「日本人はインド料理屋には気軽に入るけどブラジル料理屋には入らないね」と寂しそうに笑っていました。そんな壁を取り払い、困っているブラジル人のために住まいなどの空間を提供しようというのが、ルーカスと私の作戦です。その結果、田舎の限界集落に教会を中心とした相互扶助のコミュニティが生まれ、消えゆくはずだった町に息吹が芽生えました。この話題が注目を集め、私はルーカスと一緒に地域の高校に呼ばれ、国内での国際交流の事例として紹介しました。更には、九州の大学に招かれ、衰退地域での「まちづくり」の成功事例として講演するまでに至ります。いつの間にか独立を実現し、この仕事を生業として生きていくんだろうなと思い始めた矢先に世の中に激震が走りました。そう、世界中を恐怖に陥れた"あの"パンデミックの始まりです。次回最終回「出会って跡を継ぐまでの18年 ~廃業までのカウントダウン そして伝説へ 編~」===クラウドファンディング終了まであと5日となりました。もし面白かったらぜひTwitterかFacebookでシェアお願いいたします!SNSをされていない方は「LINEで送る」からLINE VOOMに投稿いただけると本当に嬉しいですm(__)m===
===========クラウドファンディング終了まであと8日となりました。もし面白かったらぜひTwitterかFacebookでシェアお願いいたします!SNSをされていない方は「LINEで送る」からLINE VOOMに投稿いただけると本当に嬉しいですm(__)m===========元祖 鯱もなか本店です。前回の記事では妻がフリーターのパンクロッカーである私と、縁を切らされる流れになったことをお伝えしました。4年ほどの交際期間の中で最大のピンチです。私は起死回生のアイディアを思いつきました。それはパンクロッカーだった私としては最大の屈辱を伴う選択。覚悟を決め、向かった先は「ハローワーク」でした。就職して抑圧されても魂はセルアウトしない!そんな意気込みで初めて就職した先が見事なブラック企業でした。高額商品を販売する営業職として配属されたのですが、入社初日すぐに違和感を覚えました。同じ部署の上司や先輩社員のヘアスタイルが例外なくオールバックだったのです。事務所には怒号が響き渡り、机や椅子が蹴り飛ばされるのは日常茶飯事でした。若手社員ほど過酷な環境へのストレスが大きかったのでしょう。ある日、給湯室に入ると壁に「死」と刻んであった時には心底ゾッとしました。私も例外なく徹底的に追い詰められ深夜残業が続く中で、これまで培ってきた小さな自信は崩れ落ち、生きる意味を見失っていきました。そんな時期も心の支えになってくれたのは妻で「何があっても必ず結婚する!」というのを目標に、表情を失い胃をズキズキさせながらも毎日を生きていました。遂に身も心も持たなくなり、逃げるように転職した先もまたブラック企業。拾う神は存在しないのだと絶望に苛まれました。しかし転機は訪れます。常に転職先を探して応募していた中で、ある大企業の面接が決まったのです。それは地元に本社がある大手商社でした。普通の大学を出てフリーターのパンクロッカーからブラック企業を転々としてきた私です。就職の人気ランキングで常に上位にある総合商社のグループ企業に入れるとは夢にも思いませんでした。それがなぜか面接に合格。私は商社マンになりました。年下の先輩は名門大学のラグビー部で主将だったような、筋肉隆々で頭脳は明晰。コミュ力抜群の超人じみた人ばかり。後輩ができたと思えば東大の大学院卒だったり、バスケの人気選手だったりします。この集団の中でなにができるのか。周りのレベルに全くついていけず自分の経歴が惨めでした。そんな中で第一子を授かりました。会社員として安定的な生活が見えてきたこともり、出会って7年越しに結婚。かわいい長男が生まれたことによりスイッチが入り「僕の魂はパンクだ!エリートには負けない!」と燃え上がりくらいつくように仕事をしました。その結果、業界を揺るがす巨大なプロジェクトのメンバーに選ばれ、結果は見事成功。連結数万人の中で年間3組しか選ばれない「社長賞」を受賞しました。フリーターのパンクロッカーからブラック企業を転々としていた私がトップ商社マンになったのです。その後、国内で成功したプロジェクトを横展開するため、海外担当となり東南アジアを飛び回りました。英語もろくにできないままGoogle翻訳を頼りに現地人担当者とハードな商談をするのが私の仕事。交渉成立すれば大型貨物船が一隻動く、スケールの大きさが快感でした。こうしてドン底から這いあがり栄光を掴み取ったように思えたのもつかの間。その先には更なるピンチが待ち受けていたのです。次回「出会って跡を継ぐまでの18年 ~絶頂期にドクターストップ そして独立へ 編~」===========クラウドファンディング終了まであと8日となりました。もし面白かったらぜひTwitterかFacebookでシェアお願いいたします!SNSをされていない方は「LINEで送る」からLINE VOOMに投稿いただけると本当に嬉しいですm(__)m===========