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誰でも本が作れる、本が発行できる、出版社が作れる革命

現代の出版のシステムに反逆する旧時代的な手づくり工法によって、真の価値をもった作品を読書社会に投じていきます。誰でも本が作れる、誰でも本が発行できる、誰でも出版社が作れる革命によって作られる本です。

現在の支援総額

37,420

124%

目標金額は30,000円

支援者数

14

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2023/04/25に募集を開始し、 14人の支援により 37,420円の資金を集め、 2023/05/18に募集を終了しました

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124%達成

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目標金額30,000

支援者数14

このプロジェクトは、2023/04/25に募集を開始し、 14人の支援により 37,420円の資金を集め、 2023/05/18に募集を終了しました

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翼よ、あれが巴里の灯だ第三幕 創作の力を取り戻した彼女の書斎、ドアを開けると木組みのテラスになっている。彼女はその二つの空間を移動しながら独白していく。「アンナは酒樽のなかでおぼれていた私を救い出してくれたのよ、私の体の中からすっかりアルコールはしぼりだされていった、そしたら水がおいしかった、こんなに水がおいしかったのかって思ったわよ、朝のにおい、風が運んでくる森のにおい、草の香りがする、もう大丈夫よ、生命のリズムがもどってきたの、もう私はあなたの背中に背負っている十字架がしっかりと見えるわよ。あなたに立ち向かうだけの人間になったの。話してちょうだい。あなたの七十年の人生のドラマを。アンナはあふれて出くる泉みたいに話してくれたわよ、朝のテラスで、森を散策しながら、昼さがりのポーチで、夜の居間でね、それは大きなタペストリーを織り上げるように話してくれた。ドイツなまりの癖のある英語で、朴訥で力のある言葉で、信念と誠実の言葉で。アンナは二十五歳のとき、ドイツからアメリカに渡ってきた、古い大陸に生まれた、閉塞の社会に生きる若者たちにとって、アメリカは希望の大地だったわけよ、ニューヨークの18丁目六番地のイタリア人の経営するベーカリーに職を得て、いつの日か自分の店をもちたいっていう希望をいだいて働いていた彼女の前にあらわれたのが、彼女より一歳年下だけど、たくましく、誠実な大工のハンプトマンと恋に落ちるのよ、二人は堅実だった、彼らの恋愛はまず結婚するための資金をつくろうということからはじまっていくのよ。二人はこつこつとお金をためて、彼らのすむ住居を手にしてから、それで、友人たちを招いて、友人たちに祝福されて結婚するのよ。この二人の堅実な生き方をみてよ、これはとっても重大な視点なのよ、ハンナの夢は自分のベーカリーをもつことだった、パン作りの技法を磨き、その店の開業資金をこつこつとためて、もうすぐその夢にふみだすというときに、突然、ハンプトマンは逮捕されるのよ、二年も前に起きた、アメリカ中を揺るがした、リンドバーク・ジュニアの誘拐事件の犯人として、なんなんだ、これはいったいどういうことなんだと叫ぶハンプトン、まったく身に覚えのない犯行が次々に彼に貼りつけられて裁判にかけられる、ハンプトンはその裁判でも一貫して無罪を叫ぶけれど、陪審員は全員ハンプトンに有罪の判決を下す。アンナも懸命にさけぶ、夫は無実よ、夫は何もしてないの、何もしていない夫がなぜ死刑判決なの。そんな叫びもむなしく、夫は、電気椅子に座らされ、二千ボルトの猛烈な電流をながされて処刑される、そのときアンナは三十八歳、それから三十年間、彼女は夫の無実をはらすための戦いをつづけている女性だったのよ。アンナが懸命に話するその磔刑の人生に耳を傾ける時、酒におぼれていた自分がなんて愚かな、腐った、ぼろきれみたいな人間だったのかって思ったわよ、心がふるえた、心がもうエンジンをかけたみたいにぶるぶるとふるえた、作家としての生命がめらめらと燃え上がってきた、作家として立たねばならない、これこそ私が書かねばならない、激しく突き上げるものがありながら、私はだらしなくだらだらしていたのは、大きな壁があったからなのよ、私はフィクションの作家なのよ、フィクション作家は、タイプライターの前に座って、想像力で、自分のなかに育っていく物語を打ち込んでいけばいいのよ、だけど、アンナのタペストリーを書くためには、それまでの私の文体を打ち壊さなければならない。私は作家としての文体をうちこわすという私自身の革命が必要だった。そんなことで、その仕事に取りかかるのをぐずぐずしていたら、とてつもない本がベストセラーになって登場してきたじゃないの、トルーマン・カポーティが書いた「コールドブラッド」が、カンザス州のアイダホという小さな村で起こった一家四人が殺害された事件をえがいたノンフィクション、カポーティってもともとフィクションの作家だったのよ、ところが彼は一大変革をとげるという芸当をやってのけた、彼はその事件を描くために徹底的な取材からスタートする、アメリカのド田舎アイダホまで何度も足を運び、その地に行われた裁判にも欠かさず出かけて、二人の殺人者にも何度もあって、彼らを収容した刑務所まで足をはこんで、独房で殺人者とキスしたりしている、そうなのよ、ノンフィクションを書くには、まず足を使って取材からのスタート、そのことがなかなか踏みだせなかったけど、「コールドブラッド」の登場で私も、ようやくエンジンをかけて、アクセルを踏み込んで、リンドバーク・ジュニア誘拐事件の取材からスタートさせるのよ。


この講座は、共に対話する場だと思いますので、若いお二人の詩人にちょっと長めの質問をさせて下さい。アメリカにウオルト・ホイットマンという詩人がいます。南北戦争とか、リンカーンが大統領だった時代に生きた詩人です。彼は草の葉という詩集のなかに膨大な詩を刻み込んだ詩人です。ホイットマンの刻み込んだ詩はすたれるどころか、いまなお脈々としてアメリカ人のなかに流れこんでいて、巨大なアメリカ杉のようにアメリカの大地に聳え立っています。たとえば、作家になりたいと志望するアメリカ人はだれもがホイットマン体験をしています。作家たちだけでない、画家も、彫刻家も、映画監督も、俳優も、ロッカーも、ラッパーも、ダンサーも、芸術家たちだけなく政治家だって、銀行員だって、工員だって、店員だって、営業マンだって彼の詩を読んでいます。ハリウッドでつくられる映画にはたびたびホイットマンの詩が登場してきます。毎年生まれる壮大なアメリカ文学のなかにもホイットマンの詩が引用されています。ホイットマンの詩は、アメリカの一つの精神の核を作っているのです。このホイットマンを日本にはじめて紹介したのが夏目漱石なんですね。その当時のホイットマンはまったくの無名で、ブルックリンの安アパートで貧困にあえぎながらほそぼそと詩をかいていた存在で、アメリカ人でさえ彼の詩など読んだこともなかった。そんな存在だったホイットマンの詩に着目して、その詩人の存在を日本に紹介した夏目漱石の英語を読む深さに驚くばかりですが、こうして日本に上陸したホイットマンは、言葉によって人生をつくりだしていこうとする人々に熱く支持されていって、やがて志賀直哉や武者小路実篤や有島武郎らによって白樺派という大きな文芸運動が起こるのですが、そのムーブメントの底にホイットマンの詩が脈々と流れていたのです。有島武郎などはアメリカにわたり、草の葉を翻訳しています。こうして日本に根づいたホイットマンの詩は新しい人々によって次々に翻訳されていって、とくに酒本雅之さんは二度にわたって草の葉の全詩集を日本語にして、それが岩波文庫に上、中、下の三冊になって刊行されていくのです。しかしいま私たちはこの三冊を手にすることができません。岩波はこの詩集の刊行を打ち切っているのです。それはこの詩集がまったく売れないからです。彼の詩を読もうとする日本人がいまやどこにもいなくなったからです。こうしてこの日本ではホイットマンが刻み込んだ草の葉は消えていきます。なぜホイットマンの詩が読まれなくなったのか、なぜホイットマンの詩が消えていくのか。それは私たちのことばである日本語がどんどん劣化している、いよいよ力を失って衰弱している、そのことと軌を一にしているからだと思います。このことを鋭く指摘した方が、この会場にいます。どこか背後のいるはずですが、この隣町珈琲は雑誌を発行していて、その雑誌の創刊号の最後のページ、たった二ページ、四百字詰め原稿一枚程度の短いエッセイのなかにそのことがかかれています。このエッセイを書いたのはこの店の店長である栗田佳幸(よしゆき)さんで、彼はこの短いエッセイを次のように書きだしています。言葉がつらい、と。見事な書き出しです。なぜ言葉がつらいのか、彼はこう明かしていきます。自分の発している言葉や書くもの、読むもの、すべてに現実感なく、条件反射的に発する言葉さえのど元につっかえて消えていくと。そしてこのフレーズは次のように展開されます。まるでメツキがはがれるように言葉の意味が喪失していく。言葉は本当に信用できるのだろうか、言葉にはそのリアリティを回復するだけの価値があるのだろうかと。この栗田さんが問いかけるフレーズは、いま私たち日本人が対決すべき原点だと思うのです。かつて白樺派という大きな文芸運動を起こした人たちは、言葉の力を信じていました。言葉には力があり、言葉によって光を放つことができ、言葉によって新しい地平を切り開けるのだと絶対的に信じていた。彼らが興した文芸運動はそういうものでした。しかしいまや言葉とは親指だけでなんの思考もされずに、即物的に打ち込まれるだけのものになってしまった。言葉とは自己を確立していくのではなく、自己を自滅させていくものになっていく。さて、ここで、ぼくが若い詩人に問いかけるは、言葉の力がどんどん衰弱していく言葉の受難の時代に、これから言葉の道をどのように歩いていこうされているのか、そんなことをお二人におたずねしたいのです。長くなってすみません。


 車は高速を用賀のインターで降りる。瀬田の交差点に出るとなぜかいつも赤信号である。左側の窓がとんとんと叩かれた。ファイルから目を上げてその窓を見やると、ヘルメットをかぶった男が車内を伺っている強い視線に出会った。顔面をヘルメットで隠しているから見えるのはその男の目だけだった。男の目は車内の人物が目指す標的だと確認したからか、皮手袋をはめた親指を立て、人差し指を突きだして銃口をつくると、ぱあんと弾丸が発射したようにその手をはじき上げた。それからにやりと笑ったような目を寺田に残して、爆音を派手にけたてて前方に走り去っていった。 瀬田の交差点を右折して数百メートルほど走り、焼却場の信号を左折して森閑とした世田谷公園の脇を通って、高級公務員の官舎となっている建物が立っている一画にでる。その一画を囲む塀が築かれていて、入口も鉄柵で塞がれている。その鉄柵の前にはガードマンが張り付いていて、ガードマンが車中の人物を確認してからその鉄柵が開く。彼の車が停車すると、そのガードマンよりさきに五、六人の男たちが飛び出してきて、左右の窓から中をのぞきこんだ。新聞記者たちだった。敷地の内部に入れないから、夜討ち朝駆けのマスコミの取材者たちは、ここで官僚たちのコメントをとるのだ。 車中の人物が目当ての人物でないとわかると、彼らはさあっと車から散っていた。その敷地には建物が五棟立ち並んでいる。局長級の官僚たちの官舎だった。洋治の部屋は四号棟の三階だった。部屋の中はガランとしている。彼は独身だった。一度も妻帯したことはない。それに家具を置かない主義だから、四LDKの部屋はよけいにガランとしている。 一つの部屋にフィットネス・バイクが置いてある。スポーツクラブに設置されている高級マシンである。速度、走行距離、走行時間、さらには心拍数から消費カロリーまで計測してくれる。洋治は帰宅すると、まずスーツを脱ぎ捨てそのマシンにまたがり、テレビのニュース番組をみながら三、四十分ほど汗が噴き出るまでペダルを漕ぐ。その日負荷したストレスをその汗とともに流し去るのだ。それからバスに入り、たっぷりと浴槽に身を沈めてさらにリラックスさせる。それが彼の一日の締め方だった。 バスから上がると、冷蔵庫からパックを取り出し牛乳をグラスに注ぐ。彼は夕食を取らない。朝、出勤前に朝食をとる。そして職員食堂が空になる二時過ぎにその食堂で昼食をとる。彼の日常はストイックだった。さまざまな仕事が飛び込み、不規則に不規則にと流れていく官僚の生活を、彼の鉄の意志がストイックに引き締めている。時間、食事、家具、生活、彼の全生活がストイックだった。その鉄の意志は監獄で鍛えられたものだった。監獄での鉄の規律の生活が、彼のストイックな生活をつくりだしていた。 寝室に入ると、ベッドの脇においてあるロッキングチェアにすわり、サイドテーブルに置いてある本を手にする。このところ彼が手にするのは、メルビルの「白鯨」だった。分厚い原書をぱらぱらとページを繰り、その長大なストーリーもあと十数ページで閉じられるあたりのページを開いた。エイハブはモビィデックと遭遇する。その最後の戦いに突入していく場面だった。“Oh, Starbuck! It is a mild, and a mild looking sky. On such a day—very much such a sweetness as this—I struck my first whale—a boy-harpooneer of eighteen! Forty—forty—forty years ago!—ago! Forty years of continual whaling! forty years of privation, and peril, and stormtime! forty years on the pitiless sea! for forty years has Ahab forsaken the peaceful land, for forty years to make war on the horrors of the deep! Aye and yes, Starbuck, out of those forty years I have not spent three ashore. When I think of this life I have led; the desolation of solitude it has been; the masoned, walled-town of a Captain’s exclusiveness, which country admits but small entrance to any sympathy from the green country without—oh, weariness! Heaviness! Guinea-coast slavery of solitary command! サイドテーブルには他に四冊の本がのっている。「白鯨」の翻訳本である。この長大な古典は廃れることなく、時代とともに成長していくからなのか、いまでも新世代の訳者によって翻訳されている。しかし寺田がそのテーブルに載せてある本は、ページが黄濁していて古本屋でも手に入らないような代物だった。言葉に厳しい彼は、どうも最近訳されていく本は気に入らない。即物的に訳されていて日本語に艶がないのだ。翻訳とはいかに魔術的な技を駆使して日本語に編み上げていくかにあるに、その魔術的な技を手にしていない人間たちが訳しているからだろう。 翻訳者たちは高度な技を駆使して、日本語という布を織り上げていく。同じ原文が訳されているのに、翻訳者によってまったく違った日本語が織り上げられている。それぞれの翻訳者が磨きに磨き上げて紡いだ日本語が、全く別の本となって登場してくるのだ。これらの本を手に取り読み比べていくとき、日本語とはなんと豊かな言葉なのだろうと感嘆する。日本語に新しい生命を吹き込み、新しい色彩で、新しい文体で、新しいヴィジョンで、日本語を限りなく豊かにしてきたのは翻訳者たちだった。「おお、スターバック。何というおだやかな、おだやかな風だ。何とおだやかに見える空だ。ちょうどこんな日に──まったくこんなにうるわしい日に──わしは最初の鯨を撃ったのだ──十八歳の少年銛手だったのだ──四十……四十……四十年の昔だった。──昔だった! 四十年間、鯨を追いつづけた。四十年の困苦欠乏、危難、そして生の嵐。四十年間、冷酷の海にいた。四十年間、エイハブは海洋の恐怖に戦いをいどんで、四十年間、平和な地上をすてた。真実のところ、スターバックよ、わしはその四十年のうち、三年とは陸にいなかった。このわしの生涯を思えば、荒涼たる孤独というほかはない。船長の孤立とは、石できずかれた城塞にかこまれた城市のようなもんだ。外の青々とした野からの同情は、ほとんど入りこむ隙もないのだ。このことをすべて思えば──侘しさ、重苦しさ、ギニア海岸からの奴隷さながらの孤独な指揮の日々」(阿部知二訳)「おい、スターバック! 何と優(やさ)しゅう、穏やかな風、また優しゅう穏やかな空の色であろう。このような日に──このような麗しさの日に、おれは初めて鯨を撃った──十八歳の若い銛打ちであった! 四十──四十──四十年の昔じゃ! ああ、昔じゃ! 四十年つづけて鯨捕り! 四十年の欠乏生活、危難、そして嵐! 四十年を情容赦もない海の上で送ってきた! 四十年のあいだエイハブは平和な陸地を見棄てて、四十年のあいだ荒海の無数の脅威と戦ってきた! そうじゃ、嘘はない、スターバック、その四十年間に、おれは三年と陸では暮さぬ。このおれの送った生涯を思えば、まことに荒涼たる孤独の一生であった。ひとを寄せつけぬ船長室の城郭に立て籠って、外の緑の国からのどんな同情をも入らせなんだ──ああ、あの疲労! あの重荷! ギネア海岸の奴隷のような孤独の指揮者!」(田中西二郎訳)「スターバック! 何というおだやかな風だろう。おだやかだ。それになんとおだやかな空だろう。こんな日だった、まさにこんなさわやかな日だった。わたしが初めて鯨を屠ったのはな──十八歳の少年銛打ちだった。以来四十年。四十年だ、あれから四十年が経ったのだ。四十年のあいだ休まず鯨を追って来た。窮乏と危険と嵐のなかに四十年を生きてきたのだ。非情の海に四十年を過ごしたのだ。四十年のあいだエイハブは陸の平和を顧みず、四十年のあいだエイハブは海の恐怖に挑んできたのだ! 然り、スターバックよ、そうなのだ、この四十年のうち、私が陸の上にいたのは三年も満たぬ。自分が過ごしてきたこの人生を思うと、我が人生は孤独と寂寥のそれであったというほかはない。船長なるものはな、一分の隙なく積み上げられた石壁が囲む街のなかに、ひとり隔絶され閉塞されておる人と同じなのだ。外に緑なす田園があろうとも、そこから寄せられる同情はなかに入る隙を見出すことができぬ──ああ、ただ独りで船の指揮を執るものの疲れと苦しみ! それはギニア海岸で買われて行く奴隷の状態と変わらぬ」(千石英世訳)「おお、スターバック! なんというおだやかな風だ、なんというおだやかな空だ。そんな日だった──これそっくりの、おだやかな日だった──わしが最初の鯨をしとめたのは──わしがまだ一八の若き銛打ちの時だった! 四○年──四○年──四○年前のことだ! ──そんなむかしのことだった! それから間断なく鯨を追う四○年! 困窮と、危険と、嵐の四○年! 非常の海での四○年! その四○年のあいだ、エイハブは平和な陸地を見すてておったのだ! その四○年のあいだ、海の恐怖とたたかってきたのだ! そうだ、そうなのだ、スターバックよ、わしは、そのうちの三年とは陸ですごさなかった。思えば、わしがおくってきたこの生涯は、まことに荒寥として寂莫たるものであった。石を積み、壁をめぐらせた船長の孤独は、城壁の外なる緑の田園の同情を受け入れる余地などあろうはずもない──ああ、疲労と困憊の極致!ギニア海岸の奴隷さながらの孤独な指導者の境遇よ!」(八木敏雄訳) 洋治は中学生のときからこのような読み方をしてきた。そしていまでも就寝前にこのひと時を持っている。それは彼にとって欠かすことのできない乾いた魂を潤す時間だった。原文と日本語訳を交互に読むとき不思議な現象がおきていく。そこに言葉の音楽が生まれるのだ。あるときはチェロソナタになり、あるときはバイオリンソナタになり、あるときはバイオリンとヴイオラの弦楽二重奏曲になって聞こえてくる。さらにその翻訳が三つ四つ五つとあると、そこで奏でられる言葉の音楽は、あるときはピアノ三重奏曲となり、あるときは弦楽四重奏曲となり、あるときはクラリネットが加わるクラリネット六重奏曲になって豊穣な時間のなかに誘いこんでいく。


 そのシンポジュームは音楽教室で開かれた。その教室が使われたのはちょっとしたステージがある小さなコンサートホールといった部屋で、おまけに教室の窓の真下に尊徳像が立っているという演出効果もあった。市内や福井県下の学校からだけなく、関西や新潟県の学校からも教師たちがやってきて、席が埋まるばかりの盛況な集会になったのだが、しかしその日の参加者は同時に、音楽教室の窓から異様な光景を目にすることになった。一人の人物が尊徳像の台座に上がり、その全身を銅像にロープでぐるぐると何重にも巻きつけて立っているのだ。 その闘争はそれで頓挫してしまった。というのはこのシンポジュームを取材にきた地元日刊紙の報道者は、石の抗議行動こそニュースになるとばかりに、尊徳の銅像にロープをぐるぐると巻きつけて立っている写真を大きく紙面に載せるのだ。その写真は読者に強烈な印象を与えたのか、朝から学校の電話は鳴り続けた。その記事は地元紙だけではなく全国の新聞に配信されたものだから、それこそ日本各地から途切れなく電話がかかってくる。それは思いもよらぬ展開だった。彼がわが身を銅像に縛りつけたときは、反戦のプラカードを胸と背中にぶら下げて、お茶の水の駅からたった一人の行進をはじめたときと同じように、また長い孤独な戦いがはじまると思っていたのだ。それが一週間たっても鳴り続ける電話、全国各地から発信されてくる夥しい数の手紙や葉書、そして右翼団体の車がやってきた。 思いもよらぬ騒動の発端となった尊徳の銅像にロープで縛りつけた写真を見たとき、石は自身の姿の醜さに嫌悪した。安っぽい猿芝居に登場する猿そのものに見えたのだ。自分はこんなにもあさましいことをしたのかと。しかしそれは彼の行為があさましいからではなく、マスコミが切り取ったアングルのせいなのだと彼は嫌悪感をぬぐい去ろうとした。が、しかしこの騒動はなにやら彼が嫌悪する通りに展開になっていった。マスコミが報じたのは、その猿芝居的なポーズであって、彼がなぜ銅像撤去に反対をするのか、なぜ尊徳の銅像にわが身を縛りつけるような意志を表示をしたのか、そんなことはどうでもいいことだった。 しかし結果的には、マスコミが作り出したその騒動によって、銅像撤去の闘争は消え去るのだが、石はこういう結末を見たときこう思ったものだ。あの戦争のさなかに、胸と背中にプラカードをぶら下げてお茶の水の駅からスタートしたたった一人の反戦の行進が、たとえ猿芝居の猿のように報道されたとしても、このような波紋の渦が日本各地で起こっていたなら、戦争はもっと早く終結していたはずだと。 その翌年度の人事異動で、校長はこの学校を去り、闘争を主導していった教師たちも他校に転任させられた。この人事異動によって、尊徳像撤去の闘争は完全に鎮火されて、いまでもこの学校には薪を背負った少年の尊徳像は立っている。 石もまたその年に学校を去った。彼にもおそらく懲罰人事といえるような人事異動が下るはずだったが、しかしその内示が下される前に辞表を出していた。同僚たちは、騒動を引き起こしたことに対する責任をとったのだろうなどと噂しあったが、石の側からみればそれはまったく逆で、尊徳像にわが身を縛りつけた彼の闘争にさらに深く踏みこんでいくためだった。そのことを彼はすでにある人物に語っていた。彼はその人物に語ったことに踏み出すために学校を去ったのである。 日本が全面降伏したその年の十月に、三千人にも及ぶ政治犯が獄から解き放たれるが、そのとき石も釈放されている。土屋文明は傷害罪も絡んだ複雑な事例だったが、それでも翌年には釈放された。封印されていた東条狙撃事件が次第に世に伝播されていったからか、獄を出た土屋の周囲に一人また一人と熱く燃える人間たちが集まってきた。日本を滅亡に導いた大帝国にたった一人で立ち向かった土屋の声望は高く、彼が日本党を創立したとき、会費を払う党員が一万人をこえるほどだった。石もまた創立されたときからの党員であった。別に政治活動をするわけではなかったが、それでも日本党福井県支部なるものをつくって、彼は彼のやり方で日本党を支援していた。土屋の真摯なる生き方に熱い友情を感じているからだった。 それは土屋もまた同じで、六歳年上の石を人生の師であるかのように接していた。関西あたりに所用があると必ず福井を回って石のもとを訪ねる。土屋は彼と会うとなにか魂が浄化されると感じるほどに石を慕っていたのである。だから、銅像にぐるぐるとロープで巻きつめた石の写真を新聞と見たときの驚愕と言ったらなかった。土屋はただちに日本党の隊員を四台の車に分乗させて、福井県新庄中学に長駆した 昼夜を徹して、まるで学校を襲撃するかのように勢い込んで駆けつけてきた土屋を、石はやんわりと諭した。「この騒動は私の学校内の問題である。私が立ち上がったのは、学校を政治的闘争の場にすることへの抗議であった。それが断りもなく、新聞は私の写真を載せた。それでいま学校は、嵐に見舞われたような騒動になっている。あなたたちまでが東京から駆けつけるようになってしまった。あの新聞報道は非常に不愉快で、なにか泥をかけられたような思いだった。その不愉快な記事で巻き起こったこの騒ぎがまた私を不快にさせ、私が抗議したことの本筋からいよいよ離れていく。そんなわけで、あなたの気持はうれしいが、ただちに部隊を引き返してもらいたい」と。そしてそのとき石は彼の本心を土屋に語るのだ。「銅像にロープを巻きつけるなどまったく猿芝居的行動であった。まんまと興味本位の報道に走るマスコミの餌食になってしまった。私がこのような行動を起こしたのは、ただ尊徳像を撤去する闘争を排撃することにあるのではなく、この闘争を背後で仕組んでいく日教組に立ち向かうためだったのだ。日本の教師たちの大半が日教組の組合員たちである。これは恐ろしいことだ。 日本の子供たちは日々、マルクス主義や共産主義や社会主義に洗脳された教師たちの授業を受けていく。日本の教育の危機であり、日本の危機なのだ。いまや巨大な組織になってしまった日教組を一人の力で打ち倒すことはできない。しかしその巨体に銛を打ち込むことはできる。これは以前から考えていたことだが、私は次年度に学校を退職する。そしてあなたが日本党を創設して日本の政治の中に深く切り込んだように、私もまた日本に真の教育を取り戻すための結社を旗揚げしようと思っているのだ」 大きな鐘は強打すればするほど大きな音を響かせるということなのか、このとき土屋もまた石の魂の鐘を強く叩きかえしてきた。「今日の騒動、左翼運動の日本の地殻を揺り動かすばかりのうねりや、学生たちが引き起こす騒乱は、まことに日本の危機であり、このままでは日本丸は転覆するという危機感を、私もまた強く抱いているところであります。急激に左傾化していく日本丸を救い出すために日本人は何をすべきなのか。それは左翼の波を迎え撃つ大きな右翼の波を起こさねばならないと思っているのです。しかし現在の右翼的勢力はいずれも小さく、しかもばらばらの地点に立って、狼の遠吠えよろしくむなしく吠えているばかりです。しかしいまようやくこの国難に、いまこそ立ち上がらねばならない。立ち上がって勢力を結集しなければならない。先生のお話をうかがって、とうとうその時が天から下されたように思われました。先生が日教組の胴体に、銛を打ち込まんと創設する政治結社の旗が空に高く翻るとき、私もまた先生の決起に呼応して、右翼運動の波動をつくりだす政治連盟を結成したいと思います」 学校を去った石は、自宅の敷地に二部屋ほどの小さな家屋を建てた。そこに石塾という看板に掲げ、小学生から中学生たちを教える私塾を開いた。その小さな私塾が同時に、日教組打倒という活動をはじめた政治結社「石の会」の拠点だった。土屋は石に語ったように「石の会」の生誕と呼応させて、全国各地に点在する右翼団体を統合して日本政治連盟を創設する。その連盟に石は薬指を落として加わった。 


わが町  松村達雄 いつの時代、いかなる国にも、時流からはやや超然たる立場を保持しつつ、独自の風格をもつ特異な作家というものが温かく見出されるものである。現代のアメリカ文学において、小説家兼劇作家Thornton Niven Wilder (1897- )はやはりそうした範疇に属する存在だといってよいであろう。Wilderは、二十年代の終り頃、書物で読む劇ではなく、舞台で見る演劇に興味を失ってしまった。文学、詩であるべき劇作品が舞台で見ると、とたんに虚偽の扁列になってしまう。Wilderはこの原因を、19世紀以降中産階級の興隆によって、演劇が彼らの安易な慰安の具と堕してしまったところに見出す。観客から隔離された、いわば箱の中にはめ込まれたような舞台で演ぜられるものが、劇の生命を殺してしまうのだと考える。演劇というものは何よりも、個別的なものを同時に普遍的なものとして示すべき形式であるのに、時間と空間に限定された子供じみた写生的輿実を追求して、それで観客の心を捉えようとしている。こうした傾向に反撥して、「見せかけのまことらしさ」(verisimilitude)よりも「想像的な真実性」(reality)を捉えようとして、自分は一幕物を書き始めたのだ、とWilderは述懐している。彼が理想として思い描くのは、Shakespeareの舞台、わが能舞台などに見出される遍在性、普遍性(ubiquity)なのであった。Our Town はNew Hampshire 州の田舎町Grover’s Corners をその背景として、そこに見出される平凡な人たちの平凡至極な生活を描いたものである。第一幕が「日常生活」、第二幕が「恋愛と結婚」、第三幕が「死」を収扱って墓場の場面を展開する。この劇では、普通舞台に見出されるような、写実的な背景、大道具小道其といったものは一切用いられない。つまり普通の意味での舞台装置は全く省略され、ノヽシゴとか椅子とか細長い板とか最小限の道具類に依って、象徴的に観客の想像の眼に訴えかけるのである。さらに進行係Stage Manager という劇の物語外の人物が終始舞台に現われ出て、観客に直接語りかけ、また臨時に劇中の人となっては端役的な役割を演ずる。この劇の背景であるGrover's Corners は合衆国東部の州の片隅に位置する田舎町であるが、Grover's Corners はじつは地球上どこにあってもかまわないのである。そこに生活し恋愛し死んでゆく登場人物たちは、じつは地球上至る所どこにでも見出される人たちなのである。作者はこのことを次のように序文の中で語っている。  (私はこの田舎町を最も大きな時間と場所の背景の下においた。 この劇で繰り返し現われる言葉は(それに気づいた者は殆どいないが)「幾百」、「幾千」、「幾百万」などである。エミリーの歓びや悲しみ、彼女の代数の時間、彼女の誕生日の贈物、こうしたものは、かつて生存し、現在生存しつつあり、また今後生存するであろう何十億というあらゆる娘たちのことを考えるとき、一体それが何だというのであろうか。)かくして私はすでに述べたことをもうー度ここに繰り返さねばならない。即ち、劇作家としても小脱家としても、Thornton Wilderは時流からはやや超然たる立場を保持しつつ、常に時間と空間に限定されない、人間の悠久な永続的な様相を取扱う作家である。