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誰でも本が作れる、本が発行できる、出版社が作れる革命

現代の出版のシステムに反逆する旧時代的な手づくり工法によって、真の価値をもった作品を読書社会に投じていきます。誰でも本が作れる、誰でも本が発行できる、誰でも出版社が作れる革命によって作られる本です。

現在の支援総額

37,420

124%

目標金額は30,000円

支援者数

14

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2023/04/25に募集を開始し、 14人の支援により 37,420円の資金を集め、 2023/05/18に募集を終了しました

エンタメ領域特化型クラファン

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現在の支援総額

37,420

124%達成

終了

目標金額30,000

支援者数14

このプロジェクトは、2023/04/25に募集を開始し、 14人の支援により 37,420円の資金を集め、 2023/05/18に募集を終了しました

現代の出版のシステムに反逆する旧時代的な手づくり工法によって、真の価値をもった作品を読書社会に投じていきます。誰でも本が作れる、誰でも本が発行できる、誰でも出版社が作れる革命によって作られる本です。

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北の果一人いきる 漁師 92歳   北海道礼文島人里はなれた島にある集落があります。暮らしているのはたった一人。浜下福蔵さん、91 歳。漁師として海とともに生きてきました。長いあいだ福蔵さんが続けてきたことがあります。自然への想い、消えいく故郷(ふるさと)の記憶を詩に残す。「自分の命がある限りといえば変だけどなあ、命があるから書けるのよ」夏風に負けずに咲いた花の美しさあの花は何と言う力強いものがあった俺もあのようにして生きたい日本海にうかぶ礼文島。人口およそ2700人。漁業がさかんな島でした。福蔵さんが暮らす鮑(あわび)古丹は強い風と荒波が打ち寄せる島の北端にあります。5月「ああ、風あるなあ」福蔵さんは91回目の春をむかえました。毎日自宅前の高台から海を見下ろします。「いやあ、今日もまだ吹いてる、明日は南東の風っていうだろうなあ」鮑古丹に生まれ育ち漁師となって70年あまり。杖が手放せなくなった今も毎日浜に出かけます。「これ、浜下さんの船ですか」「そうそう、うちのもんだ」今、鮑古丹の浜を使うのは、福蔵さんと離れて暮らす息子夫婦だけになりました。「カモメが一羽もいないと思ったら、いないはずだわ、食べる物がねえんだ、こんな食う物がねえところにいるわけねえな、なぜおれはいるんだ。不思議なくらいだ」水揚げも少なく、物寂しい島、かつては活気にあふれていました。明治から昭和にかけて、鮑古丹はニシン漁でにぎわいました。「ニシン漁にさ、青森とか秋田とか、百人ぐらいきたよ、にぎやかだった、話せば数かぎりなくあんけど、すばらしいところだった」父親のあとをつぎ、中学卒業後漁師になった福蔵さん。以来、鮑古丹の海とともに生きてきました。今、一つの歴史を閉じようとしている鮑古丹。最後の住人となった福蔵さんは、鮑古丹をかたちにしてきました。漁師日記と名づけた日々の記録、天気や海の様子、大自然に営みを書き続けてきました。「何日、何日、強風、何の風だって、それから(漁師日記を書いてから)、おれの一日がはじまるのよ」日記のあとから必ず書くのが詩です。長い時は二時間以上、納得いくまで書き続けます。「この部屋に入ったときは、なにも考えてねえんよ、こう外さ見て、太陽が光ったり、曇ったり、それについて書く。単純に発想するように心を運ぶ。ああ、今、太陽が光った」福蔵さんは、太陽の輝きを笑顔と感じました。太陽の笑顔、美しい俺も笑顔の 鮑古丹「どういう形で残るがわからないけど残したい。残したいから書く,自分の命がある限りと言えば変だけど、命があるから書ける。だけんども、字がついていっているかどうかはわからねえな、自分はおとろえてるからなあ、それでも書きたいんだなあ、うむ」浜に人影がありました。福蔵さんの長男裕司さんと、その妻の陽子さんです。五キロほど離れた別の集落で暮らしています。「タコ漁、きょう仕掛けて、明日揚げるのよ」毎年親子三人で操業していたタコ操業ですが、福蔵さんの姿がありません。「今年も行く行くと張り切っていたけど、足腰の回復が遅れているみたいで」実はこの春先から福蔵さんの足腰は悪化していました。この日も、夫婦が網を仕掛けている姿を高台から見守るしかありませんでした。翌朝。4時。福蔵さんは大きな決断をしました。「漁、行きますか?」「行かない、もう自分はダメだ、寒さがきついし、動作が鈍くてもうダメだ、波のあるときは、体かわさねばならねど、それもできない、漁師が沖に行けねえことはつらいことだなあ、みんな行くけど自分にはもういけない、朝早く起きて、海を見て、みんなと会話して、操業してたから、悔しくないと言えないけど、やっぱりさみしい」沖に向かったのは、息子夫婦だけでした。この日に境に福蔵さんは船に乗ることはありませんでした。大切なしてきた鮑古丹の海を息子夫婦に託しました。沖は強風操業注意漁師、君の大漁を祈るタコ漁を仕掛けた息子夫婦の船が浜に戻ってきました。水揚げが気になる福蔵さんが゛浜におりてきました。「どうだ、大漁か?」「タコ一杯だな。ソイはいつぱい入ったけど」「ソイは入った?」「ソイとタラかな」自宅に戻った福蔵さんは、詩を書き始めました。息子夫婦に言葉を送ります。祈る心に 二人を想え明日も働く北漁場大漁祈り 海を見るこの鮑古丹は美しい長い人生 輝けそして、福蔵さんは、漁をあきらめた自分自身への言葉も書きました。漁師の出漁出来ないのがさみしい働いた海と別れるゆくのが心に代わり 涙降る「さみしいとか、なんとか、もう度を超えてしまった、きようまであの船から降りたことはねえもん、三人でやった、なんぼ頑張っても自分の体はこれ以上動かない、動かそうと思っても動かない、詩をかくとなんとか、モノに例えて書いているけんど、本当の気持ちはそんなもんじゃねえよ、ああ、泣いた、泣いた」福蔵さんの目からもぬぐってぬぐっても涙があふれでてきます。


世界一の翻訳の技
2023/05/15 06:00

世界一の翻訳の技圧倒的な英語の襲撃を、翻訳者たちは烈しい気迫と情熱で立ち向かっていき、その英語をことごとく日本語のなかに取りこんでいった伝統は、今日でも脈々と引き継がれていて、外国語を翻訳する力、とりわけ英語を翻訳する力は群を抜いているのではないだろうか。アメリカやイギリスで出版された話題作やベストセラーは、ことごとく翻訳されて日本の読書社会に登場してくる。私たち日本人は世界のベストセラーが、瞬時に母国語で読める国に住んでいるのである。翻訳者がその原文に取り組むとき、記述が論理的に展開されていく本──政治や経済や科学技術や学術関係の本の翻訳は比較的容易なはずである。水は酸素と水素で成り立っているという論理が展開されている本ならば、その文章を機械的に即物的に日本語に転換していけばいいのである。ところが磨きに磨いて書き上げられたエッセイや小説や詩などはそうはいかない。それらの本は数式的に即物的に訳することができない。なぜならその文章には涙や怒りや祈りといった人間の感情のさざなみだけでなく、あたりの景観──光や影や風や空気や騒音や静寂が、さらにはその時代や歴史が縫い込められているからである。多様多彩な言葉の糸で織りこまれた布を、日本語の布に移し替えるのは容易ではないのだ。だからどんなに練達した翻訳者でも、その本のあとがきに「果たしてこの美しい原文が訳されたかどうか、はなはだこころもとない」と嘆くことになる。しかし日本の翻訳者たちは、これらの本を鍛え上げた技を駆使して、その原文の行間に、あるいはたった一行の文章の奥にただよわせる光や風や匂いや音までを、繊細微妙に日本語に織り込んで読書社会に送り出してくれる。さらに幸運なことに、日本人の琴線に触れる名作が新しい翻訳者によって新生の生命を吹き込まれて、繰り返し何度でも読書社会に登場してくる。このような国もまた世界に例をみない。原文と訳された日本語を交互に読むとき、読まなくともただ眺めているだけでも、ある不思議な現象がおきていくことに読者は気づかれたことがあるだろうか。そこに言葉の音楽が生まれるのだ。あるときはチェロソナタになり、あるときはバイオリンソナタになり、あるときはバイオリンとヴイオラの弦楽二重奏曲になって聞こえてくる。さらにその翻訳が三つ四つ五つとあると、そこで奏でられる言葉の音楽は、あるときはピアノ三重奏曲となり、あるときは弦楽四重奏曲となり、あるときはクラリネットが加わるクラリネット五重奏曲になって、私たちを豊穣な時間のなかに誘いこんでいく。


その事件の四日前
2023/05/11 02:30

その事件の四日前 文部科学省は政府官庁の建物が林立する端に立っているが、官庁ビル一ののっぽビルだった。初等中等教育局長室は二十七階にある。テニスコート一面ほどの広さだ。寺田洋治は八時過ぎにその部屋を出る。朝は八時前に局長室に入っているから、十二時間勤務したことになる。部屋を後にするとエレベターホールに向い、ノンストップのエレベターで地下三階に下り、送迎車専用の玄関に出る。そこで局長専用車に乗り込む。それが寺田の退庁するときのルーティンだった。 彼は夜の会食が嫌いだった。夜の街にくり出すことがさらに嫌いだった。会食の必要があるときは昼食時に組み込んだ。彼を料亭などに呼びつける政治家たちには、早朝なら空いています、先生のお話になりたいその複雑な問題は、頭脳明晰な早朝にこそふさわしいと応じる。 局長室付きの秘書事務官が、ねずみ色の封筒を携えて彼についてくる。エレベターは地下三階に下りていく。エントランスホールを出ると、彼を送迎する黒塗りの専用車が滑り込んでくる。秘書官がドアをあけ、携えてきた封筒を寺田に手渡すと、寺田はありがとうと言い、車に乗り込み、専属の運転手に「お願いします」と声をかける。官僚というピラミッド社会の階段を駆け上がっていく官僚たちは、次第に下位の階級に住む人間たちにぞんざいに振る舞うようになるが、洋治は威張ることはない。しかし彼の人格は単純ではない。むしろ複雑な人物だった。 車は地下から地上にあがり首都高速に入る。秘書官が洋治に手渡した封筒には、その日に発行された文科省に関連する新聞や雑誌記事のコピーがファイルされている。そのファイルを取り出して、さあっと目を通していく。それが彼のなすべき一日の最後の仕事だった。 その日のファイルが分厚い束になっているのは、この日に発行された週刊誌がいずれも、間もなく国会に提出される「初等・中等教育の教育課程に関する新教育指導要綱」を取り上げているためだった。いずれもどぎついタイトルで下半身的刺激を煽ろうとしている。それだけの安っぽい空っぽの記事だからざっと一瞥するだけだった。そんなファイルのなかで彼の手が止まった新聞記事があった。ある官僚の熱く長い戦い(一)翻訳ソフトの開発 今国会に提出される「改訂教育指導要領」は、現行の教育制度を根底から変える革命といえるだろう。中学と高校の全生徒にパソコンが支給され、教科書が廃止になり、ノートも筆記用具も不要になる。さらなる大改革は英語である。これまでの英語の授業は教師が教科書にそって英文の解釈や文法を教えていた。こういう授業もまた完全に追放される。 改訂指導要領による英語の授業は英会話中心で、一対一の対話、グループを組んでディスカッション、さらにはデベイトが行われたりする。教師の役割も一変する。教師はもはや授業の主役ではなく、会話レッスンの進行役、あるいはそのレッスンの管理人といったことになる。文法を教えることこそ英語教育の根幹であり、本道であると主張する英語教師たちからは、英語教育の破壊だと怒りと抗議の声が上がっている。 さらに激しい論議をよんでいるのは、英語の授業時間が拡大されたことである。これまで国語と同じく週三日の三時限授業だったが、新指導要綱では英語が突出して週五日の五時限授業、さらに土曜日の選択授業に英語を選択すれば週六日も英語の授業になる。日本の教育は英語中心になる、これでは日本語が滅んでいくという非難の声も湧きあがっている。 しかし文科省は大改革に向けて舵をきった。そこには一人の官僚の熱く長い戦いがあった。初等中等教育局長の寺田洋治である。文科省が巨大な船体の舵をきるまでの寺田の半生を三回の連載で追ってみる。 寺田は東京で生まれるが、その年に物理学者だった父親が東大からプリンストン大学に転任したため、彼はボストンで成長していく。一家が帰国したのは寺田が十三歳のときだから典型的な帰国子女だった。帰国子女の多くが日本語に苦しむが寺田は二つの異なった文化をバランスよく成長していったようだ。そして中学三年生のとき、今日の英語改革の素地をつくったといわれる「草の葉メソッド」による授業に出会う。 翻訳ソフトをベースにした授業である。ところが当時の翻訳ソフトの性能は、実用にほど遠い未完成品だった。そのことが物理学者の血が流れる寺田の科学的探究心に火をつけたようだ。東工大に入ると翻訳ソフトの開発に打ち込み、そのソフトが完成すると会社を立ち上げ、《オディセイ/ODYSSEY》という商品名で世に投じる。翻訳ソフトの革命と賞賛されるソフトだった。翌年にはその会社を大手のコンピューターメーカーに数十億円で売却している。 若くして寺田は巨額の金を手にするのだが、彼が選択したのは官僚の道だった。当時、官僚になるには国家試験合格者だけだったが、その年から学長推薦者を採用するというルートが取り入れられた。寺田はその新制度によって文部科学省に入省した一期生だった》 その記事は毎朝新聞の朝刊に載った記事だったから、今朝出勤途上の車のなかで目を通していたが、あらためて読んでみるとずいぶん安直に仕立てられたものだと思った。新聞記者はもともと情報を打ち込む人種だから、事件だって、社会現象だって、人間だってこの程度のとらえ方しかできないのだろう。それはそれでいいがこの記事には三つの間違いがある。 帰国子女が日本に戻ってきたとき日本に溶け込むことに苦労するものだが、寺田はそのことに苦しまなかったと書かれている。なるほどこの記事を書いた新聞記者はそのことを彼に問いかけてきた。しかし洋治はポーカーフェイスに徹してただ軽くクビを振った。彼は他者に弱みを見せない。苦しければ苦しいほどポーカーフェイスで耐え抜く、そういうタイプの人間だった。もしこの新聞記者が洋治のこのような性格を見抜き、ポーカーフェイスの内部に踏み込んできたら、多少は彼の実像を捕える記事になっていたかもしれない。 異国で成長してきた子供が、突然、言葉や文化や生活の異なって国に投げ込まれて戸惑わない子供がいるのだろうか。彼はまず猛烈ないじめに出会った。そのいじめに対抗するために必殺の一撃を習得するために空手道場に通った。その必殺の一撃とは、相手の攻撃から逃げるように避けるように体をかがめて一回転させ、右足を蹴り上げ、踵を相手の顔面に叩き込む──回し蹴りだった。道場から帰宅してからも庭に立てた柱に必殺の回し蹴りを叩き込んだ。そしてついにその日がきた。中学一年生の回し蹴りだったが、相手は三メートルも吹き飛んでいた。その一撃でいじめはばたりと止んだ。 彼をさらに苦しめたのは日本語だった。彼の第一言語はすでに英語になっていたから、彼の中学時代は日本語を第一言語にしようとした戦いの日々であった。言葉に鋭敏な少年だったからその戦いは深刻だった。偏頭痛に苦しめられ、アスピリンづけになっていた。そんな変調をきたすほどに追い詰められていた彼を救ったのが、中学三年生のときに出会った「草の葉メソッド」方式による英語の授業だった。 それまで二つの異なった言語の争闘は、彼の頭の中、あるいは彼の肉体の中で行われていた。それがその授業によって翻訳ソフト上で行うようになったからだった。偏頭痛が消えていった。アスピリンから解放された。分裂していくかのようだった精神や肉体が統一され、いわゆるバイリンガルとしての自己が形成されていった。彼が翻訳ソフトの開発に打ち込んでいったのは、いわばバイリンガルとしての人格を形成していくことでもあったのである。 開発した翻訳ソフトを大手ITメーカーに売却して、若くして数十億円という巨額の金を手にしたと書かれているくだりがあるが、このくだりも正しい記事とはいえない。なるほど彼が開発した翻訳ソフトは九十億で売却された。しかしその九十億は霞と化して消え去ったのだ。そのソフトを売却するための小さな会社を設立した。そのとき同じ東工大の研究室にいた手塚という男が、その事業の経理担当者になっていて、金の出納はすべて彼に委ねていた。 手塚は統計確率論を打ち立てようと研究室に在籍していたが、彼の体質は研究者ではなく、新しい企業を打ち立てたいという野心がつねにうずいていた。洋治が起こした会社もこの手塚によって主導されて、その会社が九十億円で売却されたのもこの男のビジネス的手腕によってだった。そんなことからも売却した九十億円は手塚によって管理されていたのだが、彼はその資金をひそかにインターネット取引に注ぎ込んでいった。もっとも危険なバイバイゲームで金を獲得できる商品取引に。  その世界はクリック一つで十億、二十億という金を稼ぎだせる世界だった。それは同時に一瞬にして百億、二百億を失う世界でもあった。手塚がひそかにその世界に手を染めていったのは、彼が編み出した統計確率論の実践に乗り出したのかもしれない。しかしそこは統計確率論などが通用する世界ではなかった。五十億を失い、六十億を失い、七十億円を失っていく。いよいよ追い詰められいく現実から逃れようと、競馬場、競艇場、競輪場に日毎に繰り出し、はては香港やマカオまで飛んでギャンブル漬けになって、地獄の底に転落していった。そしてマカオ近郊の森のなかで額に拳銃を撃ちこんで自殺した。こんな顛末があったことなど洋治はだれにも話したことはない。いまだにその真実を封印したままだった。


魔術的な日本語で紡いでいく最大の翻訳家、芹澤恵掛け値なしに日本一の翻訳家だと私が推奨するのはR・D・ウィングフィールド著のフロスト警部シリーズを翻訳した芹澤恵さんある。芹澤さんはO・ヘンリーの短編集も翻訳しているが、そのあとがきにこう書いている。「ニューヨークを舞台にした定番の作品は、訳者にとっては憧れの作品と言うべきもので、翻訳に取りかかったときには、わたしなりのO・ヘンリーを訳出するのだという意気込み、肩に力が入りすぎて、にっちもさっちもいかなくなった。そんなとき助けとなったのが、同じ作品を翻訳なさった諸先輩方の訳業だった。陽に灼けて茶色く変色したページに綴られていた日本語は何と豊かでふくよかだったことか。自分の未熟さを思い知らされ、無駄な力が抜けていく気がしたものだ。諸先輩方の訳業を味読し、勉強する機会を与えられたことも、訳者には大きな歓びだった」このくだりを読んでなるほどと合点したものだ。こうして日本の翻訳の技は引き継がれて成熟していく。この翻訳の伝統を受け継いだ芹澤さんの訳業が、ため息がでるほど見事な作品に結実したのがフロスト警部シリーズである。イギリスの作家R・D・ウィングフィールが書いたフロスト警部シリーズの原文は、時代とともに消えていく三流そこそこの小説だが、芹澤さんはこの三流そこそこの小説を、時代とともに消えていかない一級の小説に日本語訳によって昇華させたのだ。ちょっとその比較の例が奇抜すぎるが、夏目漱石の「吾輩の猫である」を読んでいるような読書の醍醐味を感じるのだ。つまり芹澤さんは「フロリスト警部」シリーズの訳業によって、夏目漱石の「吾輩は猫である」に比肩すべき一級の文芸作品を創造したのである。この訳業は、芹澤さんが師と仰ぐ田口俊樹氏の上をいき、今を時めく村上春樹氏などはるかに格下だと思わせるばかりなのだ。彼女の訳業がどれほど感嘆すべきものか一例をあげてあげてみよう。フロスト警部シリーズのどの本をとっても、どのページを開いてもいいが、ここでは「フロスト気質」の冒頭の部分を取り出してみよう。A  lone sky rocket clawed its way up to the night sky, scrabbled feebly as it started to lose height, then burst into a cluster of green puff-ball.Pc Mike Packer, twenty years old, barely gave it a glance as he turned the corner into Markham street. This was his first night out on the beat on his own and he had other things on his mind. He patted the radio in his top pocket, reassured he could call for help if help if he needed it.A clatter of footstep. Two teenage girls, heavily made up and dressed as witches, tottered past on high heels trailing a cloud of musky perfume. They whistled and called to him, blowing wet-lipped kisses. On their way to some Hallowe’en party and already drunk. Someone was going to score tonight. Grinning ruefully, Packer wished it was! But no such luck. He was on duty on this cold and windy night, pounding his lousy beat until six in the morning. He drew his head tighter into the snug warmth of his greatcoat and watched until the girls turned the corner. The wind snatched away the last whisper of their perfume and he was on his own again.ウィングフィールドが草したこの英文が、芹澤さんの魔術的手腕によってどのような日本語になっていくかを、一行一行さらってみよう。A lone sky rocket clawed its way up to the night sky, scrabbled feebly as it started to lose height, then burst into a cluster of green puff-ball.単発で打ち上げられた花火が、夜空に這い登り、一瞬だけ高みにしがみつき、力なく高度を失いかけたところで炸裂し、緑の光の綿毛を勢いよく周囲に飛び散らした。Pc Mike Packer, twenty years old, barely gave it a glance as he turned the corner into Markham street.その音にマイク・パッカー巡査──年齢二十歳──は、ちらりと夜空に眼を遣ったが、足を止めることなくそのまま通りを曲がってマーカム・ストリートに入った。This was his first night out on the beat on his own and he had other things on his mind.パッカー巡査が単独で警邏に出るのは初めてだったし、気を配るべき事柄ならほかにいくらでもあった。 He patted the radio in his top pocket, reassured he could call for help if help if he needed it.トップコートのポケットのうえから、携帯無線機をそっと押さえた。必要になった場合にいつでも応援を呼べるというのは、心強いことだった。A clatter of footstep. Two teenage girls, heavily made up and dressed as witches, tottered past on high heels trailing a cloud of musky perfume.このくだりの英文を今もっとも進化しているグーグルの翻訳ソフトで日本語に転換させてみると、「足音のガタガタ。 魔女に扮した2人の10代の少女が、麝香の香水の雲を追いながらハイヒールでよろめきました」である。つまりこのくだりの英文はこの程度のことしか書かれていないのだ。しかし芹澤訳はこうなるのだ。背後から騒々しい足音が近づいてきた。化粧品を総動員したとおぼしき顔に魔女の扮装をした、どう見てもまだ十代の少女がふたり、靴の高い踵に足を取られながらよたよたと通り過ぎていった。麝香に似た香水の濃厚な匂いを棚引きながら。「背後から騒々しい足音が近づいてきた」なんてことは英文のどこにも書かれていない。「化粧品を総動員したとおぼしき顔に魔女の扮装をした」なんてことも英文のどこにも書かれていない。「どう見てもまだ十代の少女がふたり、靴の高い踵に足を取られながらよたよたと通り過ぎていった」なんてことも、また英文のどこにも書かれていない。They whistled and called to him, blowing wet-lipped kisses.追い越しざま、ふたりは口笛を吹いてパッカー巡査の注意を惹くと、湿った唇の音をさせながら派手に投げキスを送って寄越した。 On their way to some Hallowe’en party and already drunk.ハロウィーンのパーティに向かう途中と思われた。なのに、早くもへべれけの一歩手前までできあがっている。 Someone was going to score tonight.この分では今夜のうちに、どこかの誰かが男冥利に尽きる饗応にあずかることになりそうだった。 Grinning ruefully, Packer wished it was! But no such luck.それが自分ではないことを思って、パッカーは憂いに満ちた笑みを浮かべた。世の中はそれほど甘くない。 He was on duty on this cold and windy night, pounding his lousy beat until six in the morning.身を切るような冷たい風の吹く今夜、マイク・パッカー巡査はなんともくそありがたくないことに、翌朝午前六時まで担当区域を警邏してまわらなくてはならないのである。 He drew his head tighter into the snug warmth of his greatcoat and watched until the girls turned the corner.首をすくめるようにしてトップコートの心地よいぬくもりに顎を埋めると、彼はふたりの少女が通りの角を曲がるまで見送った。The wind snatched away the last whisper of their perfume and he was on his own again.吹きつけてきた風が、少女たちの香水の名残を奪い去ってしまうと、パッカーはまた独りぼっちになった。単発で打ち上げられた花火が、夜空に這い登り、一瞬だけ高みにしがみつき、力なく高度を失いかけたところで炸裂し、緑の光の綿毛を勢いよく周囲に飛び散らした。その音にマイク・パッカー巡査──年齢二十歳──は、ちらりと夜空に眼を遣ったが、足を止めることなくそのまま通りを曲がってマーカム・ストリートに入った。パッカー巡査が単独で警邏に出るのは初めてだったし、気を配るべき事柄ならほかにいくらでもあった。トップコートのポケットのうえから、携帯無線機をそっと押さえた。必要になった場合にいつでも応援を呼べるというのは、心強いことだった。背後から騒々しい足音が近づいてきた。化粧品を総動員したとおぼしき顔に魔女の扮装をした、どう見てもまた十代の少女がふたり、靴の高い踵に足を取られながらよたよたと通り過ぎていった。麝香に似た香水の濃厚な匂いを棚引きながら。追い越しざま、ふたりは口笛を吹いてパッカー巡査の注意を惹くと、湿った唇の音をさせながら派手に投げキスを送って寄越した。ハロウィーンのパーティに向かう途中と思われた。なのに、早くもへべれけの一歩手前までできあがっている。この分では今夜のうちに、どこかの誰かが男冥利に尽きる饗応にあずかることになりそうだった。それが自分ではないことを思って、パッカーは憂いに満ちた笑みを浮かべた。世の中はそれほど甘くない。身を切るような冷たい風の吹く今夜、マイク・パッカー巡査はなんともくそありがたくないことに、翌朝午前六時まで担当区域を警邏してまわらなくてはならないのである。首をすくめるようにしてトップコートの心地よいぬくもりに顎を埋めると、彼はふたりの少女が通りの角を曲がるまで見送った。吹きつけてきた風が、少女たちの香水の名残を奪い去ってしまうと、パッカーはまた独りぼっちになった。


戦う教師──民主主義教育大日本帝国が瓦解すると石は即時に釈放され、再び新城中学校の教壇に立った。しかし郷里の人々が石に向ける視線は冷たく、その冷たい視線の奥には、反戦を貫いた彼の行為に対する非難がこめられているのだった。この教師は卑怯者だ。徴兵から逃れるために、子供を戦場に送るなというプラカードを掲げて通りを歩いたのだ。ただそれだけのことで徴兵から逃れられるなんてたいしたことを考えたものだ。彼の教え子はすべて戦場に送りだされ、彼の同僚たちもまた残らず駆り出された。しかしこの教師はついに戦争から逃れ続けた臆病者なのだ。それで日本が大敗北すると、まるで勝者気取りで、一人のこのこと故郷に戻ってきた裏切り者なのだ。彼に向けられる人々の視線の中にこもるそんな声が、石には肌に突き刺さる針にように感じられた。それは拘置された監房で、憲兵大尉が非難したことと同じ論理と倫理だった。しかし故郷の人々が石に投じる非難はまったく異質のものだった。憲兵隊大尉の非難は、国家の意志を守るための、いわば権力がつくりだした論理と倫理だった。しかし郷里の人々の非難はそうではなかった。わが夫が、わが子が、わが兄弟が、わが父が、わが従兄弟が、わが親族が、わが隣人たちが戦場から帰ってこなかったのだ。人々が戦争反対を貫いたいわば反戦の英雄に投じる石は、悲劇の運命を課せられた人々の悲しみと絶望の底から発せられる非難だった。こういう非難の視線に出会うとき、石はあの戦いは間違っていたのではないか、あの戦いは臆病者の卑劣な行為であったのではないかと思うことがしばしばだった。彼の戦後とはこの疑問を抱いて生きることだった。戦後の教育がまた彼を深く戸惑わせた。文部省からくりだされる民主主義教育なるのが、彼の支柱とし理想とする教育と、なにか根源から違っているのだ。例えば、戦前の教育では、中学生になると男女は分けられ、別々の教育を受けた。それが男女共学になってしまった。小学生ならば、男女が同じ教室で学ぶことは、理想的な教育のシステムだと石は理解している。小学生はまだ子供という領域にあって、男女の差がほとんどない。だから同じクラスで、同じテキストを使って、同じ教育をしても弊害は生じない。しかし中学生はちがう。その肉体にはっきりとあらわれるように、男女はそれぞれが別の生命体として成長していくのである。したがって中学生になったら、男女は異なった教育を受けるべきなのだ。男子はやがて社会に巣立っていき、社会を機能させていく仕事を担う。男子はその機能を担う人間として育てる教育が必要なのだ。そして女子は、男子とはまた違った大きな機能を担わねばならない、子供を産む、子供を育てていくという機能である。それもまた大きな仕事だった。人類を永続させていくというある意味では男よりも大きな仕事を担う性なのだ。そのためには女子のための教育が必要なのだ。しかし男女共学が学校教育法で公布され、日本の公立中学校はすべてそういう仕組みになった以上、教師としてその職にあるならば、石もまた男女共学の教育思想に転じなければならなかった。彼はそのための努力をしたが、どうも戸惑うことばかりだった。ということはついに男女共学だけではなく、戦後の教育思想に転換できなかったということだった。この男女共学のシステムもそうだが、文部省の繰り出した戦後の日本の教育政策の根底にあるのが、アメリカの教育思想だった。民主主義であり、プラグラティズムであり、合理主義であり、物質主義であり、統計主義であり、成果主義であり、科学的実証主義であり、点数主義であり、実用主義だった。例えば、戦前の教育にももちろん成績簿というものがあって、学期ごとに生徒たちを評価した。それは教師のもっとも神聖な行為であったが、そのとき石の基準とするものは、テストの点数ではなかった。たとえ試験で四十点しかとれなくとも、その子がその学期に一生懸命努力したなら高い評価をあたえた。たとえその子が九十点とっても、その子の努力が足りなければ、彼の評価は低くかった。人間はもともと不平等にできている。通信簿とはもって生まれた能力を査定したり、ランクをつけることではない。それは教育ではない。その子がいかに学んだか、その子がどれだけ努力したか、その子がどれだけ人間として成長したか、そのことを評価するのが通信簿であり、それが教育するということなのだ。しかし戦後の教育は、石が支柱に置くいわば精神主義的なあるいは人間主義的な、悪くいえばあいまいで主観的で情緒的でどんぶり勘定的な評価を許さないのだ。繰り返すテストによって子供たちの学力を検証し、その点数を克明に記録して、全生徒の成績を統計化していく。そして現実を統計的に反映させたというガウス分布によって、一人一人の成績を割りだしていくのだ。やがて全国の教育のレベルを統計化するために、学力テストが全国一斉に行われるようになっていく。教師たちはテストのための授業をするようになり、生徒たちはテストの成績を上げるために勉強をしていく。こうして戦後の教育は、テスト主義、点数主義一色なり、序列を競う教育になっていくのだ。石はその危険性を全身で感じとり、独自に抵抗する教育を続けていたのである。