昨年末、会社をつくったばかりのときに、私の実家から、本菱の図面と刻印が見つかって、一緒に会社を起こした相方から、大反対を喰らいながらも、やることになった話を書きました。私も単に酒をつくるのであれば、やろうとも思いませんでした。なぜなら、それは単なるうちの実家(=深澤家)のエゴに他ならないからです。どんな理由か知りませんが、120年前に確実に蔵はなくなっています。つまり事業としてみれば淘汰されたわけです。私がつくった会社は「むすび株式会社」と言い、企業のブランディング(戦略づくりや戦術づくり)から、ネーミング、スローガンをはじめ、ホームページや会社案内、広告などをつくる会社です。https://www.musubi-inc.co.jp/採用ブランディングを日本で初めてつくった会社でもあります。本菱を復活させようとおもったときに、会社の事業としてやろうと思って、相方にも相談したわけです。なぜか。それはずっとクライアントのある仕事をしてきた私からすると、仕入れを行い、在庫があり、それを販売するという基本的な商売の枠組みを経験したことは当然なく、本菱を事業とすることで自社のクライアントへの理解を深めていくことができる。そう考えたのです。つまり、ブランディングの実践研究の場と位置づければ、自社にとっても実りあるものと思いました。製造業では必ず研究開発部門がありますよね。その発想です。ブランディングを支援していると、必ずしもその理論通りに事は運びません。必ずその企業ごとに事情があり、そこにあわせて進めざるを得ないことがあります。しかし、本菱を自社で取り組む、研究開発でやるということであれば、理論通りにやっていくことが可能です。つまり「ブランディングを理論通りに進めたら、新規ブランドは本当にできるのか?」そんな命題が本当に証明されるのか、試してみよう。そんなお題を立てました。だから自社の事業としてやろうと。最終的には相方も納得してくれました。そして、最初の3年間は少しずつながらも、順調に生産本数を増やしてきました。しかし、このコロナ禍で本当にこの2年半、販売は低迷し、不本意ながら減産も経験しました。商売の厳しさを経験しました。でも少しずつ取り扱ってくれているお店は増えています。累計で言えばこれまでで30店舗近くはあるでしょうか。https://www.musubi-inc.co.jp/2020/09/11/%e6%9c%ac%e8%8f%b1%e3%81%8c%e9%a3%b2%e3%82%81%e3%82%8b%e3%81%8a%e5%ba%97%ef%bc%882021-11-19%e7%8f%be%e5%9c%a8%ef%bc%89/取り扱ってくれる店もゼロからの開拓でした。じわじわ、地道に活動する。そんなこれまでの6年間でした。
まちいくふじかわプロジェクトの深澤です。実家から本菱の刻印と蔵の図面が見つかった話を前回しました。そのとき、とても背中を押された気分になったものですが、なぜそんな気持ちになったのか。自分で分析してみたことがありました。私は地元は山梨県富士川町(旧鰍沢町)ですが、今は、東京で会社を経営しています。独立したときにつくった会社です。私は広告畑を歩んできており、ずっとコピーライターをしてきました。いつしか企業のブランディングをサポートする仕事も行うようになりました。つくった会社はまさにそれを行う会社です。実は「ブランド」の語源は諸説ありますが、「burnd」=焼印から来ていると言われています。本菱の刻印が見つかったときには、「自分のルーツの刻印がみつかったということは、 それをやれってことなのかな」と自分なりに意味付けをしていたんですね。またどこか半信半疑だった実家が酒蔵だったことも、三畳分くらいある江戸時代の蔵の図面を見せられご先祖さまに「どうだ!」と証拠を見せつけられた気分に正直なりました。「お前、ここで動かなかったら、深澤の人間じゃないぞ」そんなふうにさえ当時、思ったものです。しかも当時のお酒の生産量(石高)を調べると(なんと税務署に記録が残っているのです!)最盛期には町で2番めに生産量が多かったこともわかりました。・独立した(自由になった)・ブランディングの仕事をしてきた(これからもする)・自分のルーツの刻印がみつかった・町の歴史にも即している(=酒蔵が多かった)「お前が(一人っ子のくせに)実家を離れているのであれば、 今まで培ったそのスキルで多少は町に貢献しなさい」そんなふうに言われているのだ、と勝手に解釈し、「地域×ブランディングで、実践的に研究しながら、 ブランディング自体の発展にも寄与できるんじゃないか」なんて思ってやろうと決意しました。.....が、しかし、会社を一緒につくった相方からは、散々「なぜ今なんだ!」、「もっと金ができてからでもいいじゃないか!」などと大反対されるわけです。今思えばあたりまえのことです。私としてはとくに私心があるわけでもなく、上記の理由を切々と訴えて、頭を下げてやることになりました。というよりも、今更120年前になくなった酒を復活させるわけですから、単に復活させるだけでは、面白みも意味もないわけです。それこそ深澤家のエゴ以外何モノでもないですからね。次の課題は、じゃあどうやって進めるのか?ということ。自分の実家では酒は作れませんし(もう蔵元機能はゼロです)、ツテも、ノウハウもありません。お酒の販売すらしたことはありません。文字通り、ゼロから考えるしかありませんでした。
はじめまして。まちいくふじかわプロジェクトの発起人代表の深澤です。また今年も山梨県富士川町との桜オーナーのクラウドファンディングの季節がやってきました。このクラウドファンディングの元は、リターンにも設定させていただいている本菱です。本文中にも記載させていただいておりますが、本菱には大法師公園の桜と、ダイヤモンド富士をモチーフにマークをあしらっており、それをもとに、地元自治体、山梨県富士川町に全面協力をいただき、桜の名所百選に選ばれている名所に、自分の桜を植樹できる権利を、クラウドファンディングさせていただいております。今年で5回目です。毎年この時期に、クラウドファンディングでしか募集していません。さて、この本菱は、実は私の実家で120年以上前につくられていたお酒です。そうです。私は世が世なら蔵元でした。実は親戚中からそう言って育てられました(笑)。小さい頃はなんとも思っていませんでしたが、今思えば、継げるものなら継ぎたかった、というのが正直なところです。もちろんこの新型コロナウイルスで大変な苦労はしたでしょうが...。ちょうど約8年前。わたしがこのプロジェクトを立ち上げるきっかけになった出来事があります。会社員から独立したちょうどその頃。タイミングを見計らったかのように、家の押し入れから本菱の「刻印」と江戸時代につくられた蔵の図面が見つかったのです。正確には私が見つけたのではなく、父が押し入れからみつけてきたもの。蔵元のはずだったというと、たいそう広い家を想像するかもしれませんが、すでになくなった酒蔵ですから、それなりの理由があったようで、記録を見るに、土地が切り売りされており、私の実家の家もそれはそれは小さなものなのです。ちょうど独立したタイミングということもあり、「なぜ、今、このタイミングで!?」というのが商事なところでしたが、「なにかやりなさい」と不思議に背中を押された気分に当時なったものです。山梨県富士川町は、江戸時代、京都の豪商・角倉了以が徳川家康に命じられて開削された富士川舟運で栄えた物流の拠点。(ちなみに角倉了以は歴史の教科書に載っています)山梨や長野の年貢米が集まったことから、酒蔵が多く、本菱もその中のひとつでした。町の歴史にも即していますし、「自分の地元や家を題材に地域活性としてやってみよう!」そんな思いで、2015年のちょうど今ころから、Makuakeにて本菱の復活プロジェクトのクラウドファンディングを行いました。こちらは当時のプロジェクトページです。https://www.makuake.com/project/machiikufujikawa/