延喜式を巡る旅シリーズ 村上の鮭の塩引き自動車のクレイモデラーが造った塩引き鮭を昔観て以来、ずっと行きたかった村上に非公認月ヶ瀬観光大使見習として観光調査してきました。越後村上·延喜式に越後国から鮭を租税として納められたと記載·千二百年前から続く村上の鮭·江戸時代に村上藩士が世界初の鮭の増殖に成功·鮭を梁に吊るして北西の冷たい風に当て熟成ることで特別な旨味が生まれる。·塩鮭や新巻鮭とは別次元の味わい。·鮭に切腹させてはいけないと、腹を二段に開く。·村上に伝わる鮭料理は100種類以上·鮭の頭を使った料理が特別鮭料理·めふん(背ワタの塩蔵。絶品)·氷頭味噌·はら子味噌漬(イクラはロシア語なので使わないとのこと)·酒びたし·小皮煮·鮭洗い·鮭味噌漬け·旨煮·納屋煮·すっぽん煮(すっぽんとは鮭の頭のこと)·氷頭生酢·醤油はら子·雅味煮·鮭腸汁·飯ずし·ドビンコ(鮭の心臓)·ナワタ汁昔から伝わる鮭料理を作れる料理人も少なくなってきていると、大女将の丁寧で静かな説明に村上の塩引き鮭の誇りを知りました。写真では伝えられない鮭の匂いと村上の季節風は、現場で体験することの大切さを感じさせてくれます。#村上#塩引き鮭#鮭の塩引き#鮭#越後#延喜式#旅#鮭料理#村上藩#越後村上#城下町#きっかわ#割烹善蔵#非公認月ヶ瀬観光大使見習#観光研究家#梅古庵
延喜式 の付いた活動報告
烏梅が完成しました。53kg(梅不作により昨年の1/3)烏梅(ウバイ):千三百年の歴史と守り続ける技術1. 烏梅の伝来烏梅とは梅の実を加工したもので、約千三百年前に随から日本に伝わった歴史的な薬草です。遣隋使によって奈良に薬として持ち込まれ、日本の薬草文化の一つとして受け入れられました。烏梅は奈良時代から長い間、日本の医療や日常生活の中で重要な役割を果たしてきました。2. 月ヶ瀬での伝来と変遷月ヶ瀬には、烏梅が紅花染めの媒染剤として約七百年前に伝わりました。京都の染色職人たちは、この黒い梅の実を媒染剤として利用し、その特性を活かして紅色鮮やかな糸や生地を染めました。江戸時代から明治にかけては烏梅の需要がさらに広がり、口紅の原料としても利用されました。最盛期には月ヶ瀬には約400軒の烏梅製造所があり、地域の重要な産業となっていました。3. 需要の変化と化学染料の影響しかし、明治時代に化学染料の発明と普及が進み、天然染料である烏梅の需要は激減しました。化学染料の便利さと価格の低さが、昔ながらの染料の市場を圧迫したのです。その結果、多くの製造所が閉鎖され烏梅製造は衰退していきました。4.現代の唯一の製造所:月ヶ瀬の中西家『梅古庵』そのような状況の中で、月ヶ瀬の中西家は烏梅の製造を継続しました。中西家では、代々口伝によって烏梅の製法を継承し、歴史的な技術を守り続けています。戦後の食糧難の時代にもかかわらず烏梅の製造を続けた中西家は、その貴重な技術と知識を未来に伝えるための努力を惜しみませんでした。5. 現代における烏梅の利用と価値現代では、月ヶ瀬の中西家が営む『梅古庵』が唯一、歴史的な製法と原材料を守り、烏梅を作り続けています。烏梅は現代でも十二単の染色や東大寺の修二会の花こしらえにおいて重要な材料として利用されています。これらのことは烏梅の文化的価値を象徴しています。また、薬膳料理としてその深い風味と効果が重宝されています。特別な贈り物や珍しい食材としても人気です。まとめ烏梅は千三百年の歴史を持ち、薬として日本に伝わり、月ヶ瀬では媒染剤や口紅の原料として製造されてきました。明治以降、化学染料の普及により需要が激減し多くの製造所が閉鎖される中で、中西家『梅古庵』は代々口伝によってその製法を継承し、唯一の製造所として文化を守り続けています。現代においても、十二単や東大寺の修二会、薬膳料理などで利用され続ける烏梅の魅力は、長い歴史と文化によって支えられています。その独自の価値と歴史的背景が、烏梅を特別な存在として今日も輝かせています。歴史と技術が織り成すこの貴重な素材をぜひ多くの人々にご利用いただければと思います。#烏梅#遣隋使#遣唐使#薬草#万葉集#延喜式#十二単#薬膳#薬膳料理#漢方#紅花#紅花染め#後醍醐天皇#園生姫#梅古庵
母校 月ケ瀬中学校での烏梅特別講義の記録烏梅の歴史烏梅とは使われ方月ケ瀬と烏梅日本の烏梅尾山天神神社菅原道真公園生姫半夏生古い文献月ケ瀬梅林烏梅の不思議紅花日本の伝統色紅紅花染め実習#月ケ瀬#紅花染め#烏梅#講義#地域授業#出張授業#尾山天神神社#天満宮#天神さん#小野妹子#遣隋使#遣唐使#後醍醐天皇#南北朝時代#園生姫#菅原道真公#万葉集#延喜式#和漢三才図絵#田中善助翁#月ケ瀬中学校#梅古庵