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「紙の雑誌」を続けることで、「ゆっくり」考える場を守りたい。(宇野常寛責任編集)

現在の支援総額

4,893,584

326%

目標金額は1,500,000円

支援者数

912

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2022/01/22に募集を開始し、 912人の支援により 4,893,584円の資金を集め、 2022/02/20に募集を終了しました

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「紙の雑誌」を続けることで、「ゆっくり」考える場を守りたい。(宇野常寛責任編集)

現在の支援総額

4,893,584

326%達成

終了

目標金額1,500,000

支援者数912

このプロジェクトは、2022/01/22に募集を開始し、 912人の支援により 4,893,584円の資金を集め、 2022/02/20に募集を終了しました

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PLANETS の付いた活動報告

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こんにちは、PLANETS編集部の徳田です。普段はリモート環境で仕事をしている編集部ですが、雑誌制作となるとどうしても事務所に行かなければならないタイミングが出てきます。ちょうど昨日も印刷された『モノノメ#2』のゲラ原稿を事務所でチェックしていたところですが、少しずつ完成像が見えてきてワクワクしてきてもいます。さて、業種によってはもはや当たり前となったリモートワークをはじめとして、近ごろ世間では「働き方」を根本的に見直す議論が起こっています。リモートワークもそうですし、最近では「週休3日制」の話題も耳にするようになりました。この活動報告を書いているのがまさに3連休明けなんですが、やはり「ちゃんと休んだな」と思えるには週に3日は休日が欲しいところです。正直5連勤もするとヘトヘトになり、かといって休日に何もしないのはもったいない……と思っては土日に予定を入れて結局疲れが取れないまま翌週に持ちこす……なんてことは多々あります。でも、週に3日休みがあれば1日くらいは何もせず休養にあててもいいかなと思えますよね。そんな週休3日制と関連して、編集長の宇野常寛はこんな提案を始めました──「水曜日は働かない」。水曜日を休みにすると、全ての平日が休日に隣接する。初めてこのコンセプトを聞いたときは目から鱗でしたが、今回『モノノメ #2』では「ほんとうに水曜日に働かないようにするにはどうすればいいのか」について考える小特集を企画しました。なぜ、「水曜日」なのか。なぜ3連休ではないのか。例えばリモートワークをしている人は、いつでもどこでも仕事ができてしまうがゆえに、「仕事」の時間と「プライベート」の時間を主体的に決める必要があります。「この時間は仕事をする」「この時間は休む」というふうに、自分のライフサイクルを自分自身でデザインしていく発想が求められます。こういう考えは、あえて平日の真ん中に休みを置くことでより活発になるのではないか。もし水曜日の休日ではなく「3連休」を作ったとしたら、それは「いかにオフを充実させるか」という話になって、ライフサイクルを主体的にデザインしていく発想とは別のものになってしまうんじゃないか。これが、宇野が特集内の鼎談を収録していたときに話していたことです。休みを充実させることに躍起になるのではなく、休みを取り入れながら生活全体を自分なりのペースで設計していく。なんとなく、ランニングが趣味の編集長らしい発想だと思い、個人的にも腑に落ちたところです(ちなみに前号に引き続き、ランニング雑誌『走る人』とのコラボレーション記事も制作中です)。最近はPLANETS社内でもこの「水曜日は働かない」を実践するために、会議など時間的な拘束が発生する業務は、なるべく水曜日にはおこなわないことにしています。が、(特に今の時期は)まったく仕事をせずに「休む」とまではなかなかいかないのが現状です。ちょうど今日は水曜日ですが、早く「水曜日は働かない」と、誰もが胸を張って言えるような世の中になってほしいなと思う今日この頃です。『モノノメ #2』のクラウドファンディングはこちらにて実施中です。イラスト:(C)ENDO-ROLL/endo


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こんにちは、PLANETS編集部の徳田です。いよいよこのクラウドファンディングも残すところ8日、制作も大詰めです。いくつかの媒体でお伝えしてきた通り、『モノノメ #2』は「身体」を特集します。今までの活動報告でも、乙武洋匡さんが最新鋭のロボット義足を装着して歩けるようにすることを目指す「OTOTAKE PROJECT」の取材や、舞踏家の最上和子さんと映像作家の飯田将茂さんによるライブパフォーマンスプロジェクト『もうひとつの眼 / もうひとつの身体』をめぐっての両者の対談など、「身体」にまつわる記事を紹介してきました。今回紹介する、宗教学研究者の藤井修平さんによる論考「マインドフルネスの身体技法はいかに受容されてきたか──仏教と心理学の関わりの歴史から考える」も、今号の特集記事の一つ。近年耳にすることが多くなった「マインドフルネス」について、いかにして現在のような受け取られ方をするに至ったのか、身体技法(具体的には瞑想)の扱われ方を軸にして論じていただきました。いま僕たちが「マインドフルネス」と言うとき、認知療法の一環だったりGoogleやAppleなんかが社員の集中力・生産性向上のために取り入れたプログラムだったりを指すことがほとんどです。本来は主に仏教の身体技法だったものが姿を変えたもので、この変化の過程には20世紀後半のアメリカでの「禅ブーム」、ニューエイジ思想との合流から日本国内での自己啓発としての利用などがあるわけですが、あまりきちんと論じられることのなかったこのあたりの歴史的な脈絡が、本稿では体系的に述べられています。単にマインドフルネスの実践方法とその効用を紹介するだけにとどまらず、「そもそもマインドフルネスの正体とは何なのか」について明確に論じられていて、とても刺激的な内容でした。一方で、現代みられるマインドフルネスや瞑想の実利的な扱われ方については、批判的な意見も存在します。本来は悟りを開くことを目的として、要は「我」への執着を捨て去ることを目指すはずのものだったのにもかかわらず、最近のIT長者などの間でのブームでは、自身の精神的健康や個人の能力開発として、むしろ「エゴ」を強化するものとして使われている面があるためです。こうした視点からの保守的な批判ももちろん本稿では紹介されるのですが、この論考の目的はどちらの立場がよいかを述べることにはなく、むしろ両者(宗教と科学)の融合がそれぞれの形を変えていく、その過程を示すことにあります。宗教的身体儀礼が、現代の(実利的側面を取り入れた)「マインドフルネス」として定着するまで──その移り変わりを知ることで「身体を動かすこと」の意味が時代時代で変わっていくことのダイナミズムを感じます。「身体」という身近な(?)ものから大きな文化史を捉えるきっかけとして、ぜひ読んでいただきたいと思っています。『モノノメ #2』のクラウドファンディングはこちらにて実施中です。


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こんにちは、PLANETS編集部の徳田要太です。『モノノメ#2』の制作も佳境に入りつつあり、誌面デザインや特典の準備など完成に向けて奮闘中です。紙の雑誌制作に関わるのは個人的には初めてのことで戸惑うことばかりですが、SNSの論調の外側にゆっくり考える場を作りたいという宇野編集長の理念に共感し、なんとか業務をこなしています。さて、そんな宇野編集長は時々トーク番組などで(文脈によりますが)「共感」という言葉が苦手だということを口にします。なぜこの言葉に苦手意識を持っているのかというのを僕なりに解釈すると、端的に言えば選択肢が狭まるからではないでしょうか。すでにわかってるものについてばかり語っていては、見落としているかもしれない選択肢の可能性を消し去ってしまう。そういう考えがあると思います。『モノノメ』が創刊されたのも、SNSでウケるものか、そうではないものか、そのどちらか以外の選択肢が当たり前に存在できる場を作りたいというコンセプトがあったからでしょう。だから前号で執筆いただいた方々も、いまウケるかどうかではなく、新しい問題設定ができるかどうかという基準で選ばれました。今回紹介する福嶋亮大さんもその一人です。福嶋さんには前号から「世界文学の制作」という連載を執筆していただいています。小説の表現がなぜ成立するのかを考えることで、「言葉」と「心」の関係を捉え直すという壮大な試みの連載ですが、「言葉」があふれかえっている現代だからこそ読む価値のある文章だと思います。そんな福嶋さんの連載第二章「指し示すこと、物語ること」が『モノノメ#2』に収録されるわけですが、最初にこれを読んだときは衝撃でした。というのも「人は共感の生き物である」ことを前提として論が展開するからです。共感こそがコミュニケーションの成立条件であって、そして人はコミュニケーションなしには生きられない(というより、コミュニケーションをする生き物=人間である)。小説──架空の(存在しないはずの)事物を語る文章の向こう側に実体としての事物や人物を想定できてしまうのは、その小説の文章に否応なく心が同調するからなんだというわけです。といっても、普段言葉を目にして、なんでもかんでも心が同調するわけではないということは誰しも実感するところかと思います。しかし、小説はそういう状況を意識的に作り出せるんだということが、僕がこの第二章を読んで特におもしろいと感じた部分です。共感を強いられるんだけれど、どうにもそうしきれない異物がある。そういうものを意識的に演出できるのが小説の力なんだというわけです。どのように演出されるのか。そのメカニズムが福嶋さんの理路整然な構成と、お子さんの身近な(共感しやすい)エピソードとともに語られています。ぜひ多くの方に読んでいただければと思います。『モノノメ #2』のクラウドファンディングはこちらにて実施中です。


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こんにちは、PLANETS編集部の徳田要太です。『モノノメ 創刊号』に引き続き実施中の第2号のクラウドファンディングですが、おかげをもちまして募集開始からあっという間に目標金額を達成することができました。これを受けて、さらに充実した誌面制作に打ち込めるよう、現在「ネクストゴール」として支援額600万円を目標にし、達成した暁には編集長・宇野常寛によるオンラインイベントを予定しています。ぜひ引き続きご支援をよろしくお願いいたします。すでに目次も公開されている通り、どれも自分が読者としてじっくり読んでみたい内容の濃い記事ばかりです。そして前号掲載の特別座談会「TOKYO2020はどうあるべきだったか──オルタナティブ・オリンピック・プロジェクト再考」に引き続き、今号でも「オリンピック」についての記事を掲載します。もともとPLANETSでは2015年に刊行した『PLANETS vol.9 特集:オルタナティブ・オリンピック・プロジェクト』以降、長い間オリンピックについて考え続けてきたのですが、2021年の本大会直前のタイミングで収録された前号掲載の特別座談会は、単に実施に伴うグダグダを批判するだけにとどまらず、「そもそも開催するのであればどのようなビジョンが必要だったか」「このご時世に強行されてしまった以上、何を持ち帰るべきか」といった本質を、いま改めて問い直すものでした。そして今号では、『PLANETS vol.9』にもご参加いただいたニッポン放送の吉田尚記アナウンサーに、実体験にもとづく「TOKYO2020」の取材記として、1万5千字を超えるロングエッセイを寄稿してもらっています。2013年に行われた東京オリンピック招致のパブリックビューイングの司会を務めて以来、数々のタイミングで本大会の報道に携わっている吉田さんですが、イマイチ周りの喜びに乗り切れなかった招致当時の心境から、コロナ禍に振り回された開催期間中の競技取材にまつわる裏話まで、現地でしか知りえない情景を赤裸々に書き残していただきました。とくに、ほんとうに「無観客」で競技が行われ、取材陣の機材音ばかりが響く会場の妙な静けさの描写は印象的で、「この場で競技を行う選手のプレッシャーはどれほどのものか」と考えさせられる内容でした。もっとも、とかくネガティブな面ばかりが目立ちがちな「TOKYO2020」ではありますが、必ずしも悪いことだらけではなかったと知ることができたのはこのエッセイのおかげです。会場の一つである静岡県・伊豆ベロドロームは、当時緊急事態宣言が発令されていなかったために有観客で自転車競技が行われていましたが、都心のどんよりとしたムードとは裏腹に運営スタッフの善意が感じられる賑やかな雰囲気だったそうです。純粋に観戦を楽しんでいる親子や、会場の案内を丁寧にしてくれる(真の意味で)「おもてなし」精神に満ちたスタッフなどのエピソードが、「無観客」と「有観客」とを現地で見比べたからこその臨場感でつづられています。今回のオリンピックに関して、僕自身の個人的な話をすると、物心つく前から高校を卒業するまで競泳をやっていたこともあって、出場された選手の方々の心境は多少なりとも察せられるところがありました。そもそもあの規模の大会が1年延期されるというだけでもとんでもない負担だったはずで、数年かけて行ってきた準備(たとえば競泳ならいつどれくらいの距離を泳いで、いつまでにどれくらいの記録が出せればいいかといったことを数ヶ月単位で考えます)が突然狂わされたわけですし、その延期の発表もかなり直前のことでした。こうした運営の慌ただしさ・杜撰さはさんざん指摘されてきましたが、選手としてはあんまり表立って声を上げづらかったのだろうなとも思います。競技に集中できる場を作って「もらっている」立場なので、正面切って文句を言うわけにもいかず、そもそもそれをした時点で競技への集中力のリソースが削がれてしまいます。実際、ある選手の「参加」が公表されているだけで「辞退」を求めるバッシングがあったくらいですから、発言には相当慎重にならざるをえなかったと思います。吉田さんのエッセイでは、インタビューを受ける選手の回答が異常に「優秀」だったことが述べられていました。必要以上の政治的な発言や運営の至らなさを指摘するようなことはせず、公共的に「正しい」受け答え(≒実施への感謝の言葉)であふれていたと。こういった、周りの評価から逆算して発言することが当たり前になっている環境、禁止されてはいないが「なんとなく言いにくい雰囲気」が事実上発言を禁じているような状況は、今の言論空間の息苦しさを象徴しているようにも感じました。若年層の「メディアリテラシー」の高さを評価する一方で、「パブリックな場所でのインタビューには、思想性としてはほぼ意味がなくなってしまった」という吉田さんの言葉が、妙に頭に残っています。ひとしきりセンセーショナルに騒いだのち、ちゃんとした総括もされず世間から忘れ去られようとしているあの大会を振り返ることには、まだまだ大きな意味があるのではないかと思います。そのための貴重な現場からの証言として、ぜひ多くの方にこのエッセイを読んでいただければ幸いです。『モノノメ #2』のクラウドファンディングはこちらにて実施中です。