5月26日(日)。
小倉炭鉱で犠牲になった方々の慰霊祭に参加させていただきました。
1940年5月25日に、炭坑の出水事故で、40名の方が亡くなりました。
犠牲者の半数以上が朝鮮半島から来た方々であったと言われています。
また、1939年からの戦時強制動員によって、小倉炭鉱にも多くの朝鮮半島の方々が強制連行されたそうです。
タコ部屋(労働者が、監禁・拘束状態で詰め込まれた宿泊場所。現在は、労働基準法により、禁止されています。)があり、暴行を受けるなど人間的な扱いをされず、危険な場所で働く朝鮮の人が多かったそうです。
朴さんにいただいた資料の中に、証言がありました。
それはもう、痛ましかったよ。
水没した遺体の収容が始まったのは、事故後二ヶ月経ってからのこと。遺体は一年かかって搬出されよったが、三人の仏だけは水没のままよ。
水没事故は私にとっては他人ごとではなくて、新婚早々の姪の婿を亡くしましたからね。
「遺体が上がったぞ。」と声が聞こえると、遺族は炭住を飛び出して狂ったように坑口へと駆けつけたよ。
変わり果てた姿を見て、一瞬息を吞んで棒立ちよ。
『強制連行強制労働筑豊朝鮮人坑夫の記録』林えいだい著
腐敗が進み、肉親を見つけようとしても分からないで困っている遺族に、
「おい、お前のところのおやじだ。」
と、早く遺体を始末したい日本人労務者が、遺体を押しつけてきた話が書いてありました。
私はいつも考えます。
過去の出来事から繋がって始まる世界中の戦争の様子を見ながら考えます。
「私が他の国の方々に酷いことをしたわけではない。
でも、いえ、だからこそ、
私たちには、憎しみの連鎖を断ち切ることができる!!」
参加されていた在日韓国人の方がおっしゃいました。
「日本の人の中に、朝鮮人についての過去の事実を学ぼうとする人がいることが嬉しいです。」
と。
戦争のない平和な世界をつくるのは、生きている人間一人一人だと、思いを強くした一日となりました。