さつま町永野の南方神社の創建時期について調べています。先日、南日本新聞社の記者からのインタビューでこの神社の創建時期を尋ねられましたが、いまだ確固たる文献や記録を示す資料が探し出されていません。図書館にある史料(郷土史など)を紐解いて、現時点で想定されることをご報告させていただきます。
宝治2年(1248年)関東の渋谷氏(桓武天皇の末流とされます。(書籍「関東の渋谷氏」より))が現在の鹿児島県は川薩地方に下向され、承久の乱(承久3年(1221年))の戦功により恩賞として薩摩国の高城、東郷、入来院、祁答院、鶴田の諸郷を受けられました。
この永野(当時の長野)には、下向した鶴田重行(渋谷5人幕のひとり)が甥の谷口(やぐち)実重を同行し、のちに鶴田城に移ったとされています。甥の谷口実重は父の為重が相模国高座郡谷口を領して谷口と号していたことから、下向して長野城に移った後も谷口と称したものと思われます。(実重の末裔は現在の姶良市蒲生町居住の谷口氏。)
その後、およそ350年ほどのちに島津氏による永野城の決戦(永禄12年(1569年)5月25日)の後、島津氏は長野城を完全には陥せなかったものの、その後の「谷口氏系図」に記録されているように和睦を成立させ、島津氏に反抗した人々の処遇も円満に行われたものと捉えられています。
古老(故老)からの言い伝えによりますと、当時の社殿は長野城と現在の社殿との中間あたりに存在していたようです。長野城合戦(永禄12年(1569年))の後、長野城を支配することとなった島津氏が、(長野城合戦における戦の中で)島津氏の守護神である狐(きつね)が矢にあたって死んだのは縁起が良くないとして、現在の場所に移転されたのではないかと推測されています。(薩摩町郷土誌より。)
このように確かな記録はありませんが、およそ1200年代の前半(13世紀)から1500年代の後半(16世紀)の間に、さつま町永野の南方神社(当時の諏訪神社)は建立されたものと思われます。
アバウト(適当)な推測で誠に申し訳ありません。また、長文となりましたことをお詫びいたします。有難うございます。