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創業明治40年「元祖鯱もなか本店」に居心地のいい空間をつくりたい!

名古屋市の創業明治40年「元祖鯱もなか本店」に、地元の皆さまが居心地のいい毎日を過ごしてもらえるような空間を創りたい!当店自慢の「鯱もなか」を召し上がっていただき、和菓子を身近に感じてもらうきっかけを作り、そこに集まる皆さまが交流を深められる『空間と時間』を提供したいと思っています。

現在の支援総額

3,608,870

120%

目標金額は3,000,000円

支援者数

676

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2022/01/15に募集を開始し、 676人の支援により 3,608,870円の資金を集め、 2022/02/27に募集を終了しました

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創業明治40年「元祖鯱もなか本店」に居心地のいい空間をつくりたい!

現在の支援総額

3,608,870

120%達成

終了

目標金額3,000,000

支援者数676

このプロジェクトは、2022/01/15に募集を開始し、 676人の支援により 3,608,870円の資金を集め、 2022/02/27に募集を終了しました

名古屋市の創業明治40年「元祖鯱もなか本店」に、地元の皆さまが居心地のいい毎日を過ごしてもらえるような空間を創りたい!当店自慢の「鯱もなか」を召し上がっていただき、和菓子を身近に感じてもらうきっかけを作り、そこに集まる皆さまが交流を深められる『空間と時間』を提供したいと思っています。

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元祖 鯱もなか本店です。先ほど公開したリターンで分かりづらい点がありました。リターンの修正ができないため、こちらに正しい内容を記載いたします。大変申し訳ございません。「サイズの選定方法」についてこちらで改めてご案内いたします。===サイズはフリーザイズです。サイズは15種類からお選びいただけます。※サイズ表をご確認の上、必ず備考欄にご希望のサイズをご記入ください。(原文ママ)===とありますが、サイズはフリーサイズではございません。失礼いたしました。また、お選びいただけるサイズは15種類ではなく以下の13種類となります。上段の120~XXXLの中よりお選びいただき備考欄にご記入をお願いいたします。以上となります。ご確認いただけますと幸いです。分かりづらい状態で公開してしまい、大変申し訳ございませんでした。


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元祖 鯱もなか本店です。リターンを追加しました!以前アンケートを取った時にリクエストが多かったTシャツに缶バッジを2個つけてお届けいたします。このTシャツのデザインはクラウドファンディングのリターン限定品で、今後の追加製作はありません。ぜひこの機会にご支援いただけますと大変幸いです。プロジェクトも残り5日。目指すのはただ一点、100%です!!!皆さまにご来店いただきゆったりとお菓子とドリンクを楽しんでいただき、ワクワク楽しめる空間を作り上げて参ります。最後まで全力でやり抜きますので、ぜひご協力のほどよろしく願い申し上げます!===ぜひこの投稿をSNSでシェアお願いいたしますm(__)mいつも本当にありがとうございます!心より感謝申し上げます!


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クラウドファンディング終了まであと5日となりました。もし面白かったらぜひTwitterかFacebookでシェアお願いいたします!SNSをされていない方は「LINEで送る」からLINE VOOMに投稿いただけると本当に嬉しいですm(__)m===元祖 鯱もなか本店です。『嗚呼、ロックな日々 編』『ブラック企業に就職、そして大手商社へ 編』はお楽しみいただけたでしょうか?今回は当店の社長の夫である私が、フリーターパンクロッカーからトップ商社マンになった後に陥った悲劇、そして独立へと至った経緯についてお伝えしたいと思います。当時は東南アジアを飛び回りながら、国内の重要顧客を担当し、社内のプロジェクト推進やチームのマネジメントなど、多忙に多忙を極めました。その結果どうなるかというと、必然的に勤務時間が増えていきます。働き方改革やリモート化が進んだ昨今では文字にもできない恐ろしい労働時間となり、休みも寝る間もありませんでした。そのままいけば順調に出世コースに乗れたはずでしたが、取り付かれたように働き続ける日々を2年ほど続けた結果、過労で倒れてしまいました。身体が悲鳴を上げていたことに気づかず無茶を続けてしまっていたのです。するとどうなったか。自分がいないと成り立たないと強迫観念に駆られていたその職場も、他のメンバーだけで何とか回っていくのです。そこで気づきました。「こんなに無理しなくても良かったんだ」「いつしか自分や家族より重視していた世間なんて虚像だった」そして「自立しよう」と決めました。その時の私は31歳でした。紆余曲折ありたどり着いたのが空間活用ビジネスでした。当初は会社員をしながらの副業でしたが、のちに独立することができました。空き家や空き部屋を資源として捉え、リノベーションしたり有効活用することで新たな付加価値を生み出すモデルです。その時既に専業主婦となっていた妻ですが、芸大卒で手先が器用でデザイン感覚が優れているので、サポートしてもらいながら二人三脚で進めていきました。副業感覚で始めたので安定的な売上を確立するのは容易ではありません。そこで私が着目したのがブラジル人コミュニティでした。故郷を遠く離れ、地球の裏側から日本に渡ってきた在日ブラジル人の方が多数存在しています。そんなブラジル人の一人と私は親友になりました。彼の名を仮にルーカスとします。ルーカスは8歳の時に家族と日本に渡ってきました。わけあって15歳で一人になり、それ以来自力で生計を立ててきた逞しい男です。100キロ以上ある大男なのでパッと見は怖いです。彼は家族の愛に恵まれずに育ちました。それでもその家族が病気になったとき、自分が働いて貯めたお金を全部渡してブラジルに帰らせました。自分はひどい目に合ってきたが、最期くらい故郷で過ごさせてあげたいと思ったのだそう。ルーカスは愛の人なのです。彼には美人の奥さんと天使のような二人の小さな娘さんがいて、子供たちには「何でも自分でできるように」するのが教育方針です。自分が苦しんだからこそ子供たちが困らないようにと、彼は愛を注いでいるのです。実際に怖い見た目とは裏腹に、彼はとても熱心なクリスチャンです。私もよく教会に招かれ礼拝に参加したり、一緒に食事をするなどおもてなしされました。信仰には馴染みが薄い私ですが、ブラジル人たちの教会に行って驚いたことが大きく二つあります。一つ目は、賛美歌をバンドスタイルで斉唱し、ロックのライブさながらにスタンディングオベーションが起きること。二つ目は、礼拝が終わるとBBQパーティーが始まることです。ブラジルで好まれる牛肉の部位「ランプ」を塩コショウで味付けしたら豪快に焼き上げ、細く切り分けます。誕生日の人がいる場合は、女性たちがキッチンで沢山のケーキを作ります。鮮やかな緑や黄色や青や赤のケーキに大人も子供も大喜びです。彼らブラジル人は教会を中心にコミュニティを形成しており、すっかり私も入り込んでいきました。底抜けに明るい彼らですが、実は日本語ができずに生活に困るブラジル人もたくさんいます。言葉や文化の壁が分厚く存在しているのです。ルーカスはある時「日本人はインド料理屋には気軽に入るけどブラジル料理屋には入らないね」と寂しそうに笑っていました。そんな壁を取り払い、困っているブラジル人のために住まいなどの空間を提供しようというのが、ルーカスと私の作戦です。その結果、田舎の限界集落に教会を中心とした相互扶助のコミュニティが生まれ、消えゆくはずだった町に息吹が芽生えました。この話題が注目を集め、私はルーカスと一緒に地域の高校に呼ばれ、国内での国際交流の事例として紹介しました。更には、九州の大学に招かれ、衰退地域での「まちづくり」の成功事例として講演するまでに至ります。いつの間にか独立を実現し、この仕事を生業として生きていくんだろうなと思い始めた矢先に世の中に激震が走りました。そう、世界中を恐怖に陥れた"あの"パンデミックの始まりです。次回最終回「出会って跡を継ぐまでの18年 ~廃業までのカウントダウン そして伝説へ 編~」===クラウドファンディング終了まであと5日となりました。もし面白かったらぜひTwitterかFacebookでシェアお願いいたします!SNSをされていない方は「LINEで送る」からLINE VOOMに投稿いただけると本当に嬉しいですm(__)m===


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===========クラウドファンディング終了まであと8日となりました。もし面白かったらぜひTwitterかFacebookでシェアお願いいたします!SNSをされていない方は「LINEで送る」からLINE VOOMに投稿いただけると本当に嬉しいですm(__)m===========元祖 鯱もなか本店です。前回の記事では妻がフリーターのパンクロッカーである私と、縁を切らされる流れになったことをお伝えしました。4年ほどの交際期間の中で最大のピンチです。私は起死回生のアイディアを思いつきました。それはパンクロッカーだった私としては最大の屈辱を伴う選択。覚悟を決め、向かった先は「ハローワーク」でした。就職して抑圧されても魂はセルアウトしない!そんな意気込みで初めて就職した先が見事なブラック企業でした。高額商品を販売する営業職として配属されたのですが、入社初日すぐに違和感を覚えました。同じ部署の上司や先輩社員のヘアスタイルが例外なくオールバックだったのです。事務所には怒号が響き渡り、机や椅子が蹴り飛ばされるのは日常茶飯事でした。若手社員ほど過酷な環境へのストレスが大きかったのでしょう。ある日、給湯室に入ると壁に「死」と刻んであった時には心底ゾッとしました。私も例外なく徹底的に追い詰められ深夜残業が続く中で、これまで培ってきた小さな自信は崩れ落ち、生きる意味を見失っていきました。そんな時期も心の支えになってくれたのは妻で「何があっても必ず結婚する!」というのを目標に、表情を失い胃をズキズキさせながらも毎日を生きていました。遂に身も心も持たなくなり、逃げるように転職した先もまたブラック企業。拾う神は存在しないのだと絶望に苛まれました。しかし転機は訪れます。常に転職先を探して応募していた中で、ある大企業の面接が決まったのです。それは地元に本社がある大手商社でした。普通の大学を出てフリーターのパンクロッカーからブラック企業を転々としてきた私です。就職の人気ランキングで常に上位にある総合商社のグループ企業に入れるとは夢にも思いませんでした。それがなぜか面接に合格。私は商社マンになりました。年下の先輩は名門大学のラグビー部で主将だったような、筋肉隆々で頭脳は明晰。コミュ力抜群の超人じみた人ばかり。後輩ができたと思えば東大の大学院卒だったり、バスケの人気選手だったりします。この集団の中でなにができるのか。周りのレベルに全くついていけず自分の経歴が惨めでした。そんな中で第一子を授かりました。会社員として安定的な生活が見えてきたこともり、出会って7年越しに結婚。かわいい長男が生まれたことによりスイッチが入り「僕の魂はパンクだ!エリートには負けない!」と燃え上がりくらいつくように仕事をしました。その結果、業界を揺るがす巨大なプロジェクトのメンバーに選ばれ、結果は見事成功。連結数万人の中で年間3組しか選ばれない「社長賞」を受賞しました。フリーターのパンクロッカーからブラック企業を転々としていた私がトップ商社マンになったのです。その後、国内で成功したプロジェクトを横展開するため、海外担当となり東南アジアを飛び回りました。英語もろくにできないままGoogle翻訳を頼りに現地人担当者とハードな商談をするのが私の仕事。交渉成立すれば大型貨物船が一隻動く、スケールの大きさが快感でした。こうしてドン底から這いあがり栄光を掴み取ったように思えたのもつかの間。その先には更なるピンチが待ち受けていたのです。次回「出会って跡を継ぐまでの18年 ~絶頂期にドクターストップ そして独立へ 編~」===========クラウドファンディング終了まであと8日となりました。もし面白かったらぜひTwitterかFacebookでシェアお願いいたします!SNSをされていない方は「LINEで送る」からLINE VOOMに投稿いただけると本当に嬉しいですm(__)m===========


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===========もし面白かったらぜひTwitterかFacebookでシェアお願いいたします!SNSをされていない方は「LINEで送る」からLINE VOOMに投稿いただけると本当に嬉しいですm(__)m===========元祖 鯱もなか本店です。クラウドファンディング終了まであと9日。目標金額達成まであと38%です。残す金額も大きい中でカウントダウンが始まりました!そんな中ですが、ここで私たち4代目夫婦がお店を継ぐことになるまでのストーリーについてご紹介させてください。当店は昨年の9月から様々なメディアに取り上げられ、多くの方に知っていただくことができました。ですが、ここに到るまでに私たちが出会ってから18年の歳月がありました。当店の4代目の社長は先代の娘、この文章を書いている私は一緒に会社を切り盛りする夫です。廃業寸前だった老舗菓子店を継ぎ、オンライン販売の強化でV字回復!と、確かにそこだけ見ればシンデレラストーリーに見えるかもしれません。ですが、実際にはそんな綺麗なものではなく、良き日も艱難辛苦(かんなんしんく)も共にしながら泥臭く年を重ねて今があります。妻と出会ったのは名古屋の大須商店街にあった「モンキーズカフェ」という漫画喫茶です。バイトで入ったそのお店の先輩が今の妻です。私は大学2年生で妻が大学3年生の時でした。お互いの第一印象は、私は妻を「面白おかしい」と思い、妻は私を「変な髪形」と思っていました。妻は一見クールに見られがちですが口を開けば冗談を言うひょうきんな人。私はと言えば黒と金のまだら模様で左だけ首まで伸ばした奇抜な髪形だったのです。この二人には珍しい共通点がありました。それは「ロックが好き」ということ。しかもかなりマニアックな。私はアンダーグラウンドなパンクをこよなく愛していました。幼いころから人見知りが酷かった私は人間関係がうまくいかないフラストレーションを激しいサウンドや過激なパフォーマンスに求めて発散していました。妻はドレスアップしたモッズスタイルのロックや、革ジャンにリーゼントのガレージロックに傾倒していました。芸大生で当時から美意識が高く、様式美にこだわる音楽を好んでいるようでした。細かく言えば少し違うけれども趣味の近いロックの話題で盛り上がり、それがきっかけでいつしか共に歩むことになっていたのです。そして月日がたちお互い社会へ出ることになります。一歳上で先に大学を卒業した妻が選んだ道はアパレル業界でした。ゆったりした時間が流れる大須の裏路地にあるセンスのいいショップで販売スタッフになったのです。そして一年後に私が選んだ道はといえば「パンクロッカー」でした。バンド活動していた私は、大学4年生の時に有名なパンクの大御所プロデュースでCDアルバムを出し、バンドマンとして生きていくと決めました。発売時にタワーレコードのインディーズランキングで2位までいけたことは今でも自慢です。その時の1位はなんとAKB48でした。メジャーデビュー前のAKBが立ちふさがり1位を取ることはできませんでした。ですが発売時の販促用ポスターには、日本のロック史で最重要バンドの一つBのドラムKさん、愛知出身の人気お笑いコンビSのOさん、学ランがトレードマークのグループKのAさんといったすごい方たちから推薦コメントをいただくことができ、一生の宝物になりました。その時の収入源は中古レコードショップのバイト代でした。フリーターをしながらそのバンドで音楽活動を続けていましたが、しばらくすると解散してしまいます。パンクとは刹那的で強力なエネルギーが魅力の音楽のため、どうしても長続きしにくいことは否めません。バンドを解散した私は次のバンドメンバーを探しましたが中々見つかりません。そこで声をかけたのが妻です。2人でバンドを組むことにしたのです。作詞作曲して小さなライブハウスでライブをしていました。当時の様子がこちらです。バンド活動を順調に再開し順風満帆かと思いきや、ある日転機が訪れます。なんと妻にお見合いの話が舞い込んできたのです。それは「フリーターのパンクロッカーなどとは縁を切って、しっかりした人と結婚しなさい」というご両親のメッセージでした。この絶体絶命のピンチをどのように乗り切ったのか、それはまた明日お届けしますのでお楽しみに!次回「出会って跡を継ぐまでの18年 ~ブラック企業に就職、そして大手商社へ 編~」===========もし面白かったらぜひTwitterかFacebookでシェアお願いいたします!SNSをされていない方は「LINEで送る」からLINE VOOMに投稿いただけると本当に嬉しいですm(__)m===========