皆さまこんにちは。ジュマ・ネットの稲川です。
本日は、長年ジュマ・ネットが活動を行ってきたチッタゴン丘陵地帯の歴史についてお話させていただきます。
現在のバングラデシュ南東部にあたるチッタゴン丘陵地帯は、6世紀から16世紀にかけて、トリプラ族とアラカン民族(マルマ、ラカインまたはモグと呼ばれる)というモンゴロイド系の民族が争い、交互にこの地 域の支配権を争ったと言われています。同時にベンガル平野を制圧したムガール帝国が、16世紀くらいからこの地域にも勢力を伸ばしますが、大きな海戦の末 1665年にムガール帝国は、チッタゴン丘陵を支配下に置きます。彼らは直接統治せず、納税のみを迫り、地域の統治はトリプラ族、アラカン民族、そして チャクマ族などがそれぞれの勢力に合わせて行なっていたようです。
英国植民地時代
1760年、ムガール帝国は統治権をイギリス政府に手渡し、この地域は英国植民地の一部となりました。その後重税に耐えかねたチャク族とイギリス政 府の間で数回の戦争を起こりますが、1787年には、チャクマ族が謝罪をする形で英国の完全な統治体制が整います。綿で納税をしたため、この地域は 「Kapas Mahal(綿の地域)」と呼ばれるようになりました。
その後、アラカン地域で発生した紛争のため、1784年~1799年の間、数回にわけてビルマから大量の民族移動があり、多くのマルマ族、チャクマ族、ラカイン族がこの地域に移住し、現在の民族構成の原型ができあがったと思われます。
英国政府は、ルサイ丘陵のキク族などの反乱に対抗(1898年には制圧)しながら、徴税システムをほぼ完全なものにしていきます。1860年には、 この地域を3つの地域にわけ、それぞれの地域の徴税作業と手続きをマルマ王、チャクマ王、ボム王に任せ、一定の統治権を与えることで効率的にこの地域を支 配しました。これが現在のカグラチャリ県、ランガマティ県、バンドルボン県統治の原型になっています。
平野のベンガル人の流入が徐々に活発になるのを見て、英国政府は1900年に「チッタゴン丘陵マニュアル」(1900年マニュアル)を制定し、ベン ガル人の土地の売買や居住を厳しく制限しました。またそれぞれの部族に与えた司法や自治の権限なども明確にしました。この1900年マニュアルが、チッタ ゴン丘陵に住む先住民族の自治意識の原型となっています。
今回は以上になります。次回は1947年、インドのパキスタンの分離独立以降のお話です。ぜひご覧いただけました幸いです。