昨年、甲子園ボウルの発展に大きく寄与したチャックミルズさんがお亡くなりになり、その際に関西学生アメフトリーグのnoteに投稿した「甲子園ボウルの父」というコラムに加筆して転載いたします。甲子園ボウルの発展に寄与したお二方のストーリーについてご一読ください。
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甲子園ボウルにも礎を築き、発展に寄与した”甲子園ボウルの父”と称される先人がいる。この父の日にその御二方をご紹介したい。
一人目は葉室鐵夫。
1936年ベルリンオリンピックにて200m平泳ぎで優勝。金メダリストとして日本のスポーツ界にその名前を残している人物。葉室は1940年まで世界ランキング1位を継続し現役を引退後、毎日新聞社の運動記者に転身。
戦後、葉室が在籍する毎日新聞社はアメリカンフットボール東西大学王座決定戦となる試合を計画。実施に向けての役回りが海外事情にも精通する葉室に課せられる事となった。
実現に向けて奔走する葉室は先ずは阪急電鉄に西宮球場での開催を申し込むのだが、阪急からは西宮球場ではなく隣接する西宮球技場での開催を勧められる。しかし葉室はアメリカの大学アメリカンフットボールのビッグゲームに付けられる「ボウル・ゲーム」という言葉にこだわった。「ボウル」すなわち、おわん型のスタジアムでの試合実現を目指し、当時、米軍に接収されていた甲子園球場での開催に絞り込む。
タイミング良く連合軍は1947年3月30日からの選抜中等野球大会(現センバツ高校野球大会)を甲子園球場で行うことを許可。ここに日本人の使用が可能となり、関西から前年リーグ戦優勝の同志社大、関東からはやはり復活したばかりの昨秋のリーグ優勝校・慶応大を招聘する形で同年4月13日に第1回甲子園ボウルの実現にこぎつけた。
甲子園ボウルはトップスイマー、そして運動記者として海外スポーツにも造形が深く、ボウルゲームの原風景に拘った葉室氏がいたからこそ、誕生した日本に初めてのボウルゲームといえる。
もうひとりの甲子園ボウルの父は、今年1月18日にその92年の生涯を終えたチャック・ミルズ氏。
チャック・ミルズは地元イリノイ州でコーチとしてのキャリアをスタートした後、66年にはNFLカンサスシティチーフスのコーチングスタッフに名を連ね、第1回スーパーボウルに出場。
1969年、アジア地区駐留の米軍フットボールチーム指導のために来日していたミルズ氏が、関西協会のメンバーと出会ったことがきっかけとなり、1971年にミルズ氏がヘッドコーチを務めていたユタ州立大フットボールチームが来日、日本の大学選抜とのゲームが実現する。
全米でトップ25に入る強豪校の初来日は画期的な出来事であり、関東と関西で行われたゲームでは日本の学生選抜チームに圧勝で帰国するのだが、このときに実施されたコーチングクリニックで、日本のスポーツ界はテーピングの存在とその重要性を初めて知ることとなったともいわれている。
その後もミルズ氏は、本場のフットボールや、そのトレーニング方法を学びたいという日本の関係者の熱意を受け止め、フットボール留学を受け入れた。また彼自身も毎年ように来日して積極的にクリニックを行い、スポーツドリンクの効用、メンタルトレーニングの重要性など、アメリカの最新スポーツ科学が氏を通じて日本のフットボール界にインストールされることとなる。
日本全国の学生アメリカンフットボールで、1年間を通じ、最も活躍した選手に贈られる年間最優秀選手、ミルズ杯はこうした氏の功績を讃えて制定されたものだ。
「ミルズ氏は我々にフットボールは“discipline”のスポーツ、サムライの精神と同じである、と教えてくれた」と、関係者は語る。
ミルズ氏は、日本にフットボールの神髄となる「こころ」を伝えてくれた功労者なのである。
甲子園ボウルの今の発展に尽力したこのお二人を含めた多くの先人への感謝を胸に甲子園ボウルを次世代に紡ぎたい。