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言うべき想いは無限にあり、私の頭に満ち満ちているが、言い表すことのできぬ想いもまた無限だ。リルケのことを想う。何年にもわたり一言も書けずに過ぎた後、わずか数週間で、海に囲まれた城で、ドゥイノの悲歌を産みだした。沈黙もまた、何かの準備なのだ。そうしてずっともの思いに耽っていると、不意に、潮の国の全てが、今、私には目が潰れるほど明瞭に見えていると感じられた。
東に太陽が顔を出し、それに応えるように潮がぐんぐん満ちていく。周囲の島々はゆっくりと水の下に沈んでいき、じきに極海の氷山のように高木の梢だけ残して姿を隠してしまうだろう。遠くでは、鷺の群れが、迫りくる洪水に備えて憩うていた島を離れ、安全な止り木を求めて水上を飛び去っていく。潮の国だけの、美しい暁—
美は
怖るべきものの始めにほかならぬのだから。われわれが、かろうじてそれに堪え、
嘆賞の声をあげるのも、それは美がわれわれを微塵にくだくことを
とるに足らぬこととしているからだ
私が、この土地に対して筋を通すためにできることは何なのだろう?あの人々の渇望、願望の力―それに応えるだけの、何を、私は書くことができるだろう?どのような文章なら、それを受け止めることができるだろう?滔々と流れる河のような文章を、正確な律動を刻む潮のような文章を、私は書くことができるだろうか?
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アミタヴ・ゴーシュ the Hungry Tide『飢えた潮』の主要登場人物の一人、ベンガル河口のマングローブ地帯シュンドルボンで後半生を過ごした老教師ニルマルの「手記」から、一年の始めに相応しい?文章をいくつか抜き出してみました(抜粋の都合上、実際の作品から少し切り貼りしています)。
この壮大な物語を突き動かしていく大きな原動力の一つが、このニルマルの残した「言葉」なのですが、この物語は一方で、人の「言葉」で伝わらない何ものかを「言葉」を通して表現しようという試みでもあります。
それがどのように表現されているかは、ぜひ書籍で。
とはいえそんなに理屈っぽい小説ではありませんし、冒頭のような高揚した文章が延々続くわけでもありませんので、その点はどうぞご安心を。どちらかというと、平易・明晰な文章で、読者をぐいぐい引き付けていくのが、世界的ストーリーテラー ゴーシュの持ち味です。
人の言葉で表現できないものを表現しようとしている言葉を翻訳するのはなかなか難しいことですが、私も、著者の・登場人物たちの「言葉」への強い思いに引きずられるようにして、このプロジェクトに取り組んできました。ご支援いただいた皆様の期待に応えられるよう、最後まで精いっぱいベストを尽くしていきます。
皆様の新しい年が、良い言葉と良い出会いに満ちた、希望に満ちたものになりますように。
2023年元旦 訳者