2022/04/03 13:35
西平直先生には「無心」の働きについて伺い、ここまでの話題のまとめをお願いしました

西平先生は日本マインドフルネス学会に来ていただきお話をお聞きして、いつかお話お聞きしないとと思っていました。

西平先生との対談でテーマとなる「無心」というのは、鎌田先生とお話しをしているときに、すでに私は気づいたんですね。

観察瞑想の方法というのは注意を分割して、いろんなものに気を配っていく。そうすると、我々の心のキャパシティが全部使われてしまって、様々なものを同時に感じ取るんだけれども、それ以上もう我々の注意資源がなくなり、思考も浮かんでこない。思考が浮かんでこないので、自分も成立しない。しかし感じ取っているのは現実なので、現実と一体になって現実がありありと感じられる。そういう進め方をしていくんですね。

でも、我々は学習するんですね。そうすると、注意の分割をしていっても、だんだん上手になっていく。そうすると、最初は注意の分割をして心のキャパシティを使い切っていたのが、余ってくるんです。余った心のキャパシティって、どうするんだろうか。

注意というのは能動的にいろいろなものに注意を振り向けていく、転換する、分割するということをしていくわけです。これは注意資源を使うことになるんですね。でもなにか、突然、ドーンと音がして、そこに注意が惹きつけられる。こういうのを「受動的注意」というのですが、受動的注意では注意資源は使われないんですね。

完全受動態で世界と関われば注意資源は使われない、心のキャパシティは残る。完全受動態になったとき、我々の能動的な能力を使っていない。では残った心って何なんだ?

それを実は、日本の文化では「無心」といってきたんですね。そこにようやく私はたどり着いたんですね。

「無心に」という言い方を日本語ではするんです。無心にパチンコやるでもいいですが、日常用語としても使われています。ですが、「無心」というのは実は、心の大きな大きな働きのことなんですね。

マインドフルネスや完全受動態で、感じることが上手になってくる。心キャパシティが余ってくる。でも余ってきた心は最初にやっていたように後悔したり、取り越し苦労したり、自分のことばかり考えたりしないんですね。余ってきた心というのは、自由にいろんなことで動く。非個人的な心なので、広がりをもっていろんなことが実現できていく。

その代表的なものが能なんですね。世阿弥が大成し発展させた能です。

「無心に」舞を舞うんですね。もっと正確に言うと「無心が」舞を舞うんですね。

西平先生も鎌田先生も、世阿弥の研究者です。そういうところがどうなっているんだろうか、というところを西平先生に教えていただいた、というのがこの回です。


身体は個人を超えて響き合う。五蘊は個人を超えて響き合う

あと、身体性についてもお聞きしました。その中で、「なるほど」と思ったことがあります。身体というのは言葉でコントロールされていない。一方「自分」というのは言葉の働きで作り出される、思考の働きで作り出されるのが自分である。なのでこれは個人的な枠の中にはまってしまっている。

そこから非個人的なところに移っていくというのが、瞑想が目指していることなんです。身体というのは、もちろんこれは自分の身体なんですけど、身体の仕組みというのはみんな変わりませんよね。だから、身体というのはもともと非個人的なものなんですね。ということは、身体というのは、個人を超えて、個体を超えて、感応するのではないですか、ということもお聞きしたんです。西平先生はそういうことも本の中にお書きになっていたので。

「我々の身体というのはどのくらいまで感じることができそうですか」とお聞きしたら、「それはかなり遠くまで感じるのではないですかね」とおっしゃっていました。「地球上だったらどこでも感じるのではないでしょうか」ということまでおっしゃって。哲学者の先生がそこまで言ってしまうのか、と思いました。アフガニスタンで活動されていた医師の中村哲さんが銃撃されて亡くなった事件があり、それを聞いた時、私も身体もすごく動揺しましたとおっしゃって。

この対談の後、私は井上ウィマラ先生と対談させていただいたのですが、その時井上ウィマラ先生がおっしゃっていたのがこういうことです。

人間というのは五蘊でできている。色受想行識。色は身体です。受は五感です。感じた後動く心。想は表象を作り上げる心の働き。行は思考パターン、行動パターンで、ここに認知行動療法が扱う問題がある。あるいは俺が俺がというのも行のところにある。そういう習慣的なパターンです。そして識は対象を取って自分と対象というふうで認識をする働き。あるいは、記憶も含まれている。この色受想行識のご蘊の中のどこに自分があるかと探しても、どこにもない。「俺が」というのをどこにも位置付けることができない。無常に変わり続けていく五蘊があるだけなんだ。これが仏教の大きな発見なわけです。「私」というのが出てくると、これは個人的なもので、枠組みを作って、そこから出られなくしてしまうのものなので、この私というものがあると、我々は響き合うことができない、共感することができないんですよ、とウィマラ先生はおっしゃっていました。

もし、この私というものが落ちていくと、それぞれのレベルで共感する、それぞれのレベルで響き合うんですよということをおっしゃっていました。だから、身体は身体のレベルで、感受は感受のレベルで響き合うのだと。

西平先生からは、そういうところにもつながるお話をお聞き出来たかなと思います。

ここまで横田老師、スマナサーラ長老、鎌田先生といろいろなことをお聞きしてきたのを、哲学者である西平先生はどのようにまとめてくださるのか、ということもありました。ここまでのところのまとめの章として、読んでいただければと思います。

(熊野宏昭)


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