こんにちは、事務局長の小島です。
今日は、なぜ私がプラスで活動するのかみなさんに少しだけお話させてください。
ちょっと長いですが・・・プラスの活動と、このクラウドファンディングにかける想いを、みなさんにお伝えしたくて、こうやって自分のことを書くのは苦手なのですが、、お付き合いいただけたら嬉しいです。
10代の頃の、ふたつの原点
プラスの活動にかける想い。そこには、10代の頃の、ふたつの原点があります。
ひとつは、中学2年生のとき。
学校に行くことが苦しくなった時期がありました。
授業で手をあげたり、意見を言ったりすることが多かった当時の私。
先生の問いかけに答える人のいない静けさに違和感があって、それなら自分で空気を変えていこう、と思っていました。
けれども、そのうちクラスメートの数人から、こんな言葉が投げかけられるように。
「おまえ目立ちすぎ」「うざい」「いい気になんなよ」・・・。
教科書が破かれてたり、机の上に「消えろ」と黒いマジックで書いてあったり。
そんな日が続いて、「人からどう見られているか」「まわりから浮いてないか」ばかり気にするようになりました。
人と話すことが怖くなり、息を潜めていた教室のなかで、幻聴が聞こえてくることも。
今だったら、昔の私に、「大丈夫、世界はもっと広いよ」と言ってあげられるけど、あの頃は学校と家がすべて。
2つの世界のうち1つが壊れてしまい、朝が来るのが怖くて、このまま眠ったまま目が覚めなければいいのに、って夜眠るときに思っていました。
そんなとき、ひとつの転機が来ました。それが、「英語」でした。
当時、私が住んでいた区では、各公立中学から一人ずつ、オーストラリアにホームステイに行けるプログラムがありました。1週間だけ、現地の学校に通えるのです。
行ってみたいー。
そう思った私の頭によぎったのは、「私には無理だ」という声と、「消えろ」という机の落書き。
応募〆切まであとちょっとの日、思い切って母に話してみました。
かえってきた答えは、「あなたなら、きっとできるよ」。
この一言が、私の背中を押してくれました。
それから、学校にいるときと食事のときと寝ているとき以外は、ずっと英語ラジオのテープ(そう、昔はテープレコーダーでした笑)をまわして、ひたすらスピーキングの練習。
校長室での英語面接で、「現地の学校で何を学びたいか?」と聞かれて、こう答えました。
「自分の意見を言えて、他の人の意見も尊重できる、そんな風土を学びたい」
「生まれ育った言葉や暮らしが異なっても、きっとそこには、共通するものがあるはず」
これは、国際協力のフィールドで働く今でも、大事にしていることのひとつです。
面接の結果は、合格。
オーストラリアの学校では、相手を尊重しつつ、自由に意見をいう、そんな「対話」が自然にあって、それまでの肩の力がふっと抜けていくのを感じました。
それから、将来は、異なるバックグラウンドを持つ人たちと、学び合いながら対話ができる、そんな仕事をしたい、とぼんやり考えるようになりました。
原点(2) 子どもが持つ無限の可能性
もうひとつの原点は、高校生のとき。
大学への推薦入学が決まり、手持ち無沙汰になっていた18歳の冬でした。
隣に座っていたクラスメートが、「ボランティアやるんだけど、一緒にどう?」と。
手に持ったチラシには、「外国の文化的背景を持った子どもたちの学習サポート」と書かれていました。
よく分からなかったけど、暇だったし、誘ってくれた友達のこと大好きだったし、子どもはそんなに好きじゃないけど、やってみようか、と。
それは、大学生たちが立ちあげたNPOで、日本へ働きに来られた外国人家庭の子どもたち、国際結婚などで生まれた子どもたちに、学校や進学の勉強サポートをする活動。
まだ高校生でしたが、大学生に交じって参加してみることに。
東京郊外にある公民館の一室。
そこには、アジア、中南米、ヨーロッパ、アフリカのバックグラウンドを持つ子どもたちがいました。
ひらがな、カタカナさえ書けずに来日し、言葉の壁だったり、見た目や、名前が違うからと、学校に居場所がない子どもたち。
みんな「自分はできないから」と言います。
でも、一緒に過ごすうちに、走るのが早い子、絵が上手な子、寡黙だけど小さな子にやさしくできる子・・・あたりまえだけど、それぞれ素敵なところや強みを持ってるんです。
子どもたちの隣に座って一緒に勉強するとき、ふと、中学生のときに母がかけてくれた言葉が自然に出てきました。
「あなたなら、きっとできるよ」
最初はできなくてもいい、3歩進んで2歩下がってもいい、ときには休んでもいい。
きっとできるようになるから。
その中に、Jくんという来日したばかりの中学生がいました。
よく教室で暴れていました。
話を聞くと、学校にも家庭にも居場所がない、と。
そして、ひとりで過ごす家で、よく料理をするということも。
そんな話を聞いて、ひとつのアイディアが浮かびました。
Jくんが、母国の料理を教えながら、教室のみんなと一緒に作る、というささやかなイベントを開きました。料理イベントは大成功。
みんなに「おいしかったよ」「すごいね」と声をかけられ、得意そうなJくん。
それから、少しずつ、彼は、机の前に座っていられる時間が増えていきました。
2年後、高校の入学試験で、「将来は、プロの料理人になって、自分の国と、日本をつなぐ架け橋になりたい」と夢を語り、合格を手にいれました。
・・・高校生のころに始めたこのボランティアは、大学を卒業するまで続け、Jくんのような子どもたちの変化に何度も出会った私は、ひとつのことを確信するようになりました。
「どんな状況であっても、人は自分の力で未来を切り開いていく可能性をもっている」
いまも、プラスの現場で私が信じていることです。
そして、「子どもたちが生まれ育ったバックグラウンドや国をもっと知りたい」と、
大学では国際関係学科に進むことになります。
そこでの「ある出会い」が、私の人生を大きく変えることになりました。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
この次は、大学生になって、ウガンダと、そしてプラスと出会うお話をお伝えします。