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「北九州平和資料館」閉館…「戦争」を知り、「平和」を感じ、考える場所を残したい

北九州市若松区にある「北九州平和資料館」は、戦時遺品などの展示物を手に取って見られる私設資料館。戦争の加害者にも被害者にもならないようにと、両面からの展示をしている。そんな資料館の閉館決定後、ウクライナで戦争が始まった。同時に軍備増強に向かう国の動き…。戦争の真実を知り、考える場所を残さなければ!

現在の支援総額

3,037,500

75%

目標金額は4,000,000円

支援者数

204

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2022/09/01に募集を開始し、 204人の支援により 3,037,500円の資金を集め、 2022/10/31に募集を終了しました

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「北九州平和資料館」閉館…「戦争」を知り、「平和」を感じ、考える場所を残したい

現在の支援総額

3,037,500

75%達成

終了

目標金額4,000,000

支援者数204

このプロジェクトは、2022/09/01に募集を開始し、 204人の支援により 3,037,500円の資金を集め、 2022/10/31に募集を終了しました

北九州市若松区にある「北九州平和資料館」は、戦時遺品などの展示物を手に取って見られる私設資料館。戦争の加害者にも被害者にもならないようにと、両面からの展示をしている。そんな資料館の閉館決定後、ウクライナで戦争が始まった。同時に軍備増強に向かう国の動き…。戦争の真実を知り、考える場所を残さなければ!

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12月6日(金)。春頃だったか、平和のまちミュージアムの企画展に行った時に、思わず涙してしまった展示物がありました。八幡空襲(当時小学校1年生)でお母さま、お姉さま、妹さん、弟さんを亡くされ、お父さまは焼夷弾によって負傷してしまうという、悲しく、恐ろしい体験をされた佳子さんの小学生の時の通知表。恐らく、今よりもはるかに多い児童が居たであろう一学級の先生が、一人の児童に寄せる愛情の深さを感じました。一端の教員をしていた私は、「所見」といわれる言葉のもつ本来の意味、教師としての在り方を、考えずにはいられませんでした。「どんな先生だったのだろう?」と、先生への興味から始まり、「どんな日々を送っていたのだろう?」と、ご本人に会って、話が聴きたくなりました。夏の忙しい時にも、時々思い出していました。「忙しさがひと段落したら、学芸員さんに問い合わせてみよう。」そうして昨日、その夢が叶いました。「戦争は人殺しです。」TICO PLACEまでの車の中で、会って間もない時に佳子さんが言われた言葉。母親、姉、妹、弟を殺された方の言葉です。「防空壕の中で亡くなっていました。きれいでしたよ。」『北九州の戦争遺跡』より生き残ったたった一人の家族であるお父さまも、瀕死の重傷で入院。小学校1年生で一人ぼっちになってしまった佳子さん。お父さまの友達の家で過ごしたり、病院から学校に通ったり、一人ぼっちで過ごしたり、・・・「一丁5円の豆腐を買って、味噌を溶いた中に入れて、ご飯にかけて食べていました。」食べるものだけではありません。着るもの、持ち物、生活用品、生活そのもの・・・一つ一つ、一日の生活を考えた時に、「無くて困ったもの」がたくさんあったのだろうと思います。でも、恐らく、子どもの佳子さんには、「何が無いのか分からない」部分もあったのではないかと、今は想像します。というのには・・・戦中、戦後のお話を聴いた後、最近の話(家族の話など雑談?)をしていた時のこと。話の流れの中で、私が、「私は、退職してようやく母から漬物の漬け方を教わりました。」と言った時に、すぐに佳子さんから「私は、漬物を知らなかったのよ。食べたことがなかったの。」と返ってきたのです。私は、ハッとしました。自分の想像力の乏しさを恥じました。「想像」というものが、「体験」に支えられていることを改めて考えさせられました。子どもの頃の体験の価値の大きさを知りました。その人にはなれないけれども、「注意深く」「丁寧に」想像することが重要だと、胸に刻みました。ーーー佳子さんの明るさに支えられ、大変楽しい時間を過ごさせていただきました。佳子さんは何度もおっしゃいました。「私は、先生方に支えられました。」佳子さんを送り届けての帰りの車の中で、ふっと、2つの「賞状」のことが頭に浮かびました。戦争中に小学生がもらった賞状↑佳子さんが中学生の時にもらった賞状↑片や「賞状」を励みに、「『人殺しをする戦争』に加担する」人間を育てた。片や「賞状」を励みに、「人生をたくましく生きる」人間を育てた。ほんの7年足らずで、この変わり様。教育の力の大きさ。本来、「教育」とは何なのか?人間とは?私の中で揺るぎない「人間像」の土台にあるものは、「人間は、人殺しをするために生まれてきたのではない。」ということ。だから、教育は、「人殺しをしない人間を育てるためにある」ものである。(乱暴な言い方ですが。「人殺し」の中には「人権を奪う」という意味が入っています。)その目的を達成させるために、あらゆる手段を講じるべき崇高なものであると考えています。すべての大人がそういった教育の意味を考え、子どもたちと関わらなければ、同じ過ちを繰り返す。と、最近強く考えます。


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昨日(2024.11.24)、水巻町にある、日炭高松の前身三好炭鉱の犠牲者を祭る三松園に、石仏の清掃活動に行きました。(TICO PLACEから、車で10分弱)「とってもいい腐葉土ができてるね!」などと言いながら、一年間で伸びた葛や根っこと格闘。最後は刷毛で、石像の顔や身体をキレイにして、犠牲になった方のお名前を呼びます。お花を手に持つ石像石像には、日本人の方の名前と朝鮮人の方の名前が刻まれています。日本の植民地政策のもと、日本に来て働いていた方がおられたことが分かります。異国で、それも地中での重労働に従事させられる毎日の中で、人生を終える…無念な思いを想像します。「おかげで、豊かに暮らさせていただいています」慰霊と同時に、石像周辺がキレイになるのが目に見えて分かるのが楽しくて、夢中になって活動させていただきました。その後、自分の不注意から、足首を大きく捻ってしまい病院へ・・・毎日のように、「伝えたい」「ブログに書きたい」と思いながら、目の前の仕事に追われてきました。足首を氷水浸けにして、その辛さを、シベリヤ抑留者の方を思い出しながら、「こんなこと大したことない!」と、我慢。「できた時間」で、数日間のことをインスタに挙げました。(以下、長文ですが。)この三日間。たくさんの方が来館してくださった。金曜日(11月22日)午前中。戸畑から20数名の年長者のみなさん。驚きをもって資料を見られていた。中に、敗戦時に子どもだった方の声。「思い出すねぇ。」「思い出したくないねぇ。」そんな中、「私はね、もともと双子で生まれたの。」と、私の耳元で、小声で話してくださった方がいた。「誰にも言わないんだけど、八幡の空襲でもう一人は亡くなったそうなの。」どれだけの人が、心の奥底に、人には言えない(言いたくない、言ってはいけない、言っても仕方ない、…その理由は様々だと思う)戦争による傷を抱えて生きて「いる」のだろう。・・・戦争を体験せずに平和を享受している私たちは、せめてこのことを知ろうとすべきだと思う。そして考えた。いつか、人には言えない戦争による傷を抱えて生きて「いた」のだろう。と、完全な過去形になる日が来るのだろうか…新たな「戦争による傷を抱えて生きている」人が生まれてしまうのではないだろうか…と、今の日本のきな臭いを現実に思いを馳せ、心配になった。そんなしなくてもよい苦労をつくらないように、全力で今できることをしなければ!と、思った。午後は、長崎から原田小鈴さんが来館!小鈴さんのお祖父様は、広島と長崎で被爆した二重被爆者。小鈴さんは、大変なご苦労をされたその経験とお祖父様の伝えたかったことを、全国各地「聴きたい!」と言われれば、飛んで行って話をしておられる。前の資料館でも話をしていただいた。そのとき以来の小鈴さん!久しぶりにお会いできて、うれしかった!!「こんなにやっても『核抑止』と言う。世界には核使用をチラつかせる為政者がいる。…時々、虚しくなります…。」「でも、やり続けなければならない!」力強い言葉。前向きで明るい小鈴さん。元気とやる気をもらった!土曜日(11月23日)。天候不順な中、20代の青年が来館。長い時間、いろいろなことを話した。「日米地位協定の話など、日米の関係の話をすると、『陰謀論?』とか言われるんです。議論ができないんですよ…。」『おかしいと言えない』というよりも『おかしいと思わない』国民がつくられている現実を近くに感じ、心が重くなった。だが、真っ当に向き合い、考えようとする若者がいることも、近くにある現実だ!諦めてはいけない!!日曜日(11月24日)。視覚障がい者の団体(23人)が来館。資料に「触れられる」ことが、こんなにステキな出会いもつくるんだと嬉しかった。願いを込めて作った多目的トイレも、とても役にたった!①義手②各種爆弾(金属製)③各種爆弾(陶器製)④千人針⑤…という順番で見てもらった。金属製爆弾に触ってもらった後、手を取り、「そのまま右に手をずらしてください。」と、陶器製手榴弾に誘導。「あら。プラスチック?………いや。土かな?」「さすが!正解です。」楽しいやり取りの中、皆さん熱心に話を聴いてくださった。とても明るい声で、「ありがとね。がんばってね。」と言ってくれた。ふと、脳裏に、障がいのある方が戦争の中でどんなに酷い扱いを受けたか…これまで学んできた悲しい事実が浮かんだ。「すべての国民が幸せを感じながら生きられる世の中に、戦争は要らない」強く思った。TICO PLACEに来てくださる方のお陰で、常に『大切なことは何か』を考え、そのためにがんばることができている。感謝!ちょっと、辺鄙な所にあるTICO PLACEに来て、平和の尊さを感じ、さらに、自然の心地よさを感じて帰ってくださる来館者のみなさん。来てくださる方々のお陰で、私の心が強く優しくなっています。


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2024年11月4日。快晴。北九州平和資料室TICOPLACEの第4回目のイベントの日。ドラム設置準備中~秋になり、陽が低くなり、横から陽が入る・・・これで精一杯(笑)手ごねパン「Andante」~いつも美味しさとやさしさを運んでくれる~軍事化される沖縄の島々の様子(南西シフト地図展示)に関心をもたれる参加者の方11時。ちびっ子ドラマーSOUTAの「さよーなら またいつか」のドラム演奏で開演!ドラム演奏「さよーならまたいつか」熱演するSOUTA~後ろにニコニコ顔で見守るパパの姿が~よりパワーアップしたSOUTAの演奏に、参加者の皆さん、くぎ付けでした。(以下感想より)・とても楽しそうに演奏していて、こちらも元気になりました。これからの活躍を応援しています。・ドラム演奏、とても楽しそうに演奏している姿がすてきでした。・末恐ろしい小三のドラマー そうた君の名演奏に聞き惚れました!・かわいいそうたさんの技術のすばらしさに感動しました。平和な世の中で、自分がしたいことをできることが幸せだなと感じました。・そうた君のドラム感動しました!!好きなことを見つけて集中できること コレは将来にきっと生かされます。頑張って!!・すごいドラムのテクニックでした。これからも頑張ってください。・素晴らしかったです。とても上手で、このまま、平和活動と共に邁進してほしいと思います。アンコールにも応えてくれて、一番前で聴いていた小学生の姉妹が曲に合わせて踊る姿も見られました!(写真を撮ったはずが・・・)子ども達、ステキです。私は、子ども達の生き生きとした姿を見ながら、その後の講談のテーマ『対馬丸事件』のことを思いました。「この子らと同じ年頃の子ども達が、大人の始めた戦争の所為(せい)で・・・」と、悲しくなりました。同時に、『今』また、「疎開」ならぬ「避難」計画が持ち上がっていることが浮かんできました。悲しくて、悔しくて、情けなくて…やるせない気持ちと憤りと負けない気持ちが湧いてきました。SOUTAの演奏を聴きながら、SOUTAの生き生きとした姿を見ながら、反戦の思いを強くしました!!SOUTA、ホントにありがとう!!!!すばらしい演奏の後は、旭堂南照さんの講談『ミチコ先生とマーマレードと対馬丸』でした。前日。南照さんとの打合せの時に、「登場する時に、何か音楽をかけた方がいいですか?」と尋ねると、「忌野清志郎の曲『明日なき世界』をかけてください。」と。実は、講談を聴くのは初めての私。出囃子とかそういう感じでの登壇だと思い込んでいました。かなり驚きました!!(平和を考える意味のある曲なんです。)大き目の音量で、南照さん登場!!と、なんとかそこまではよかったのですが、その後、マイクの音が…ホントに申し訳ない!!プロの世界で活動されている南照さんにとっては、最悪の事態ですよね。でも南照さん、慌てている私に気を遣わせないように、自然な感じで、参加されている皆さんにお話をしてくださったんです。繋ぎ止めてくださったんです。なんと、おやさしい!!これぞ、平和をつくる人の手本!!と、今振り返れば、叫びたくなります。が、『その時』は、泣きそうでした。(私の単純な操作ミスでした…)・南照さんが、講談に入る時の「切り替え」がすごくて、「さすが、プロだなぁ~!!」と、思いました。かっこよかったです!!!  by 大学生まず、笑顔で引き込み、次に「声」で引き込み、いつの間にか「話」に引き込む、南照マジック!!以下参加者の感想の一部です。・講談があんなに面白いなんて!新しい世界を見せてもらって、ウキウキでした。・声の響きに引き込まれました。・戦争のテーマを伝える時に、どうしてもかたく、暗くなってしまうと思うのですが、活力と勇気をいただきました。・講談を初めて聴きましたが、すばらしかったです!!・南照さんのパワーがすごい!対馬丸の講談、すばらしかった~。続けてくださいね。スタッフが、動画で見られるようにしてくれました。お時間のある時にどうぞ。↓講談「ミチコ先生とマーマレードと対馬丸」一席目の講談の後、夏の子ども向けのイベントにも登場してくださったケイコさんに、読み聞かせをしていただきました。『きみがおしえてくれた』という絵本です。戦争中、犬や猫、ウサギなどの動物たちの命までもが、戦争に利用されたことを伝えるお話です。そして、その時代を生きた人々の心にも、悲しみ、苦しみとして残っていることを伝えるお話です。夏には叶わなかった「犬猫の毛皮が使われた兵士のコート」を小竹町の『兵士庶民の戦争資料館』からお借りして展示させていただきました。その重さに、まずは驚きます。そして、毛に触れて、自分の飼っていた犬たちを思い出します・・・何度手にしても、胸が締め付けられてしまいます。さらに、ケイコさんの読み聞かせは素晴らしく、「きれいな声に本の世界に引き込まれ、とても心に残りました。」と、感想をいただきました。(屋外でプロジェクターで絵を映し出すのは、至難の業・・・結局、一番苦労したのに「無くてよかった」と思いました(笑)。ケイコさんの語りだけで、十分想像できます。「次」の時は、紙芝居風にしてみようと思います。失敗は成功のもと!)さて。今回参加された方から、チラシを預かりました。「犬やねこが消えた」というお芝居が、来年4月に、直方で行われます。劇団は「俳優座」さん。東京からやってきます。今からぜひ、予定に入れておいてください!!(大人2000円/高校生以下無料)チケット、TICO PLACEにもあります!!さて。読み聞かせの後、南照さんが、もう一席『春日局』をお話してくださいました。徳川三代将軍家光の乳母春日局のお話。二代将軍秀忠の長男竹千代(後の家光)の幼少期の様子と彼を取り巻く人々の動きや春日局の企み?そこに人が居るような錯覚を覚えるくらい南照さんの語りは見事!!そして、人間の想像力と創造力の豊かさを考えさせられました。こうして無事に終えた第4回目のTICO PLACE のイベントは、『人間』ってすごい!!と心から思えるものになったように思っています。参加してくださった方には、「どれも素晴らしかった!」「来てよかった!!」とよい感想をいただきました。私の方も「やってよかった!!」です。出演してくださった方、参加してくださった方、イベントまでお手伝いしてくださった方、当日お手伝いしてくださった方、宣伝してくださった方・・・多くの方々に感謝し、簡単なご報告とさせていただきます。本当にありがとうございました。<裏話・追記>●高座作り●初めての講談。「場づくり」をどうすればよいか、頭の中で考えていたことをやってみたのは本番前日。「どうしてそんな直前に!!」と思われるかもしれませんが、TICO PLACEは、「手作りの資料室」。「余裕のない」ことだらけでして・・・簡単にはいかないのです・・・高座は、こうやってできています(笑)↓資料を引っ越しさせた時の写真 イベントをした時に「イス」として使えるようにと、「床」を作ったんです!高座に変身した「床」作りながら感動したのが、数がぴったり!!だったこと。ささやかな達成感。(笑)●仲間●夏の子ども向けのイベントの後、何ともやりきれない気持ちに陥ったことを思い出します。今回は、「共に意見を言い合える仲間」を得て、本番当日も大きな力となりました!!これまでも、「手伝ってくれる仲間」はたくさんいました。その方々が居なければこれまでのイベントも開催をすることはできませんでした。心から感謝しているし、これからも感謝して、お願いしたい(笑)と思っています!!しかしそれだけでは、「当日」がうまく回らないことに気付いたんです。「当日」をイメージできている仲間が必要だったんです。一人ではできない! ホントにホントにありがとう


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来週月曜日、11月4日(月・代休)。TICO PLACEの第4回目のイベント『旭堂南照さんの講談会』を開催します。(あと少しゆとりがあります。よかったらご予約ください。⇒https://docs.google.com/forms/d/1yrQpKNcCYgOF5SY357EdLdw941ZPecp-uasN-4tyf_0/edit題目は『ミチコ先生とマーマレードと対馬丸』です。『対馬丸』をご存知ですか?『学童疎開船 対馬丸』という言葉を耳にされる方も多いのではないかと思います。沖縄戦に巻き込まれないようにと、長崎県に避難していた『対馬丸』が魚雷攻撃を受け、撃沈。約1500人の方が亡くなりました。そのうちの半数以上が小学生だったという悲しい出来事です。「戦争になると、子どもも何も関係ない。誰が乗っているかとか、分からないんだから…。だから戦争はいけない!」と、つい最近まで私は、単純にそう思っていました。でも、この過去の事実から学ぶべきは、もっと他にあることを『今』の沖縄・南西諸島(九州全体を含め)の軍事化を学ぶ中で知りました。日本郵船博物館のHPに以下の説明が載っています。「対馬丸」(6,724トン)1916(大正5)年に当社が開設したニューヨーク航路の第1船となった貨物船で、第2次世界大戦中陸軍に徴用されていました。戦争末期、敵の沖縄上陸が必至とみた日本軍の要請で、政府は老人、女性、子ども10万人を本土などへ疎開させることを決定。1944(昭和19)年8月21日「対馬丸」は、国民学校の生徒・教師・付添人ら1,661人を乗せて那覇港を出港しました。しかし2日目の夜、南西諸島悪石島の北西12キロメートル付近を航行中に、米国の潜水艦「ボーフィン」号の魚雷攻撃を受けて沈没。乗船していた学童767人、乗組員24人を含む1,484人が犠牲となり、救助されたのは学童59人を含むわずか177人。歴史上きわめて悲惨な出来事でした。~日本郵船歴史博物館HPより~対馬丸は、当時、陸軍に徴用されていたんです。つまり、日本軍の船だったということです。おまけに、砲を三問装備した武装商船でした。見た目に、軍用船と判断できる状態だったんです。このことを含めて私が学んだことは、「武装したものは狙われる」ということです。「軍用船」としての対馬丸のことを考えたのは、先月、宮古島と石垣島に視察に行った時のことでした。宮古島で「島を戦場にさせない!」と、子育てと仕事をしながら運動されている「お母さん」と、石垣島で、戦争を体験した「おばあ」と、軍事化が進められる『今』の島を案内していただき、いろいろと話をした時でした。宮古駐屯地前で石垣島にて『今』、南西諸島(先島諸島)の島々では、有事の時の避難計画が作られています。市民への説明が行われたり、避難訓練が行われたりしている島があるのです。政府は台湾有事などの際に沖縄県・先島諸島の住民が九州・山口の8県に避難するためのモデル計画をまとめた。国民保護政策を所管する内閣官房の事態対処・危機管理担当(事態室)が3日、九州地方知事会に計画の概要を示した。沖縄本島の南西に位置する先島諸島の5市町村には11万人が暮らす。最西端の与那国島と台湾はおよそ110キロメートルしか離れていない。今回のモデル計画は大規模な避難計画を策定するための具体例として示した。モデル計画によると、宮古島と石垣島の間に位置する多良間村の住民1000人ほどを24時間以内に熊本県八代市に空路と陸路で輸送する。現地の宿泊施設に1カ月滞在することを想定する。村民はバスなどで多良間空港に移動し、空路で宮古空港(宮古島市)を経由して鹿児島空港(鹿児島県霧島市)に移動する。同空港から1時間半かけて八代市内に設ける「避難先連絡所」に貸し切りバスで移動する。連絡所はホテルなどの滞在先に移動する拠点となる。村役場の機能を持たせるほか通信環境も整備する。ホテルや旅館での受け入れを基本とする。足りない場合は公営住宅なども活用する。政府は先島諸島に避難指示を出す際、避難先に指定した地域への訪問自粛を求める方針で宿泊先は全室が空室であることを前提とする。政府は有事には先島諸島の5市町村の住民11万人と観光客1万人の計12万人が避難する必要があるとはじく。九州・山口8県の収容可能人数を調べたところ36万人となった。今後、各県はモデル計画を基に受け入れ計画を調整する。5市町村の住民らの受け入れ先は石垣市が山口県、福岡県、大分県、竹富町が長崎県、与那国町が佐賀県、宮古島市が福岡県、熊本県、宮崎県、鹿児島県、多良間村が熊本県となる。(2024.6.3 日本経済新聞)知っていましたか?「避難計画が出されるくらい危険な状態なの?!」と、不安に思う方もおられるかもしれませんが、こういう時こそ、よく考えなければならないと思います。これまでの歴史から。世界中の状況から。置かれている自分や家族、大切な人の状況から。自分自身の生き方から。・・・いろんな視点から、『今』、どうすべきなのかを考えなければならないと思うのです。「対馬丸事件」から学ぶこと~軍事関係施設は狙われる~から考えると、ミサイル配備を進めていることが、戦争を引き寄せている行為だと思えてなりません。また、「沖縄戦」は、軍隊は住民を守らない・守れないことを教えてくれています。私が出会った島の方々は、力を込めておっしゃいました。「生まれ育った土地を離れて、そう簡単に暮らすことはできません。それもリュック一個で、避難するなんて・・・。農業をしている人は自分の土地を捨て、どうやって暮らすんですか?酪農を営んでいる人は、牛たちをどうしたらいいんですか?漁業をしている方たちは・・・。」「歳をとられた方が、『もうそんなに長くは生きられないんだから、私は避難しないよ。』と言ったら、『そんな人は助けることはできません。まず、インフラが止まる。それに、自衛隊は住民を守る余裕はありませんから。』と。日本の国全体からしたら『多少の犠牲は仕方がない』。その『多少』の中に私たちは入っているよね。」私は、「自分だったら…」と考えながら、その方の話を聴きました。「戦争できる努力をする前に、戦争にならないようにする努力を、私たちはしてほしいんです!!」ホントにその通りだと、これまで以上に強く思いました。一部の犠牲を払って平和を保つというのは、本物の平和ではない!!ましてや、自分の払ったお金で戦争するための準備が為されるなんて、自分も戦争に加担したことになる!そんなことは絶対にイヤだ!!私の中の人間としてのプライドが騒ぎ始めます。実際問題、上の記事にあるように、福岡県も避難を受け入れています。収容可能人数36万人!?どこからの試算なのか知りませんが、仮に受け入れ場所があったとしても、人が生活するには、食べること着ること、そして、働くこと・・・そんなに簡単な事ではありません。具体的に想像すると、その計画にゾッとします。戦争中、宮古島には、住民の半分以上の兵隊が上陸してきました。その兵隊たちのために、自分たちが働いて作った農作物をすべて供出させられた住民たちは、食べる物がなく、処理の仕方を間違えたら命を落とすほどの毒を持つソテツも食べなければならなかったといわれています。似たようなことがまた、計画されていることに憤りを感じます。あまりにも『カンタンに』考えていると私には思えてならないのです。想像力の欠如。『他人事』の考え方。「自分だったら…」と考える国民を増やさなければ!と、少々焦りながら毎日自分のできる事をしています。『対馬丸事件』のことを調べていたら、疎開を追体験する子ども達の様子を取材したニュース動画を見つけました。https://youtu.be/oBha8Ryvxtchttps://youtu.be/NUrIzkaJzmU沖縄から宮崎県に疎開した学童たちがいたこと、やーさん(ひもじい)ひーさん(寒い)しからーさん(寂しい)辛い思いを乗り越え、生きたこと、戦後も宮崎に残り、沖縄の伝統文化を大事に生きたこと、・・・知らないことをたくさん知りました。二度と同じ思いをさせてはならない!!未来を生きる子どもたちのためにも、『今』一人一人の大人が真剣に考え、行動する時だと思います。


「どうして『戦争』によるさまざまな悲劇が起きたのか?」その理由を考えることができるような展示ができないか・・・そのことを考えられる展示を目指した、今年の『平和のための戦争展』(8/31~9/1)でした。図面上20mの展示スペースと計算して、家でゴソゴソ…日本の軍隊のしくみや実際については2m・・・ TICO PLACEにある実物資料や写真を活用しながら、「考える」展示ができないものかと、かなりの時間考えました。まるで、もう一度資料室の展示をやり直しているような、そんな感覚になりました(笑)結局、時間切れで、考えたことを十分に表現することはできませんでした・・・まだまだ、「言葉」や展示の仕方に工夫が必要です。これを土台に、また、来年に生かしたいと思っています。しかしながら、私の中には、戦争によって苦しんだ人(自国他国を問わず)が、それまで以上に強く住みつきました。それまで以上に、「戦争にならない方法」を真剣に考えています。9月には2度も、小学校に平和学習に行く機会をいただきました。修学旅行で大刀洗平和記念館に行く6年生には、『特攻』という事実があったことを知ってもらうだけでは、不十分だと思いました。「どうして、死ぬことを前提とした体当たり攻撃をしたのか?することになったのか?」と、そこを考えることが、本当の平和をつくる力になるのではないかと考えました。そういう気持ちに至らせた『教育』の話を、当時の小学生(国民学校)の日記をもとに話をしました。5年生の子どもたちには、少しでも戦争を自分事として捉えてもらいたくて、戦争中の日常の様子の写真をいくつか提示しました。今の自分たちと変わらない笑顔の人たちが、悲惨な体験をすることになってしまう・・・いろいろなことを学び、自分の頭で考えられる人になろう!と話しました。修学旅行で長崎に行く6年生には、どうして、北九州に原爆が投下される予定だったのか?と、当時の北九州のことを伝えました。そして同時に、原爆によって苦しんだ方(吉田勝二さんと谷口すみてるさん)の話をしました。一発の原爆により、人生がめちゃくちゃになること、また、生き残った自分の命を「二度と自分のような経験をする人が出ないように」と、「反戦」「核廃絶」に捧げた人がいて、今の平和がつくられていることを知ってほしいと思いました。この夏。出張展示を考えたり、出張学習を考えたりすることを通して、私の中にまた強く深く、戦争体験者の体験や『平和を願う声』が刻み込まれました。それに加えて、宮古島と石垣島に伺い、軍事化の現状と今を生きる人たちの『平和を願う声』を聴き、心に刻んできました。そして今、令和6年度日米共同統合演習(実動演習)「キーン・ソード25」について 2024年9月 防衛省より 令和6年度日米共同統合演習(実動演習)「キーン・ソード25」について 2024年9月 防衛省より新しく「特定利用空港」に指定された北九州空港をはじめ、沖縄や九州、全国で、これまで以上に大規模な日米共同演習が行われようとしています。この現状を、私の中に生きる多くの平和を願う人たちの声と重ね合わせて、今、自分にできる事を考えています。「『戦争のない世界』をつくる方法」を考えています。頭が痛くなるくらい考えています。私が考えたところで、何か変えられるわけではないことは分かっています。でも、考えずにはいられないのです。戦争は、人間がつくる。ならば必ず戦争をなくすことができる!!いつかきっと。その道筋を作りたいのです。